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信じるあなたは、何を信じたいのか?


noteには、いろいろな記事があります。
日常的な感想や自身の体験談は別にして、
国際情勢やオカルトや陰謀情報やニュースやスピ系など、総じて言えるのは、発信する情報は信じられる根拠はない、ということです。
(「どの口が言う!」というお声はおいといて)

どこかが発信したことの又聞き、単なる個人的な見解の域、自身の経験でも先入観で真実である保証はありません。
しかし、発信する人の隠し切れない人間性や語り口で、その人の信じている部分が出てくると思います。


こういう風に考えるとき思い出すのが、
デカルトの「我思う故に我在り」。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、概要コピぺします。
「すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない。」
私なりに言うと、
何かを信じても、それを信じているのではなく、それを信じる自分を信じている。
何かを信じなくても、それが信じられないではなく、それを信じない自分を信じている。
何かを信じる自分から逃れられない。
自信がない!…という自分を信じている。

つまり、意識する自分の存在を疑うことはできない。
意識なんて無いという意識を持っている。
意識で自分の現実を作っていない、という意識の現実を作っている。
真実は何か、ではなく、人の数だけ真実があるのは、その人の信じることはその人だけになるからでしょう。
DV被害の女性が「彼を信じているの!」は、
彼を信じているのではなく、
彼を信じている自分を信じたい自分を信じている。

信じることが連続性ある線形に変わるのではなく、ただ瞬間瞬間に信じることが非線形性に選択されるのでしょう。
信じる自分を信じている。
そんな信じる自分を信じている。
そういう信じる自分を信じている。
……。
という同心円状の奥底が大いなるスピリットかもしれません。
わかんないけど。
わかんないという自分を信じている。
キリないですね。

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