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君主道徳と奴隷道徳のアセンションした一人二役の超人


ニーチェは、「君主道徳」と「奴隷道徳」に分類しました。
君主道徳は、自己肯定、傲慢、主動など。
奴隷道徳は、自己否定、謙遜、慈悲など。
人の考えはこの二種類の道徳の闘争で作られているとニーチェは述べます。
以下は私解釈の例です。


(君主道徳) ↔︎ (奴隷道徳)

好きなことで成功したい ↔︎ 穏やかな日常でいたい

都会で豪華に生きたい ↔︎ 地方で質素に生きたい

仲間とワイワイしたい ↔︎ 1人の時間を大事にしたい

チヤホヤされてモテたい ↔︎ 大事な人だけといたい

金持ちで好きに使いたい ↔︎ お金を大事にしたい

欲を何でも叶えたい ↔︎ 欲に振り回されずにいたい

広く人気で売れたい ↔︎ 分かる人に売れたい


多くの人は、2つの相反する道徳観を同時に持っていたり、揺らいだりしています。
また、あることには君主道徳な考えで、あることには奴隷道徳な考えでいるのもあるでしょう。
実はスピリチャルに親和的な人ほど揺れているのではないかと思うのです。

社会に揉まれる中で、「奴隷道徳」な自分に気づき、チャネリング情報で「君主道徳」な自分でもかまわないと知りました。
しかし、どっちの自分か揺れたりして、自分を見失ってしまう感じになるかもしれません。
「もう働きたくなくてのんびり暮らしたい。だけど贅沢な暮らしする欲も肯定されている。どしたらいいの?」とか、「人に振り回されるのはもうイヤ、だけど気の合うたくさんの人とも楽しそう」とか、君主道徳と奴隷道徳のどっちつかずになったりします。

もちろん、君主道徳と奴隷道徳を同時に持っても矛盾しないのが高次元の教えです。
アシュタールさんは欲にも肯定して、のんびり生活もオススメしてます。
ここで、どちらかに偏る思い込みがあるのかもしれません。

一般的な道徳である奴隷道徳に陥っている人を、ニーチェはルサンチマンと呼びます。
大抵の人は揺らいで、ただ生きてるだけの人・「末人」になります。
嘆いて苦しみ、前に進みません。
だからこそ「超人」として生きるべきだとニーチェは言います。

ただし、ニーチェの「超人」に明確な定義はありません。
超人といえば、覚醒とか悟りとかアセンションな感じがします。
アセンションにも明確な定義はありません。
以前に私がアシュタールさんに質問したりして、愛の割合が高まることと教えてくれてます。
「愛の割合が高まる」とは、明確な定義ともいえますし、もっと抽象度が上がってむしろつかめない感じもします。


ニーチェは言ってることはカッコよかったり、他の哲学者を超えた視点があったりします。
しかし本人のエピソードを見ると、自身は残念な性格と人生だったようです。
くっきりと君主道徳と奴隷道徳の自分を分類したりすると、明確な思考のようでいて逆に残念な人生になるかもしれません。

愛の割合が高まる明確な定義よりも、自分が君主であり奴隷である都合が良い設定でイイかもしれません。

奴隷を使う君主、の様に、
自分を使う自分、
こんな一人二役をこなす名俳優が、高い愛の割合かも。
自分を奴隷にした自分が、君主のようで自分に奴隷にしてる自分。
こんがらがるぐらいな役で良いのでしょう。


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