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モナリザ判事から、男と女と第3の性のダヴィンチコードへの最高裁判決

最高裁判所は先日、戸籍上の性別の変更に、生殖能力を失わせる手術は違憲だとしました。自らの判決を撤回です。近い将来、性別は自己申告になる論理です。
これに賛否両論があります。
もしかしたら、男女が2種類なのが問題かもしれません。

この世に、男と女があるのはなぜでしょう。
2種類ではなく3種類でもよかったです
xmanとymanとzmanとか。
男女の二元論だから、ぶつかります。2面は対立を現します。
三位一体なら三すくみで程よい関係性が成立し均衡があったかもしれません。
男と女とオカマじゃダメですよ。それも二元論のベースであります。



レオナルド・ダヴィンチが描いた絵画、モナリザがあります。
モナリザは男なのか女なのか議論が分かれてます。
そして、モナリザの絵はスフマートと呼ばれる手法で輪郭線をぼやかした陰影で描かれてます。
自然は輪郭線はない、だから光と影で描くダヴィンチの主張です。後の西洋画に影響を与え、光と影の多くの傑作が生まれました。
一方、日本画は線で描きます。この線画による輪郭線で存在が明確になり、デフォルメが進んでマンガに発展したと考えられてます。


話を戻しまして、実はダヴィンチは同性愛者で、だからこそモナリザを中性的に描いたとされる説が有力だそうです。
中性とは、男と女の輪郭線をなくす、3つの性の存在で、輪郭線がぼやかされた柔らかい関係性が成立するかもしれません。

輪郭線の是非とは何か、考えたらこの世の理にも言える気がします。
線画で描くことによってデフォルメになる。現代社会が明確になって、男と女と分かれるような差を作ることで、体験が浮き彫りになる。
自分と他人が明確になってなければ、体験も曖昧なまま実感も曖昧なまま、喜びも苦しみも曖昧なまま人生が終わったかもしれません。
日々の思考に輪郭線があることで、明確な悩みが生まれ、何か行動する輪郭が出来るこの世になる気もします。
その体験を基にして、高次の世界は輪郭線がない中でも自分が存在しながら他者でもある存在を実感するかもしれません。

この世に裁判がありシロクロつけるのは、人と人との輪郭線がある故ですね。
輪郭線のないモナリザを描き、相手と自分から争点を無くすことがレオナルド・ダヴィンチの主張です。ハイ、私の捏造です。


ダヴィンチ・コードとか、その他の陰謀論が多くてやけに神格化され、ダヴィンチもあの世で戸惑っているかもしれませんが、今回のような人を深読みさせる題材を残してくれた人ですね。
それまでは人物像は外面的な美しさを描いてましたが、ダヴィンチは内部的な人体構造から考えた造形美を表現した点が評価されてます。
人が感覚で思ってた美しい姿を、機能から形作られている美しさを見出したと思ってます。
新たな視点を持つことこそが芸術的です。作品は結果でしかないのではないでしょうか。

などと作品数が少ないダヴィンチの代弁をいたしました。代弁と書こうとしたら大便と変換されました。それも間違ってないかも。

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