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人生から問われている「夜と霧」。 強制収容所から見える妻の姿


カントの記事の中でチラッと出した、フランクルの「夜と霧」について気になりまして、今となって考え直してみます。

ナチスによるユダヤ人強制収容所から偶然に生還したヴィクトール・フランクル。収容所での絶望的な環境の中、ユダヤ人たちが何を見い出したか、人生とは何かを問う内容です。
だいぶ前に読んだので、中身の描写は忘れましたが、肝心の部分がずっと気になって記憶に残ってます。


極限状況下において、絶望の中にも誰にも奪われない、自分の在り方を決める自由がある。
どんな状況であれ、在る姿勢を自分で選ぶことができる、誰にも奪えない、人間の最後の自由。
人が人生に何を求めるのかではなく、人生がその人に何を求めるか、人間は人生から問い掛けられている。どんなに人生に絶望しようとも、人生があなたに絶望することは決してない。


このような内容だと思います。
改めてネットの解説の文章などを読みましたが、訳も微妙に違うし、だいぶ私の解釈が入った記憶かもしれません。
解説では色々言ってます。

「絶望的な環境の中で希望を失わない」
「人生は毎日毎時、問いを立てかけてくるのである。その問いに我々は応えなければならない」
「我々は人生の意味とは何?と問うが、そうではなく、人生の問いに行為と正しい態度によって応答責任を負っている」
「人生からくる問いは、神からの問いかけである。フランクルは熱心なユダヤ教徒で、人は神の前で人生というステージに立っている」


などなどと解説されてます。
これが正しい解釈なのかもしれませんし、作者の意図かどうかも分かりません。
しかし、私なりに今の考えで、この肝心な部分を考えてみたいと思います。

人生とは自分の総合体であり、人はその総合体の一瞬一瞬の切れ端である気がします。
人が自分の人生とは何なのかと考えても、一瞬一瞬の総称である人生からは、考えている自分を見つめているだけでわかるわけありません。
総合体の自分がそれぞれの一瞬一瞬の在り方で相互的に作られています。
苦しい絶望する自分の在り方で総合体を生成しているのだから、問いという名の一瞬の自分を見つめているに過ぎないのでしょう。
見つめられた一瞬の自分が、総合体の一瞬である認識になったとき、問われながら問いていることに気づいていくのです。それが、一瞬の自分が次の一瞬になることでしょう。


だいぶ自分の解釈になりました。
フランクルから、ちげーよと言われるかもしれません。
人生から問われている。
この視点だけで、人生を問いている自分から新しい考えができるかもしれませんよ。


ここまで書いた後、解説のサイトを見て、重要なエピソードを思い出しました。

フランクルと新婚間もないその妻は、別々の収容所に移送された。
極限の状況の中、ふと妻の安否を感じた瞬間、妻の姿がまざまざと浮かんだ。
妻が微笑むのが見えた。励ますのが見えた。

強制収容所でみな苦しみ、クリスマスには解放されると夢でお告げを受けたと信じて、かなえられなかった人たちは、急速に抵抗力を失い、命を落としていった。
だからこそ、生きる意味に目を向けるように、仲間に話しかけた。人には決して奪われぬものがある、運命に対する態度を決める自由だ。

解放後、妻が死亡していたことを知る。

『フランクル「夜と霧」への旅』


私の解釈なんて、どーでもいいです。


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