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自分なりの解釈ですが、同性婚訴訟の意味を知ってほしい

令和3年3月17日水曜日

この日は自分にとって、とても印象的な1日になった。

これはNHKウェブニュースからの一部の引用です。

札幌地方裁判所は「合理的な根拠を欠いた差別的な扱いだ」として法の下の平等を定めた憲法に違反するという初めての判断を示しました。 


日本においての同性婚が現実になるかもしれない

そんな希望を与えてくれた一日です。


世界では同性婚が認められつつある世の中になったけど、

日本はそれとは違う保守的な道を進んできました。


ストレートな方々(異性愛者)はきっと考えることはないと思います。


何故かわからないけどゲイとして生まれた。

なんど「女性を愛することができたら、きっと自分も幸せになれるかもしれない」、そう思って

頑張って女性を愛そうとしたか、、

だけど、どう頑張っても女性を恋愛対象として見ることができなかった。

何度も兄のポルノをこそっと見ても、女性ではなく男性に興奮してしまう、

男性がいてるから目がいくんだ、だから男性がでないレズビアンのポルノを見て、女性はかわいい、抱いてみたいそう思うようにしたら良いんだ

けれど、結局なんの感情もわかなくて

自己暗示で同性愛は気持ち悪い、駄目なこと、
そう何度念じても無理だった


どうすることもできない、何故かわからない、

治すこともできない、治療法すらない(もちろん病気ではないから無理なんですが)


生まれて自分の性的志向を改めて確信したとき、

どんなに絶望して、高校生の時に死にたいと思いながら、

だけど悟られないように

『ノンケのフリをして』、周りにバレないように合わせながら、好きになっても可能性のない片想いに苦悩しながら、両親には高校生活をエンジョイしてるようにみせながら

何で神様はこんな風に自分を作ったんだ、と

怒りの矛先を神様にしか向けることしかできなかった学生時代


きっとストレートな方には想像もつかないと思います。
もちろん当然なことだと思いますが


今でも僕の高校時代と同じように悩んでいる学生はいてます。

そして、僕よりも上の世代も同じような悩みを抱えながら時代を生きてきたと思います。


みんなきっと同じなんです。

何故かわからないけど、望んでもいないけど、LGBTQとして生まれた人は

みんなこの課せられた宿命とともに生きている、

烙印です。


こんな烙印を押されながらも

どうすることもできない現実に苦しみながらも

生きようとするのは、

少しの希望を見ているからです。


好きな人と一緒に幸せになりたい

子供を持つことは至難かもしれないが、もしかしたら自分も親になれるかもしれない

自分の性的志向を堂々と言える世の中が来るかもしれない


まだまだありますが、こんな「〜かもしれない」という希望を持つことが僕の生きる原動力です。


大金持ちになりたい訳ではありませんし、有名人になりたい訳でもありません。

ただ、


ただ、


普通に好きな人と堂々と暮らしていきたいだけです。


LGBTQとして生まれた時点で


この「普通の暮らし」に制限をかけられます。



アンチの人は沢山いてます。


同性婚という選択がなくても

普通に生きることはできるでしょ。

同性同士が結婚?

子供の成長に悪影響


同性婚ができると犯罪が増える

永住目的の違法労働者が増える


子供作れない同性愛に支援する必要はない


アンチの言葉をあげればきりがありません。


めちゃくちゃ凹みます、こういう言葉は。


この人たちにとって、同性婚=悪

これは、同性愛者の僕は悪人で不完全な人間

そう言われているような気持ちになります。


こんな怖い世の中で

堂々と生きれる訳がありません。




だけど、日本として

同性婚が認められたならば

法律が同性婚を認めたならば


僕らはおかしいんじゃない

法律でも認められているんだ


そう言える日が来るかもしれません。



同性婚訴訟は利益を求めた訴訟ではありません。

お金目当てでもありません。

ただ、LGBTQというだけで

みんなと同じような

幸せを夢みた暮らし

という選択肢を奪わないでください。



マイノリティーな人間は

影に隠れながら生きていけば良い

そう思わないでください。



同性婚訴訟にはLGBTQのいろいろな想いが詰まっている裁判だと思う


ただ、共通するのは


異性ではないけれど


大切な相手と安心して暮らしていける世の中になって欲しい


そういう希望が集まった裁判なんだ


そう思います。



この記事を書いて

いろんな感情が湧きました。

もちろん僕の個人的な解釈なので、賛否はあると思います。

それでも書きたいと思いました。

拙い文章ですいません。








































多様性、この言葉が少しずつ認められてきているけど、


ほんの少しです、まだまだ少しだけです。




























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