物部麁鹿火

こんにちは、某です。名古屋人ですが東京・京都・奈良・静岡の方が土地勘があります。基本的…

物部麁鹿火

こんにちは、某です。名古屋人ですが東京・京都・奈良・静岡の方が土地勘があります。基本的に欧州の歴史を書きます。

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    通史としてまとめる。王、皇帝を中心に

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    通史としてまとめる。王を中心に

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吉野探訪 ~後醍醐天皇を追う~

♪花は吉野に嵐吹く~♪と有名な軍歌の一節にもあるように明治から桜の名所として吉野は有名だった事が窺えます。ただ語弊を生むかも知れませんがただ桜の名所と言うだけでは現在における知名度はなかったと考えます。それは南朝(吉野朝)の存在が大きかったのではないかと思われます。 金峯山寺まず電車を利用して吉野に訪れる人は近鉄吉野駅で下車する場合が多いと思われます。そして日本で最古の吉野ロープウェイに乗り一路金峯山寺を目指します。 ロープウェイから降りて少し歩くと金峯山寺蔵王堂が見える

    • ドイツ史⑧ハプスブルク大帝国

      アルプレヒト2世ジギスムントが死去しルクセンブルク家が断絶し、継いだ者はハプスブルク家アルプレヒト2世です。たどればアルブレヒト以来130年ぶりのハプスブルク家の皇帝なので久しぶりですね。アルプレヒトはジギスムントの一人娘エリーザベトと婚約しており、ジギムントが嫡男を残さず死去したことでボヘミア王位とハンガリー王位を獲得しますが、しかしボヘミアは反乱が多く、実効支配はできず、さらにオスマンとの戦いで戦死してしまいます。在位期間一年とあっという間でした。 フリードリヒ3世

      • ドイツ史⑦金印詔勅

        カール4世前半 カール4世 結構知られている人物なので出生から追っていきます。 1316年ボヘミア王ヨハンの子として生まれます。父がフランスと仲が良かったこと、国内が荒れていたことからカールの養育はフランス王宮に任されることになります。この時に教師としてカールにラテン語を教えたのが後のクレメンス6世であり、後々登場してきます。この生活はカール自身にとっては有益なものであり教養のある後継ぎとして成長します。これはフリードリヒ2世と似ていますね。 1333年から父の代理と

        • 明日香村探訪 ~古の都の今を見る~

          明日香と言えば飛鳥→飛鳥時代を連想しますが、専ら飛鳥時代と言えば法隆寺がある斑鳩町が飛鳥時代を象徴とする場所として知られており、修学旅行を含めれば訪れた人は多くいるのではないでしょうか。しかし飛鳥時代の中心地は現在の明日香村地方であり皇居も明日香村に点在していました。今回は基本的には645年大化の改新付近の出来事、名所を追っていきます。 檜隈大内陵 写真はこれしかありませんでした。 橿原神宮前駅から吉野方面の電車に乗り明日香村駅に到着します。そこまで離れていないのでアク

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        吉野探訪 ~後醍醐天皇を追う~

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          フランス通史② カロリング朝

          小ピピン 小ピピン 716年にアウストラシア(メッス)の宮宰カール・マルテルが分国すべて宮宰につくことで王国全土の実権が広がり732年トゥール・ポワティエの戦いでイスラム勢力を撃退することで権力確立しその子、小ピピン(ピピン三世)がメロウィング朝の最後の王キルデリク3世を幽閉し諸侯から推薦される形で国王となります(751~768)。カロリング朝の始まりです。ちなみにカロリングとは当時のフランク人には姓がなかったため「カールの」という意味の言葉から当てられています。その後教

          フランス通史② カロリング朝

          フランス史① ~メロウィング朝

          黎明期(~466) ドルイドの恰好 言い換えるならばマーリンの恰好です フランスの土地に最初に住み着いたのはケルト系の民族が紀元前5世紀ごろに定住するところからフランス史というよりは現在のフランスの土地の歴史が始まります。ケルト系の宗教はドルイド教という宗教であり、多神教でアニミズム的なものに近いとされています。ただケルト系の民族だけが定住していたわけではなく、ギリシャの植民地がフランス南部には存在し代表的なのはマルセイユやニースなどが有名です。 紀元前58年から51年

          フランス史① ~メロウィング朝

          ドイツ史⑥ ルクセンブルク家の登場

          簡単年表 1298年 アルプレヒト1世 ドイツ王即位 1308年 ハインリヒ7世ドイツ王即位 1312年ハインリヒ7世皇帝即位 1314年ルートビッヒ4世ドイツ王即位 1328年 ルートビッヒ4世皇帝即位 1347年 死去 アルプレヒト1世 頭とっつかまれてるのがアルプレヒトだと思う 結局王位はハプスブルク家へと戻りルドルフの長男アルプレヒト1世が王位に即きます。アルプレヒトと言えばやはりスイスの悪政を語られることが多い。スイスはハプスブルク家はかつての本領

          ドイツ史⑥ ルクセンブルク家の登場

          ドイツ史⑤ 大空位時代

          簡単年表 1250年 フリードリヒ2世死去 1273年 ルドルフ選出 1278年 マルヒフェルトの戦い 1291年 ルドルフ死去 大空位時代 ウイレム フリードリヒ2世以降は一つの王国に二人の王が立ち誰も皇帝として認められなかった大空位時代を迎えます。期間はフリードリヒ2世が死去した1250年から1273年にハプスブルク家のルドルフがドイツ王になるまでとされています。経過としてフリードリヒ2世がイノケンティウス4世により破門・皇帝廃位されたことによりチューリンゲ

          ドイツ史⑤ 大空位時代

          ドイツ史④ シュタウフェン朝

          簡単年表 1138年コンラート3世シュタウフェン朝開く 1152年フリードリヒ1世即位 1215年フリードリヒ2世 1220年政界諸侯との協定 1231年諸侯の利益のための協定 1254年コンラート4世を最後に断絶 フリードリヒ以前 ハインリヒ5世は嫡子ができない理由は父を裏切ったからであると考え王位をシュタウフェン家に王位を譲ることになります。シュタウフェン家はハインリヒ4世にとって数少ない味方であり対立王としていたシュヴァーベン公が死去するとシュヴァーベン

          ドイツ史④ シュタウフェン朝

          ドイツ史③ザーリア朝

          コンラート2世 1024年にザクセン朝が断絶しオットー1世の娘の血を引くライン・フランケン公コンラート2世がザーリア朝を開きます。王権拡大の皇帝。フランケン公はバイエルン北部とマイン川周辺のフランケン地方を基盤でした。イタリア領を再確立し相続協定で一部フランス領であったブルグンドを獲得します。ここでローマ帝国と命名することになります。神聖はまだお預け。 ブルグンド王国って? ゲルマン民族大移動の際に建国。フン族に滅ぼされたがサボア地方で再建。グンドバド王の時最盛期でブルグン

          ドイツ史③ザーリア朝

          ドイツ通史② ザクセン朝

          簡単年表②911年 コンラート1世選出 919年 ハインリヒ1世選出 962年 オットー戴冠 1024年 断絶 オットー前 繰り返しになるがカロリング朝断絶から追っていきたい。 東フランク王国のカロリング家が断絶した後言わば世襲選挙王朝制度が誕生する。これは一見矛盾したように見えるがこれは王自ら後継者指名ができるけどその王に嫡子がいなかったら選挙して次の王を決めるよという王国の安定を目的とするものだった。安定を目的とするため悪帝の血筋だったら選挙で落とすことも稀にある

          ドイツ通史② ザクセン朝

          ドイツ史① フランク王国

          簡単年表①紀元前3世紀 ゲルマン民族進出 9年 トイトブルクの森の戦い 375年 ゲルマン民族大移動開始 476年西ローマ帝国滅亡 481年フランク王国誕生 751年カロリング朝が開く 800年カールの戴冠 843年ヴェルダン条約 870年メルセン条約 911年東フランク王国 カロリング朝断絶 919年ザクセン朝が開く 黎明期紀元前3世紀ごろにバルト海より南下してきたゲルマン民族が先住民であるケルト民族を追い出しローマ人がゲルマニアと呼んだ地域であるライ

          ドイツ史① フランク王国