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ドイツ史④ シュタウフェン朝


簡単年表


1138年コンラート3世シュタウフェン朝開く

1152年フリードリヒ1世即位

1215年フリードリヒ2世

1220年政界諸侯との協定

1231年諸侯の利益のための協定

1254年コンラート4世を最後に断絶


フリードリヒ以前


ハインリヒ5世は嫡子ができない理由は父を裏切ったからであると考え王位をシュタウフェン家に王位を譲ることになります。シュタウフェン家はハインリヒ4世にとって数少ない味方であり対立王としていたシュヴァーベン公が死去するとシュヴァーベン公領を与えてられていました。まぁ有力な所領はこれだけですけど…。またハインリヒ4世は娘アグネスを嫁がせてその子長子フリードリヒ独眼公はシュヴァーベン公、次子コンラートはフランケン公に任じられザーリア朝を支えます。ハインリヒ5世が死去しザーリア朝が途絶えハインリヒ5世の言いつけ通りシュタウフェン家に王位が譲られると思われたが王権拡大を嫌った諸侯は1106年からザクセン公となっていたズップリンゲンベルク家ロタールを選出したことで内乱が起こります。結局ザクセン公のロタールが国王に選ばれることになりロタール3世となります。しかしロタール3世のズップリンゲンベルク朝は一代で途絶えてしまいます。ロタールの死後ロタールの娘婿ハインリヒ傲慢公が名乗りを上げます。あのヴェルフェン家の当主であった。ヴェルフェン家はハインリヒ4世から与えられたバイエルン公領に加えロタール3世が残したザクセン公も所領としていました。これでは皇帝としては強すぎると考えた諸侯はシュタウフェン家コンラート3世を王につけ、シュタウフェン朝が開かれます。同時にシュタウフェン家とヴェルフェン家の対立が生まれヴェルフェン家はイタリアの反皇帝勢力と手を組み13世紀に入ると起こる皇帝派(ギベリン派)と教皇派(ゲルフ派)となります。コンラートは後継者指名において自分の息子ではなく兄の子であるフリードリヒ1世を指名します。これはフリードリヒの資質を見抜いていたからであると考えられます。

フリードリヒ1世(バルバロッサ)

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このフリードリヒはフリードリヒ独眼公の長子でありすなわちコンラート3世は叔父にあたります。母方の叔父もハインリヒ傲慢公であると血脈から言えば文句がない。さらに王として資質もあり人々からバルバロッサと呼ばれます。バルバロッサはイタリア語で赤ひげという意味です。バルバロッサは皇帝による世界支配を追い基本的にイタリアに侵攻していきます。フリードリヒ1世はブルグンドを再獲得しイタリアに遠征したが教皇と北イタリアの諸都市が結成したロンバルディア諸都市が抵抗します。

ロンバルディアとはミラノ付近の地域でピピンが寄進を行ったランコバルト王国がその名の由来となります。ロンバルディア諸都市は栄えておりその中のミラノは反皇帝派でした。このミラノに宗主権を認めさせるためイタリアに遠征を行います。初回の遠征はそこまでの戦果は上げられませんでしたがそれよりも注目すべきはヴェルフェン家ハインリヒ獅子公が味方になっていたことにあります。さかのぼることになりますがコンラート3世は獅子公の父ハインリヒ傲慢公からバイエルン公領を奪いバーベンベルク家に与えていました。しかし皇帝への献身によりバーベンベルク家のハインリヒ宣誓公にバイエルン公領を返還させ獅子公に与えます。バーベンベルク家への処遇はバイエルンから切り離されたオーストリアを新公爵領としてバーベンベルク家ヤソミルゴットに与えた。これによりオーストリア公爵領が誕生します。実は当時バイエルン公領はオーストリアの北部も含んでいたのだ。さらにこの新公爵領はバーベンベルク家世襲領であり女子にも相続を認めます。それが後に問題となるが…。ともかくドイツの問題を解決したうえでイタリア遠征を再開させます。1158年にはボヘミアやハンガリーも味方につけミラノを降伏させ、これによりロンバルディア地方の諸都市は国王大権の承認させることになります。しかし国王大権をいちいち行使して統治するのは面倒とみたバルバロッサは国王大権を放棄させる代わりに高額な上納金を設定します。この上納金に反対するロンバルディア都市とヴェロナ市が同盟を組みロンバルディア同盟が誕生します。また教皇が新しく登位したアレクサンドル3世は皇帝と対立したこともあり勢力が強くなります。バルバロッサは再度イタリア遠征を行いミラノを破壊しますが抵抗はやむことはありませんでした。さらにドイツ国内でもハインリヒ獅子公がイタリア遠征の参加を渋るようになりその他の諸侯もそれに倣うようになります。バルバロッサは当時主流ではなかった傭兵を起用し第四次イタリア遠征を行います。しかし傭兵ということもありロンバルディア同盟に大敗してしまいます。この大敗の原因はハインリヒ獅子公にあるとして獅子公を帝国追放させます。獅子公は義父のイングランド王ヘンリ二世のもとに行くことになります。さらに公爵領、伯爵領の整理を行い諸侯の数を減らし、イタリア遠征での失敗があったにもかかわらずバルバロッサの名声は上がりました。教皇とはハインリヒ5世から始まる和解政策を憎み特にイギリス生まれのハドリアヌス4世に臣下の礼をとったことを屈辱と思っていました。ハドリアヌス4世はフリードリヒが臣下の礼を取ったこともあり帝国は教皇の封土であるとまで宣言しました。ここでバルバロッサは怒り反教皇政策をすることになります。教皇には世俗権力に介入できないとし皇帝は神から直接統治を委ねられているとして神聖帝国と命名します。ここで神聖という文言が登場することになります。ハドリアヌスの後のアレクサンドル3世に対して二人の教皇を立てて戦ったが、アレクサンドルはミラノ市民の避難所としてアレクサンドリアを建設しレニャーノの戦いで教皇軍が勝ち和解することになります。ここで神聖帝国という言葉は残りますが神聖ローマ帝国という名称はバルバロッサの時代の公式文書には記録されていません。ローマ帝国としては道半ばであったと考えたからであろうか。第三回十字軍に参加したがその最中に死去してしまう。最終的にイタリア王としても戴冠しておりドイツ・イタリア・ブルグンドで三回戴冠した始めての皇帝になりました。

フリードリヒ2世

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バルバロッサの後を継いだハインリヒ6世はナポリ・シチリア両王国ルッジェーロ2世の娘コンスタンツァを后に迎えます。この両王国はグリエルモ2世を最後に嫡子が生まれずコンスタンツァが唯一の相続人となっていました。つまりナポリ・シチリア両王国もシュタウフェン家のものになるということです。よってハインリヒはシチリア両王となります。このシチリア王になるのも実際はかなりの血が流れることにはなりました。

このような状況の中ハインリヒ6世が若いうち死去したことで事態は動き始めます。シュヴァーベン公フィリップはハインリヒ6世の息子3歳のフリードリヒ2世をドイツ王に立て実権を握りイタリア支配をするつもりでありました。またシチリアではシュタウフェン家の家士であったシチリアのラヴェンナ公マウクヴァルトがシチリア支配のための傀儡としてフリードリヒを欲していました。ここで母コンスタンツァは教皇の意見を踏まえシュヴァーベン公フィリップがドイツ王に即くことを認める代わりにフリードリヒ2世をシチリア両王位につかせます。しかしシュヴァーベン公はヴィッテルスバッハ家オットー8世により暗殺されます。またその際ハインリヒが嫌がっていたシチリアに対する教皇の宗主権を認めています。コンスタンツァの死後遺書により摂政は教皇イノケンティウスにあるとしました。フリードリヒを教皇に従順な王にするべく教育します。しかし教育が成功しすぎてしまう。フリードリヒは早熟の天才であり色々な事を覚え体力も優れていていました。一方この両王国は無政府状態と言ってもよいほど他国の干渉がひどい状況でした。先述の通りフィリップが死去した事でフリードリヒ2世のドイツ王戴冠を阻止すべく教皇介入のもとヴェルフェン家オットー4世が王となります。ここでシュタウフェン家とヴェルフェン家の対立は再燃します。オットーは対立を優位に進めるためこともあろうことか教皇の宗主権があるシチリアに侵攻します。これでオットーは破門にされドイツ諸侯はオットーの廃位、フリードリヒの推冠を決めます。ここで教皇はシチリア両王位を生まれたばかりのフリードリヒの子ハインリヒに譲位させます。これは帝国とシチリアを分裂させる意図がありました。フリードリヒはオットーがイギリス王ジョン失地王を甥にもつ王でもあったためフランスの援助のもとドイツ王となります。またドイツ王になる際十字軍の参加を表明したためこれには教皇もにっこり、シチリア両王国のハインリヒがドイツに渡ることを許可します。フリードリヒはイノケンティウス3世の死後息子ハインリヒを共同統治としてドイツ王に任じます。ドイツの統治はハインリヒに任せシチリア両王国の再建を目指すことになります。フリードリヒにとっての古郷はシチリアということもあっての事だったのでしょうか。イノケンティウス3世の後を継ぐホノリウス3世はもちろんこれに怒ります。実はホノリウスはフリードリヒを教育した人の一人でした。教皇は破門をちらつかせていたため十字軍するからとフリードリヒ、結局十字軍は行われないままホノリウスは死去します。次グレゴリウス9世が登位することになり仕方なくフリードリヒは十字軍を挙行するが病気蔓延のため帰還することになります。これに対し教皇は仮病だとして再度破門にします。病が癒えたフリードリヒは再度破門のまま十字軍を行います(破門十字軍)。

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会見の様子 左フリードリヒ

今度の十字軍はどんな奴が来るのかアイユーブ朝スルタンが調べるとこりゃ驚いたアラビア語を理解しイスラム文化に造詣が深いではないか!こうして皇帝とスルタンの交際は始まりスルタンは国内統制のためフリードリヒにエルサレムを譲渡、フリードリヒは一戦も交えることなくエルサレムを奪還する。これでエルサレム王として戴冠します。この際もキリストへの改宗を強制せずその他の宗教の共存を許しました。ここで聖界と俗界の分離すなわち教皇の神意に囚われず政治を行うべきだという考えがあったことがわかります。ナポリ大学創設の際にも教皇に関わらない官僚組織を育成するためでありました。またハインリヒの戴冠のためドイツ国内の聖職者との妥協を図ります。教皇庁からほぼ独立した権力を有する大司教や司教を味方にするため教会領の支配権限を認め諸侯とみなす政界諸侯との協約を結びます。さらにドイツ世俗諸侯に対しても貨幣鋳造権、関税徴収権、裁判権といった大幅な特権を与える諸侯の利益のための協定を結びます。これによりドイツは無数の領邦国家となります。これはフリードリヒにとって帝国の基盤はイタリアであったことの証左であろう。このドイツの政策に教皇はもちろんドイツ王ハインリヒ不満を持ちます。ロンバルディア同盟とともに父に反旗を翻すが簡単に鎮圧されてしまう。ハインリヒは自殺したため次子のコンラートをドイツ王に任命します。これに対して教皇は再度フリードリヒを破門にします。しかし公会議へ向かう枢機卿を捕虜とするなど抵抗します。教皇グレゴリウスの後イノケンティウス4世が登位します。教皇はフリードリヒの皇帝廃位を決めフリードリヒに対しての十字軍を結成します。これに対してイタリアやドイツで反乱が増え失意のうちにフリードリヒは死去します。結局孫のコンラディンが処刑され息子のエンツォも獄死しシュタウフェン家は断絶してしまいます。


あとがき

こんにちは。どうも。今回はシュタウフェン朝でした。小ネタとしてフリードリヒはなぜイスラム文化に造詣があったかというとシチリアという場所がイスラムの文化を影響を受けていたことが大きな要因だと考えます。あのキリスト教の世界でイスラム文化という異教の文化を学んだ事でキリスト教徒以外の考えに寛容になり最初のルネサンス人とも称されます。フリードリヒは不死伝説もありエトナ火山に身を潜めているそう。ちなみにバルバロッサも不死伝説があるそう。またこの時代ドイツ騎士団のプロイセン領有を認めています。ナポリ大学は世界最古の国立大学としていまも存在しておりトマス・アクィナスなどを輩出しています。

フリードリヒ2世に関してはまだまだ面白い出来事もありますが今回は概略的におってみました。次回は大空位時代ですね。かこれまでの皇帝ではない有力諸侯について取り上げるかもしれない。

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