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明日香村探訪 ~古の都の今を見る~

明日香と言えば飛鳥→飛鳥時代を連想しますが、専ら飛鳥時代と言えば法隆寺がある斑鳩町が飛鳥時代を象徴とする場所として知られており、修学旅行を含めれば訪れた人は多くいるのではないでしょうか。しかし飛鳥時代の中心地は現在の明日香村地方であり皇居も明日香村に点在していました。今回は基本的には645年大化の改新付近の出来事、名所を追っていきます。

檜隈大内陵

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写真はこれしかありませんでした。

橿原神宮前駅から吉野方面の電車に乗り明日香村駅に到着します。そこまで離れていないのでアクセスは良いです。レンタサイクルを利用し飛鳥寺へと向かいます。道中檜隈大内陵、つまり天武・持統両天皇の陵があります。この陵は史的に両天皇の陵である事が確実視されており、さらに珍しい陵の形が八角墳であり、かなり珍しい陵であることがわかります。

持統天皇

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持統天皇

ここで取り上げるのは持統天皇についてです。持統天皇と言えば天武天皇の皇后として壬申の乱が起こった荒れた国内の再建に助力し、天武天皇崩御後には自ら天皇となり夫の政策を引継ぎ飛鳥浄御原令制定、藤原京造営が有名です。また文武天皇に生前に譲位したことにより701年の大宝律令により初めての太上天皇(上皇)となります。逸れますがこの譲位は歴代二回目のことであり一回目は皇極天皇(重祚し斉明天皇)が孝徳天皇に対して行われました。この時は臨時的に皇祖母尊と言う称号が与えられています。話を戻しますが、持統天皇は数々の功績を残し崩御されます。ここで陵に関わることで重要となるのが、持統天皇は荼毘に付かれたということです。前提として天武天皇以前は土葬であったため初めて火葬された天皇です。ただ慣習にもれず約一年の期間殯を経ています。殯(もがり)とは別れを惜しみ確実な死亡を確認するために長期間遺体を仮安置することです。今でもお通夜の時に火葬をしないのは殯の風習の名残とも言えます。しかし一年間も安置していれば遺体は当然のことながら白骨化が進んでいたはずですが、さらに加えて火葬することに意味があったのかが疑問符がつきます。まず火葬は仏教とともにインドの風習が日本に伝えられたと考えられています。インドでは遺骨を川に流すことで魂が転生されていくと考えられているそうですが、この考えもありながら天皇御自身が火葬により完全にこの世を去ることができるという思いがあったのではないかと考えます。また大宝律令に火葬や風葬を許可している条文があることからも火葬の考えが日本にも伝えられ、そこまで珍しいものでもなかったのではないかと個人的には思います。このような大陸文化の影響は先にも述べた八角墳という陵の形で表れています。八角形は中国・道教の影響を受けており舒明天皇陵も同様に八角墳です。大化の改新から薄葬令が発せられ、仁徳天皇陵のような大規模な陵が造営できなくなり、新たに天皇の権威を表す形として八角墳が使われるようになりました。ちなみに法隆寺の夢殿も八角形であることから飛鳥時代を表す形を挙げるとすれば八角形でしょう。

飛鳥寺

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飛鳥寺

さて飛鳥寺へとペダルを踏んでいきます。日本の田園風景を肌身で感じながら飛鳥寺に到着しました。飛鳥寺は蘇我馬子が建立した寺であり、日本で最初の伽藍配置を持つ寺として知られています。日本書紀によると、排仏派の物部氏に対抗するためと記されていますが、元興寺縁起には異なる理由が記されており、そもそも資料も不足していることからいまいち建立された理由が不明です。百済の渡来人により作られ、その後日本最古の仏像とされる飛鳥大仏が鞍作鳥により作成され本尊とされています。その後仏教の最先端の場所として発展しその後の南都六宗の基礎を作りました。また中臣鎌足、中大兄皇子の出会いの場、後には蘇我氏討伐の本陣として使われ、蘇我氏の氏寺というよりは官寺に近い存在となっています。あと蘇我入鹿の首塚(五輪塔)がありますので、蘇我入鹿について軽く書いていこうと思います。

蘇我入鹿

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入鹿の首塚 奥の森が甘樫丘

入鹿は古人大兄皇子を皇極天皇の次の天皇につけようと、山背大兄王を自害に追い込んだことが知られています。結局皇極天皇の次は田村皇子(舒明天皇)と別の皇子になりましたが、ただ蘇我氏が譲歩しただけでないとの学説もあります。このように蘇我氏が強大な権力をもっており、飛鳥寺から見える甘樫丘に邸宅を構え、皇室行事を独断で代行したとも言われています。その中で三韓の使者が訪れる日にクーデターが決行され、皇極天皇の御前にて殺害されます。後日蝦夷が自害したことにより蘇我氏本宗家が断絶します。ちなみに甘樫丘は飛鳥寺から見ることができます。

入鹿の墓は?


先ほど入鹿の首塚を紹介しましたが、あくまで伝承に過ぎないため本当の墓がどこにあるのかは正確には不明です。有力とされているのが菖蒲池古墳です。菖蒲池古墳は甘樫丘の南部に位置しており、精巧な石棺が二基あるとして珍しい古墳です。これがなぜ入鹿の墓だという説があるかというと付近に大きな古墳、小山田古墳が発見されこの古墳を蘇我蝦夷の墓と推定するなら近くにある菖蒲池は入鹿(日本書紀から大陵(蝦夷の古墳)・小陵(入鹿の古墳)の記述あり)と考えることができます。そしてこの石棺が二基ある理由としても小山田古墳から石棺を発掘できなかった事により一つが蝦夷の石棺であるとも言えます。そしてその石棺の作りが精巧であることからも裏付けができます。まぁ実際のところはわからないようです。

岡寺と飛鳥板葺宮

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岡寺 仁王門

当初の目的が達成できたことで次なる目的地石舞台古墳に向かう事します。
道中岡寺によります。岡寺は天武天皇の皇子草壁皇子が住まれていた岡宮の跡地に建てられました。日本最大の塑像の如意輪観音座像があります。仏教に明るくないためこの程度にとどめておきます。

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乙巳の変の有名な絵 左上が皇極天皇です。


岡寺から見える平野は飛鳥板葺宮があった場所とされています。現在は石が敷かれているだけですが確かにここにあったんだなと感じることができます。飛鳥板葺宮は乙巳の変が起こった場所と知られています。乙巳の変と言えば室町期に書かれた多武峰縁起絵巻の有名な絵を思い起こされますが、実際は外(大極殿前の広場)であったとされています。またこの宮の場所は上に蘇我氏が建てた飛鳥寺と邸宅がある甘樫丘、下が後述の石舞台古墳があり飛鳥寺板葺宮は挟まれていることがわかります。これからも蘇我氏の影響力の大きさがわかります。

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このように宮周辺に蘇我氏由来のものが今も存在する

石舞台古墳

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石舞台古墳 ご覧の通り石室が露出している


岡寺を後にして石舞台古墳に到着しました。埋葬者は蘇我馬子という説が有力ですのでその前提で話を進めていきます。現在では石が積まれているようにしか見えませんが本来は盛土があり、時代の流れにより現在は盛土がなくなり、横穴式石室が露出している状態となっています。玄室(内部)にも何もないですが入ることができます。石舞台古墳の付近に馬子の邸宅があったとされています。
埋葬者馬子について軽く紹介します。

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ここから玄室に入ることができる

蘇我馬子


長く続いた物部氏との争いに勝利し崇峻天皇を即位させますが、実権が馬子にあることを不満に思った天皇が兵を招集した事により馬子は東漢駒に天皇暗殺を企て成功します。後馬子の娘を奪って嫁としたことを知った馬子が東漢駒を殺害します。天皇暗殺の口封じとも考えられますが、これだけ見ると東漢駒はとんでもない男です。その後推古天皇が即位します。推古天皇のもと中央集権化をすすめ遣隋使を派遣し大陸文化を取り入れます。

帰路につくことにします。駅までに道のりには橘寺があるので寄りたいと思います。

橘寺と川原宮

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橘寺


橘寺は聖徳太子生誕地として知られています。ここでは寺名についてのみ触れます。橘寺という寺名は垂仁天皇の御代、勅命を受けて不老長寿の薬を求めに行った田道間守が、10年の長い間苦労してようやく薬を持ち帰ったところ、天皇は既に崩御されていたため、この時に持ち帰った実をこの地に蒔くとやがて芽を出したのが橘(ミカンの原種)で、それからこの地を橘と呼ぶようになったと伝えられていているそうです。

馬の写真はここのお寺で撮りました。

川原宮 

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川原宮、川原寺跡


橘寺向かいには川原寺跡があります。川原寺の前、斉明天皇の時代飛鳥板葺宮火災に伴い仮設的な宮(飛鳥川原宮)が営まれた地でもあります。川原寺の勢力は飛鳥寺や薬師寺等にも劣らないようでしたが遷都や度重なる火災により廃寺となりました。今は写真奥にある弘福寺が建てられています。

檜隈坂合陵

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欽明天皇陵


レンタサイクルを返却しふと地図を見ると駅周辺に檜隈坂合陵(欽明天皇陵)があります。欽明天皇陵は后である堅塩媛と合葬されていおり、当時は多くの大柱が陵の上に建てられていたそうです。軽く欽明天皇を説明するならば百済の聖明王が仏教の経典を献じたことで正式に仏教が伝来したことが有名です。推古天皇以前の天皇のなかではかなり有名な天皇の一人なのではないでしょうか。

最後に

明日香村は派手さがないものの歴史的には重要なものがある、またはあった場所です。事前に調べておいた方が飛鳥村は楽しめるなと思いました。自転車に乗れるのであれば自転車で回るのが効率は良さげです。

あと僕が天皇陵に興味を持ち始めた場所でもあります。皆さんも一度は明日香へ行ってみてはいかがでしょうか。

あとがき

今回は一年前に訪れた場所であったため欲しい写真がなかったり、所々忘れていたりと色々思いだしながら書いていきました。明日香村はまだ見るところがあるのでもう一回訪れたい場所の一つですね。

お分かりとは思いますが副題は結構適当です。


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