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ドイツ史③ザーリア朝

コンラート2世


1024年にザクセン朝が断絶しオットー1世の娘の血を引くライン・フランケン公コンラート2世がザーリア朝を開きます。王権拡大の皇帝。フランケン公はバイエルン北部とマイン川周辺のフランケン地方を基盤でした。イタリア領を再確立し相続協定で一部フランス領であったブルグンドを獲得します。ここでローマ帝国と命名することになります。神聖はまだお預け。
ブルグンド王国って?
ゲルマン民族大移動の際に建国。フン族に滅ぼされたがサボア地方で再建。グンドバド王の時最盛期でブルグンド法典も作られた。しかしクロタールにより併合。そしてカロリング朝衰退に伴い独立しブルグンド王国へ。アルル王国とも呼ばれる。神聖ローマ帝国に併合されたが大部分はフランス領となる。
また教皇勢力が弱まっていたため下級家臣の保護をすすめ王領地の経営を家士(郎党)にまかせ隣接する諸侯を牽制しました。


ハインリヒ3世

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ハインリヒ3世

チェコ人のボヘミア王国を封建関係に組み込みさらに相続関係の契約からシュヴァーベン公領、バイエルン公領を獲得しドイツにおける基盤を盤石なものにします。イタリアではどうだったか。当時イタリア王国内トスカーナ伯領はゴットフレード3世の傍若無人の政治のもと領地の拡大に走り南イタリアにいたノルマン人とも協力していました。これに怒ったハインリヒ3世はゴットフレードを逃亡させます。ゴットフレードの嫁ベアトリーチェの娘が後々話題となるマチルダがいます。また別の面ではフランスのクリュニー修道院がもとになる教会粛清運動を皇帝も支持し展開する。この改革派(クリュニー派)の修道院であったイルデブランド、後のグレゴリウス7世がいました。

ハインリヒ4世

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ハインリヒ4世

ハインリヒ3世はイタリア遠征の最中に急死し6歳のハインリヒ4世が王位につきますがもちろん政治をすることが出来なかったので母アグネスが摂政となります。幼帝誕生によりゴットフレードが再度登場しローマ教会を支配し実弟であるステファノス10世を登位させる。ハインリヒ4世の承認がない教皇でありさらにゴットフレードは自らが皇帝になろうと画策していました。しかし教皇は1年で死去する。次もハインリヒ4世の意向を無視したままニコラウス2世が登位し以後の教皇選出は世俗権力の干渉を排除し枢機卿団の相互選挙により決めるとします。ここで皇帝との対立が激化し教皇側は後にナポリ・シチリア両王国を開くオートヴィル家の協力関係に入れます。ニコラウス2世の死後アレクサンデル2世の登位にも皇帝側は協議に入れません。アレクサンデルの後にゴットフレードが死去した今頃合い良しとみたグレゴリウス7世が登位することになります。一方アグネスはハインリヒ4世の誘拐事件を機に政界から身を引くことになり帝国と幼帝は諸侯の意のままになります。后も諸侯から押し付けられたマインツ大司教に縁があるベルタという人物でした。当初このベルタを嫌っていたが孤立無援のハインリヒ4世にとって唯一の理解者となります。元服したハインリヒ4世は皇帝権の再建を目指すことになる。ハインリヒは個人的友人を集めオストマルク辺境伯に軍を進めバイエルン大公オットーにはハインリヒ4世の暗殺を企てているとしてバイエルン公領を没収しヴェルフェン家に与えます。ザクセンで反乱が起こりザクセン戦争を起こりますが戦争には勝ちます。一方教皇は聖職売買の禁止を盾に世俗権力からの独立を図ります。皇帝顧問を務める5人の司教を破門しハインリヒにむけて今後は教皇に服従せよとの書簡が届き、ここでハインリヒ4世はグレゴリウス7世の廃位を決議する会議を開き教皇のスキャンダルが利用されます。何のスキャンダルか、教皇とマチルダとの不倫疑惑だった。教皇はなにかとマチルダに対して便宜を図っていた事からの噂でした。この中教皇十八番の破門が繰り出される。これに皇帝としての立場が危うくなったことでベルダと息子ハインリヒとともに教皇がいるカノッサ城前で三日間許しを請う世にいうカノッサの屈辱が起こります。ただこれは着色されたものだといわれています。不倫についてうだうだ言ったかもしれない(私観)。ともあれこれで教皇の勝利に思われたが対立は再燃します。再度ハインリヒ4世を破門しこれに対してハインリヒは新教皇クレメンス3世を擁立しローマへ遠征する。ここで教皇は4年間聖天使城に籠城しハインリヒ4世は撤退させます。しかしこの時教皇が援軍として呼んだノルマン人が問題となった。ノルマン人はローマで略奪を尽くしたため市民はこいつらを呼んだ教皇を恨むようになり、教皇はローマを脱出しますがその地で客死します。国内ではシュヴァーベン公ルドルフとルクセンブルク公ヘルマンが対立王になりますがこの対立王を抑えさらに新教皇を擁立し帝冠を受けます。しかし息子が父ハインリヒ4世を裏切る。息子はあの不倫疑惑のマチルダに説得され父の廃位に同意し父の後妻と手を組み軟禁しようとします。ヴェルフェン家の協力のもとこの危機を脱し息子コンラート追放、次子を後継者に据えます。この次子ハインリヒも父を裏切り幽閉します。ハインリヒ4世は一旦逃れるがこのような残酷な事実を受け急死します。

ハインリヒ5世


次のハインリヒ5世。ポンテ・マンモロ協約などのひと悶着を経てカリクストゥス2世との間にヴォルムス政教協約により一応の解決を見せました。これは霊的な司牧者に対する司教の叙任と世俗的な司教領の支配権の授与を分けて考え前者が教皇、後者が皇帝としました。これにより皇帝は司教に叙任権を放棄することになるが司教領を通じての封建関係を結ぶことになります。司教の任命に関してはブルグンドやイタリアでは教皇による任命が重視されドイツでは皇帝の授与が重視されました。また司教を選ぶ際にもドイツでは皇帝の実質的な関与がなされていました。これによりカールやオットーの時は教権と俗権が融合されていた体制でしたがこれにより分けられ帝国の権力は俗権として独立します。この内容からわかる通りなんか中途半端と感じられますね。そのためこのヴォルムス政教協約の意義は叙任権の有無ではなく皇帝の世俗化にあると考えます。その後裏切り者、はたまた父を裏切るような人に王としての気質は備わっていないのだ。嫡子がいないまま死去しザーリア朝は断絶します。

あとがき

こんにちは。何某です。このザーリア朝は個人的に好きな王朝です。なんと言っても覚えやすいしそれぞれの王が必ず何かしら行っています。叙任権闘争の下りもあるのですが簡単に言うと王国教会制度は前提としてドイツ王の叙任権があってこその制度であったためこれが教皇による叙任になると教会が王権に刃向かう事も生じ却って危ないという制度でした。ハインリヒ3世の時は圧倒的な権力のもとでは皇帝>教皇といった感じで明確化されていたので問題は生じなかったのですがハインリヒ4世が幼くして王になった事で諸侯の権力が増し、さらに教会改革運動に乗じたやる気のある教皇、ゴットフリートといったイタリアの反乱分子など様々な事が要因で一代のうちに皇帝<教皇となってしまい叙任権は一元的に教皇のものになると思われたがグレゴリウスの人気低下とその後のごたごたでヴォルムス政教協約のような中途半端な結果に終わりました。こんな感じで叙任権闘争は終わります。

参考文献として「神聖ローマ帝国」菊池良生 を挙げておきます。とても分かりやすくて面白いです。マチルダに関しては「物語 イタリアの歴史」藤沢道郎 も参考にしてみてください。中公新書の物語シリーズの中で一番物語してます。

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