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ドイツ史⑤ 大空位時代

簡単年表

1250年 フリードリヒ2世死去

1273年 ルドルフ選出

1278年 マルヒフェルトの戦い

1291年 ルドルフ死去

大空位時代

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ウイレム


フリードリヒ2世以降は一つの王国に二人の王が立ち誰も皇帝として認められなかった大空位時代を迎えます。期間はフリードリヒ2世が死去した1250年から1273年にハプスブルク家のルドルフがドイツ王になるまでとされています。経過としてフリードリヒ2世がイノケンティウス4世により破門・皇帝廃位されたことによりチューリンゲン(テューリンゲン)地方伯ハインリヒ・ラスペが対立王となります。その後フリードリヒの次子コンラート4世の対立王としてホラント(ベルギー付近?)伯ウイレムが立てられます。ウイレムが初めて神聖ローマ帝国という国号を正式に用いた王として知られています。能力は伴いませんでしたが…。その後カスティリア王アルフォンソ十世とコーンウォール伯リチャードが二人揃ってドイツ王となります。これはほぼ傀儡王に近い存在でした(どちらも基盤はドイツにありません)。皇帝がいない国内は荒れに荒れその中でリチャードが死去すると教皇グレゴリウス10世はそろそろしっかりとした王決めてと介入してきます。実は帝国の内乱で教会領が襲われ、教皇の軍事力である帝国が乱れちゃ十字軍ができないじゃんと教皇も大きな被害を受けていました。ここで教皇にとっても諸侯にとっても良く思わない事が起こります。なんとフランス王フィリップ3世が皇帝候補者に挙がったからです。教皇としてはフランスとドイツにまたがる大帝国は望んでいない。諸侯としてもドイツ以外から傀儡になりえない強大な王が皇帝になるのは勘弁、真面目に取り組むようになります。諸侯としてドイツ王に絶対王はいらない、ある程度まとめる事ができる王であればそれでよいのだ。

ハプスブルク家の登場

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ルドルフ

候補者として母方の祖父がフリードリヒ2世のチューリンゲン伯フリードリヒ2世が挙げられます。しかしこれは教皇が嫌がった(フリードリヒの血が入ってるからね)。そこでバイエルン公でありライン宮中伯でもあるルートビッヒが候補に挙がります。しかしルートビッヒはケルン、トリーアとの対立や身内問題でそれどころじゃなかった。このなか国王選挙の主導権を握ったマインツ大司教ヴェルナー・フォン・エッペンシュタインがルドルフ・フォン・ハプスブルクという人を候補に挙げます。ルドルフはシュタウフェン家の味方であり忠実に使えていた家系でした。結果的にルドルフが選出されます。ルドルフは当時スイス一部の伯爵領しか持っておらずその人がドイツ王になったのだ。これにはルドルフ自身も驚いたでしょう。因みにこの際の臣従を最初に行ったのがニュルンベルク城伯フリードリヒという人物であり彼はあのプロイセン王国を興したホーエンツォレルン家でした。歴史とは皮肉なものですね。この新王に反対する勢力も当然いました、ボヘミア王オタカル2世です。当時オタカルはオーストリア公バーベンベルク家の男系が断絶していたことに目をつけ、オーストリア公領はバルバロッサにより女子への相続を認められていた事を利用し22歳オタカルはバーベンベルク家の46歳のマルガレーテと結婚することでオーストリア公爵領を獲得します。しかしマルガレーテは修道女であったためとっとと婚姻を破棄し結果オタカルはボヘミア、メーレン、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンを領有する大諸侯となります。そんななかでスイスの一部しか持っていないルドルフに臣従の礼をすることはプライドが許さなかった。ルドルフは臣従礼を取らなかったオタカルを追放し征伐に向かうことになります。単体では勝ち目はほぼない。

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マルヒフェルトの戦い

しかしマルヒフェルトの戦いでこの時代考えもしなかった(卑怯と考えられていた)伏兵を用いてルドルフが勝利しオタカルもこの戦いで命を落とすことになります。ただルドルフが他の諸侯とたくさん同盟を結んだことにより戦う以前から帝国側が優位ではありました。ルドルフはオタカルのプシェミスル家からボヘミアとメーレンを除いたオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンを獲得します。ケルンテンは味方のマインハルト家に与えその他はルドルフのハプスブルク家のものになります。国内で足場を固めるため皇帝にはなりませんでした。ここからオーストリア・ハプスブルク家の誕生です。ルドルフの死後はハプスブルクのドイツ王世襲化を嫌った諸侯がナッサウ家に王位を与えられます。ナッサウ家アドルフは王権強化に走ったため廃位され結局王位はハプスブルクに戻ることになります。ここから国王選挙の度に家門が異なる躍進選挙時代に突入します。

ボヘミア王国

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オタカル2世

ボヘミア王国は後に頻出するためこれまでの経緯を軽く纏めておきます。ボヘミアはチェコ人の国です。神聖ローマ帝国に属する国でありプシェミスル朝オタカル1世の時に王号が認められていました。つまり国王でありながら皇帝に臣従を誓うという形を取っていた事になります。オタカル2世の時に最大版図となりますがルドルフにより版図が縮小してしまいます。オタカルの二代後でプシェミスル家は断絶してしまいボヘミアで王位継承同意権を持っていた帰属がルクセンブルク家ヨハンを選びボヘミア王はルクセンブルク家のものとなります。


あとがき

こんにちは。某です。今回は大空位時代であり名目上の王がちらほら出てきます。まずウイレムの小ネタとして彼は遠征中沼に落ちて死去しますが遺体が発見されたのが26年後でした。王らしくないですね。次回はこれまでに登場した家をまとめたいと思います(多分)。

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