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ドイツ史① フランク王国

簡単年表①

紀元前3世紀 ゲルマン民族進出

9年 トイトブルクの森の戦い

375年 ゲルマン民族大移動開始

476年西ローマ帝国滅亡

481年フランク王国誕生

751年カロリング朝が開く

800年カールの戴冠

843年ヴェルダン条約

870年メルセン条約

911年東フランク王国 カロリング朝断絶

919年ザクセン朝が開く

黎明期

紀元前3世紀ごろにバルト海より南下してきたゲルマン民族が先住民であるケルト民族を追い出しローマ人がゲルマニアと呼んだ地域であるライン川東部に定住し始めるところから始めます。その後ライン川西部にも住み着くことになりますがカエサルにより追い出されローマ人がガリアと呼んだライン川西部はローマの属州となります。その後アウグストゥスによりゲルマニアにローマ人が侵攻するもトイトブルクの森の戦いでケルスキ―族のアルミニウスが率いるゲルマンの部族部隊に大敗することになります。その後もローマ軍による侵攻は続くが結果として直接統治はできなかったためゲルマン民族の侵入を防ぐ目的でライン・ドナウ川(現在でいうとボンからレーゲンスブルク)間にリーメスという土塁を築きました。分かりやすく言うと万里の長城のようなものを築きました。この際に作られた都市(城塞都市)としてケルンやマインツ、ウィーンが有名であり、トリーアというところでは今でもローマの文化である大門や闘技場、宮廷が残っています。

フランク王国


※フランク王国の詳細は私が作成したフランス通史を参考してほしいがネットで調べた方が早いし分かりやすい。本稿ではドイツに関することを軽く触れるにとどめておきます。

このローマとゲルマニアの境界線も375年のゲルマン民族大移動で崩れてしまい476年には西ローマ帝国が崩壊します。この大移動によりライン川を越えた地域(ガリア)に小部族が定住します。ここでは西のフランク王国が有力であったためメロウィング朝時代からゲルマニア地域の従属化が進み最終的にカール大帝の時に完了します。これはフランク王国がキリスト教の権威を使った国であったため同時にキリスト教化が進むことを意味します。ドイツへの布教はイングランドのボニファティウスにより開始され、次第にフランク王国の支配領域拡大と同時に行われるようになります。
土着の宗教を最後まで守って抵抗したザクセン族がカール大帝の時にザクセン戦争(770~804)を起こしますがカールが制圧したことにより布教活動はひとまず落ち着きます。また当時は帝国による統治機構が各地に存在してはいなかったため代替の組織として教会が使われ、立法や行政も大貴族と並んで高位聖職者が参加し、文書化をするのは当時ラテン語を読み書きができた聖職者に限られていたこともあり官房の業務は尚書局に属する宮廷司祭が行っていました。統治の任務は聖職者だけでなく俗人にも分け与えられ伯管区(支配地区)の伯(長)として国王から委任されていました。これは土着の大貴族である公爵を牽制するために設置されました。この伯にはゲルマン系の部族にも伯が任命されていたことから土着化・世襲化が進み伯の権力が次第に強くなっていきます。
カール大帝の子のルートヴィヒ1世の死後にヴェルダン、メルセン条約により東西のフランク王国とロタール王国(イタリア)が誕生します。そしてこの中でゲルマン諸民族が分国として分けられて国王から統治が委任される形を取ります。バイエルンやザクセン、ロートリンゲンが分国として有名です。


東フランク王国


ルートビッヒ2世により東フランク王国が誕生します。ただこの地域は前述の通りフランク王国に併合されたため(とりわけカール大帝により)土着勢力が依然として力を持っていました。ルートビッヒ2世の後を継ぐカール3世(肥満王)三人の兄弟がいましたが二人の兄弟は嫡子を残さないまま死去したためカールが東フランクを統一します。西フランクも統治に入れたことはフランス通史でも軽く触れました。
カールが廃位されアルヌルフが王に選出されます。カールとは違い戦争に明け暮れボヘミアを王国内に取り込み、イタリアにも進出し皇帝に戴冠しています。
アルヌルフの末子のルートヴィヒ4世が王位につきますが幼帝であり17歳で死亡しカロリング朝が断絶します。
西フランクは987年までカロリング朝は続くため一時は統一の流れも見せますが結局はフランケン公のコンラートが諸侯から選出されます。コンラートは国内の統制をうまくとることができず、ザクセン公ハインリヒ1世と対立します。内乱によって王国分裂を恐れたコンラートはザクセン公ハインリヒ1世を後継者に任命することで王位につきザクセン朝を開きます。ハインリヒはノルマン人やマジャール人を撃退することで東北の国境を策定し名声を得て王権強化を図ります。2代目には長子のオットー1世が王位につき926年にローマ皇帝として戴冠することで曲折があるも1806年まで続く神聖ローマ帝国が誕生します。ただ国号として神聖ローマ帝国とよばれることになるのはだいぶ先。


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