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人を幸せにする方法

友人から、先日「本願成就」を遂げたとの報せが入った。
平たく言えば「女女の契り」を交わしたということらしい。色々規制かかるのが怖いので妙に文学チックな表現となるのはご勘弁を。
正直、それまでの友人の言動は何かに取り憑かれている雰囲気があった。やたらとギラついているというか……だからこそ縁を引き寄せたのかもしれないが……とにかく状態異常、本来の人格じゃないというか、呪いをかけられている感じがした。

しかし、契ったあとの彼女は文字通り「憑き物が落ちたように」晴れやかだった。


みんな肯定を求めている。
挨拶も、会話も、スキンシップも、……それ以上も。コミュニケーションはすべからく、肯定を求め合う行為なのかもしれない。
そして、件の彼女があんなに晴れやかだったのは、喉から手が出るほど欲しかった、究極の肯定を得られたからだろう。
そういえば、他の友人からも、「ついに卒業!!!」と、お持ち帰りをした翌日にものすごいテンションで連絡があった。自分自身も、そうした相手ができると、日常が雲一つないフライトのような高揚感で満たされていた。
少し脱線するけど、女性の欲って、子孫繁栄や快楽という本能的なものの他に、自己受容を求めている面がとても強いような気がする。ゆえに、表面的な部分だけを齧られて捨てられると、反動で大きく傷つくのだと思う。

肯定は人を幸せにする。
まあ、せっかくなら周囲に幸せが多いほうがいい。
であるならば、自分なりに、できる範囲で接する人を「肯定」すれば、幸せが増えるんじゃなかろうか。
「できる範囲で」というのがポイント。
Aさんにはここまで、Bさんにはここまで。
互いの距離感、価値観、相性によって最適な範囲は違う。いくらセックス(あ、言っちゃった)が究極の肯定を与える行為であったとしても、全員とそれをするわけにはいかないから。本心に背いてまでそんなことをしたら、逆に軋轢を生む。
あいさつをするのも、何気ない雑談をするのも、食事に行くのも、程度の差はあれど全部「キミを受け入れる」のシグナルだと思う。それらを人によって使い分ければいいのだ。
なお、ここで言う肯定とは、「何でもかんでも我慢して許す」ということではない。あ、これはちょっと、と思ったらサッと引く。かわす。注意する。など。誤った肯定は逆に不幸を生んでしまう。だから「できる範囲で」。

書いていて、これってごく当たり前なことでは? と今、自問自答している。
でも、せっかくだし何かの役に立つかもしれないからここに残しておく。(これは、自分への肯定。)

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