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消費される音楽

評論家の多木浩二さんの「消費されるスポーツ」をもじって使わせてもらったのが今回のテーマ.21世紀における音楽をテーマにして音楽の自己内での地位を少し考えてみたいと思ってテーマを設定した次第である.

今や我々にとっての音楽は無意識的に消費される行動の一部であり、常に身近に存在している.1979年にsonyがウォークマンを発売してから40年以上が経った.その時まではレコードを介したり外に行けばジュークボックス、ラジオが音楽の発せられる中心だった.

それがポータブルになったことで場所を問わず手軽に音楽を楽しむことができるようになり音楽の希少性は大きく低下した.東京では音楽の発せられるレコード喫茶が学生に人気だったが廃れていき、クラシックは堅苦しいとポップ音楽やジャズが流行り出すことになった.

その後の話は誰もが知っている通り、2000年代に入るとiPhoneが誕生し、ポータブルな上に電話機能やゲームなど音楽は一部として存在することになった.音楽の枠組みがポップに変わったのと同時に音楽のメロディの部分にも大きな変化が現れた.

それが音楽のエントロピーの低下である.不規則性とも呼ばれるエントロピーは情報を取り入れるときに大きく影響を与える.例えば新しい分野の話をさらっとされ、理解できなかったとき話された情報は頭の中には残らない.もし理解しようとするならば多大なエネルギーを必要とし、場合によっては人生をかけて答えを見つけようとするかもしれない.

逆にエントロピーが低いというのは情報の不規則性が低いということである.これは安定的な状態とも言える.不規則性がないからエネルギーの消費も少ない.音楽的に言えば「このメロディ聴いたことあるな」が該当する.

そしてエントロピーの低い音楽というのは耳に心地よい音とも言える.不規則性が低いならばエネルギー消費が少なくリラックスした状態で音楽を嗜むことができる.

このエントロピーというのが現代の音楽を消費する人を考える上で重要なものになる.

我々の音楽への接し方というのは「音楽を聴く」という考え方ではなくなっている.
勉強をするから「音楽を聴く」お風呂に入るから「音楽を聴く」電車に乗るから「音楽を聴く」と言ったように音楽は何かの作業に付随して行われる行動になってきた.

家で音楽を聴くために時間を設けて「音楽を聴く」という行動をとっている人は現代では少数ではないだろうか.そして音楽は自分の感情に分けて使われることも多い.例えば朝起きてからバッハの「コーヒーカンタータ」を聞けばモーニングの気分を味わうことができる.少しテンションを上げたいときに「Tong Poo」を聴くと言ったように自分の感情の音がある人も多いのではないだろうか.

そのため現代の音楽というのはエントロピーの低い音色がベースになっている.もしエントロピーが高い音楽を聴くとエネルギーを使用するため音楽の方に注意が向き作業<音楽となるため自分の中の心地の良い音楽とは違うものになってしまう.

僕がその出会いを感じたのは、坂本龍一「Esperanto」というアルバムの「ULU WATU」「THE “DREAMING”」は自然音と民族音楽が組み合わされたような楽曲で心地の良い音とはかけ離れ、今まで聴いたことのない難しい音であった.最近中学校の教科書にも「津波ピアノ」として坂本龍一「Async」の津波ピアノを使用した楽曲が紹介されているらしいが聴いた学生はさぞ驚いたのに違いない.「これが音楽?」と自分の知っている音とはかけ離れたnoiseに近い感覚を覚える人もいるのではないだろうか.気になった方は是非聴いてほしい.

そういったエントロピー高い音は好まれる可能性は低いので社会で流行する音楽と限らない.音楽が資本主義競争の材料になっている現代社会では「聴いてもらう」ことが前提条件になりファンを作りリピーターを増やしていかなければならない.

そしてリピーターとなるのは音楽を作業の付随素材として聴く人たちであり、音楽を聴くのはマイノリティだ.すると自然と音楽はエントロピーの低い普遍的な音をベースにした楽曲が多くなる.音楽の価値観が変わった現在では生活の消費材料の一部に過ぎない.

ウィーン派が作り上げたメロディではなく革新的な技法を生み出した新ウィーン派のシェーンベルクの12音技法はエントロピーの高い音楽だった.

最近ではSNSに投稿された音楽が社会現象になるまで拡散されていくことが度々発生するが音を聴いてみると「ここ似てるな」と感じることはないだろうか.それは正にエントロピーが低く自分に心地のいい音だということだ.全てが当てはまるわけではないが多くが「バズるため」「有名になるため」の音楽になっていたりする.

これが創造的な音楽ではなく消費するための音楽だ.今後より音の社会的価値観が作業に付随する音であり心地の良い音ばかりを追い求めることになったとき音の革新性は現れなくなるのではないだろうか.と感じる.

不確実性に満ち溢れた音というのは創造的であり芸術的とも言えるかもしれない.

これは「資本主義的な音楽」と「創造的な音楽」の対比の話であり、創造的な音楽というのは主本主義的な目的がない.それが偶然社会にも影響を及ぼし音楽を発展させていくと考えている.

ここで重要なのはエントロピーが低い=創造的ではない.ではないことだ.エントロピーが低いのは常に自分の中に溶け込んでおり、創造的で謎の多い音楽が徐々に普遍的になり心地よい音に変わっていったということだ.

先ほど例に出した「Tong Poo」はずっと聴いていれば徐々に自分の中の普遍的な音になっていく.そしてまた新しい音楽を追い求めて不確実性の音楽を探そうとするのだ.これは人間の音に対する欲求心や音へのマンネリ化とも言えるかもしれない.

今日の音楽は何度も言う通り、普遍化したメロディを基盤に作られることが多い.それは自分の中に存在するエントロピーの低い安定した音楽を求めるからで消費行動によって自然と普遍化していってしまう.

その分消費者は音楽に対して感動や探究心を失っていくものだが、音楽を聴く行動が付随行動である以上、探究心という思考プロセスさえも省かれてしまう.

今日も音楽は誰かに消費されているが、それは創造的な音楽と巡り合わせてくれるのか疑問に思うところだ.それはただ変化を好まないだけで想像力を殺しているのではないかとも思える.

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