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21世紀に赤い繭は否定できるのか

1950年の大作、安部公房の『赤い繭』は今でも多くの人に読まれている作品の一つだ.

この話のキッカケは今年が安部公房の生誕100周年ということで書店に特集コーナーが設置されていたところから始まる.

安部公房といえば第二次戦後派の大岡昇平『俘虜記』や堀田善衛『広場の孤独』などと一緒に知られる文学会のスーパースターである.

最近では国語の教科書に掲載されていることもあり、名前だけでも聞き覚えがある人は少なくない.

そんな安部公房の作品の一つに『赤い繭』という短編作品がある.本作は鎌倉文庫の文藝書である『人間』の中で『魔法のチョーク』『洪水』と共に掲載された作品であり、メタファー作品の一つである.

内容は主人公の『俺』が家々の中で自分の家を見つけることに奮闘する奇怪場面からスタートし躊躇なく他人の家に入り、“ここは俺の家だ”と主張する.すると出てきた住民は“壁”になり、最終的に主人公も“繭”になるというファンタジー作品になっている.

変幻の作品を上げればカフカを思い浮かべるが、かなり似通う作品であると思う.カフカはユダヤ系の出身であり、古来から男尊女卑が唱えられ女性の地位が低く厳しい戒律のユダヤ教が身近にあったと考えられる.

特にカフカの『掟の門前』はユダヤ教の戒律を抜け出せない空気と戦っている主人公をメタファーで表しているのがよくわかる.門前に立つ門番は「通りたければ通ればいい」と言うのに対し、主人公は通れないと主張する.通りたくても通れない.
ユダヤ教の戒律は絶対的な法支配ではない.しかし定められている掟に反する事はユダヤ人として通っては行けない道であるという葛藤を窺い知る事ができる.

少し話をずらすが、よくカフカの『変身』がナチスのユダヤ教迫害を意味していると考える人がいるが、カフカの生きていた時代とナチスのユダヤ迫害、ホロコーストとは一致しない.それは覚えておいてほしい.

カフカ(1883―1924)、ホロコースト(1933~1945)

話を戻してカフカの『掟の門前』と安部公房の『赤い繭』が似通っている点に現代社会への批判が窺い知れる.『掟の門前』は先ほど説明した通り、ユダヤ教の戒律の厳しさ、自由への憧憬心を感じ、『赤い繭』では最初の“家と家との間の狭い割れ目”が都会を意味していることは想像できる.そして“おれには帰る家がない”というのは主人公が共同体、都会の社会に居場所を見つけられていないことを意味してると考えられる.
途中に家の住民との会話で住民が最終的に“壁”になるが、これは主人公の常識の逸脱した行為が認められない、異常であるという“常識の壁”を意味している.

要は主人公はマイノリティ的存在であり、マジョリティは彼を認めていないのである.しかし、主人公は自分の家を見つけることに成功する.これはマジョリティの属性に入れたということだ.裏を返せば一般人(常識人)として生活することを決意した表明でもある.それを“家が出来ても、今度は帰ってゆく俺がいない”の文章から読みとることができる.

これらの点から“主人公がマイノリティとして理解されない現状への批判精神も含めた文章“と“主人公が自由という憧憬を望んでいること“の作品として『掟の門前』と『赤い繭』が似通った作品であることが考えられる.

ここで今回のテーマである“21世紀に赤い繭は否定できるのか”を考えてみたい.

作品の解釈がマイノリティによるマジョリティの迫害だと考えると現代社会では否定することができるかもしれない.現代社会では男尊女卑は許されず、LGBTへの理解も進んでいる.
さらに言えばマイノリティはマジョリティを凌駕するようなのか力を持っているとも言える.社会全体がマイノリティに対して異常なほどに敏感な点を考えれば現状ではマジョリティは少数位のマイノリティによって迫害されているとも考えられる.

現代社会で『赤い繭』は否定できるが新しい問題によっていつまでも人々は縛られている解釈が一番わかりやすくなると思う.作中で言えば“家の住人は男を大歓迎して何も躊躇なく家に入れた“というのが現代風の文章になるのかなと思う.

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