美意識が自分を作ってくれるんだけど学校は違うみたい
日本の電車に乗ると女性は必ず化粧をしている.化粧をしていない人を探すのはウォーリーを探すことよりも難しい.最近は男性、女性も関係なく化粧をするし化粧が自分のアイデンティティの表現と解釈されることも多い.
でも男性にとっての化粧は嗜好品で女性の化粧とは違う.スッピンで会社に行けば女性は白い目で見られる.化粧をするのが当たり前だし化粧をしないのは良くないという考え方がある.
だから、女性にとっての化粧はアイデンティティも含めた三大欲求(ここでは強制的な意味)になっているのかもしれない.そしたら食事、睡眠、性欲、化粧になるのか.
小さいころにテレビで流れる化粧品のCMを見て「美」を感じるけど大人になったらそれは強制になってしまう.最初は興味なのに段々無理矢理になってきてしまう.
美の追求を今道友信はカントの悟性(科学的、客観的、分析・測定的な知性)と理性(神、世界、人間などの抽象概念の創造的思弁の知性)の両立が必要不可欠だと述べた.
そして理性を伴った解釈(見る人の人生経験や社会的価値観、作品が描く世界観などが遺体化した状態での作品との「対話」)によって「美」が作られるとした.
化粧もカントの悟性と理性の両立でできているけど、重要なのは結局は理性を伴った解釈できまるっていうこと.ファッションも結局は自分の感性で着ることになる.
ここに人の心の自在性がある.だからグローバルスタンダードな価値観はあっても人によって化粧が変わるのは、その人の美の自在性があるからだと思う.
化粧は強制的だけど美は自在性に満ちている.
でも今の学校(中学校、高校)の多くは化粧を校則で規制しているし、化粧をしていると少し浮いた存在として扱われる.だから学校はカントの悟性のもう一つの負の社会と言えるかもしれない.
何故なら、化粧で自分を表現することがアイデンティティという社会に生きながら化粧をさせないのは人格否定って言ってもおかしくないんじゃないかって感じるから.
確かに化粧は学問には必要ないかもしれないけど学問以前のアイデンティティで否定しちゃったら、それは学校としてあるべき形が違うんじゃないの.って
やっぱり少しでも自己表現の幅を広げた方が色んな発見も増えるし楽しいに違いない.
もう少し理解してあげるべきだなぁって感じる.でも自分が中年になった時に最近の学生は化粧なんかするのか.って思ってしまうんだろうなって思うと笑ってしまう.
だから、そうなる前に色々言っておこうかなって思う.
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