山野弘樹『Vtuberの哲学』春秋社(前編)

読了はしましたが、なじみのない単語と文章で書かれた本であったせいか、ちゃんと読み切れていない。
Vtuberという存在の現状を、哲学の言葉で記述した本、
という理解でいいんだろうか?

この本のVtuberについての記述にはどこか違和感がありました。自分が実際に見ているVtuberは、別物のように思われたのです。

書評とは言えませんが、この本を読んだ結果、自分はこう考えた、という事を書きたいと思います。

自分はVtuberという存在を知ってからまだ日が浅く、名前が分かる方もヒトケタいるかどうかといったところ。
この本の著者は、Vtuberという存在自体を愛好しているようですが、自分はまだ、推しといえるVtuberは、儒烏風亭さんしかいません。
違和感は、そんな視点の違いによるものでしょうか。
だとすると、そんな違和感を元に考えたことを、この本の感想というのはお門違いでしょう。

また、前述のとおり、哲学書を読む経験もほぼ初めて。
というわけで、書評にはなりそうにないし、以下は完全に個人的な体感に基づくものになります。
しかし自分が今後、Vtuberを推していくうえで、色々な心境の変化がありましょうから、その記録として、現時点での自分のVtuberに対する考えを、ざっくりとまとめようと思います。

VtuberのようでVtuberじゃないものたち。

もちろん、儒烏風亭らでんさんはVtuberです。そして『オトナの教養講座』の山田太郎さんはVtuberではありません。わかる。
ゆっくり解説シリーズの、ゆっくり霊夢やゆっくり魔理沙はVtuberではありません。『Voiceroidどうでもいいニュース』や『たらちゃん英国面ch』の結月さん継星さん、琴葉茜・葵さんも……Vtuberではない。他のコンテンツでも試用されているキャラ、既存のキャラを利用している。
では、『BOOM-BOOM CAST』の自然吸気さんとターボチャージャーさん、『ゆっくりで語る珍兵器』のスミレさんカスミさんなど、オリジナルのキャラクターが創作されている場合はどうだろう? 『へんないきものチャンネル』のたぬきさんときつねさんは、オリジナル曲もキャラクターグッズもある。
解説動画に、Vtuber的なキャラクターを導入するのは実に多くて、『オオカミ少佐のニュースチャンネル』等、時事系など、意見が分かれそうな話題では特に、アバターを使用することが多い。そういったアバターはなかなかVtuberと認識しづらい。
ですが、意見が分かれそうな話題を扱う動画か採用しているアバターと、かなえ先生や懲役太朗さんは、どこがどう違うのか? もちろん、感覚的に違うとは分かるのですが、言語化するのが難しい。

この本では、Vtuberを定義する際に、既存のYouTuberやキャラクターから派生したVtuberについては語られていましたが、こういったVtuberとのボーダーと言えるような存在については、触れられていなかったように思います。
何かを定義する際、「〇〇とは何か」というのは当然必要ですが、「何が〇〇ではないか」という問いも必須になるかと思います。
「〇〇」と「非〇〇」の、どこがボーダーラインか、何に、あるいは誰によって引かれるのか、そしてそのボーダーラインはいつどのようにしてできたのか。
まさにそれが「〇〇とは何か」の答えになるのではないかと思います。

Vtuber以前、その土台になったであろうもの。

Vtuberのようなものの例として、上記で「ゆっくり解説」を上げましたが、この起源は古くて、ともすれば2ちゃんねるのAAスレ「やる夫で学ぶシリーズ」まで遡ってしまいます。

AAスレというのは、既存のキャラのAAを使って、投稿者が物語をつづるスレッドです。
小説や映画のストーリーを追ったり、大作になるとヒトラーが総統になるまでの歴史や、法然坊源空の伝記、オリジナルのストーリーにも秀作多数あり、有名どころでは『ゴブリンスレイヤー』などがそうでした。

既存のキャラでオリジナルの解説やストーリーを作る、と言いうのは古くから二次創作、同人、夢小説、なりきちチャットなど色々ありましたが、追い出すときりがない。
とりあえず、動画として作成されるようになったニコニコ動画あたりまで軽く振り返ります。

このへんインターネット老人会。
曖昧な記憶で書いてるので間違っていたらすいません。
しかも確認しようにもニコニコ落ちてるし。

ニコニコ動画で、AAの代わりに使われ出したのが「ゆっくり霊夢」「ゆっくり魔理沙」でしたが、そこに新たに「アイドルマスター」のキャラクターが入ってきた。
『アイマスで学ぶ秋葉原の歴史』『アイマスで学ぶソ連の成立』などの「アイマスで学ぶシリーズ」、信長の野望をはじめとしたゲームの世界にアイマスキャラが参加する「アイマス仮装戦記」など、現在、Voiceroidなどを利用して作られているコンテンツが発生。
何よりアイマスキャラの動画に様々な楽曲を組み合わせたPVは、後述するMMDやVocaloidの隆盛と重なって、盛んにつくられました。

Vtuberにおいて、配信者の個人的な話がない系統の、解説やゲームプレイ動画、楽曲PVなどのジャンルの発生は、このあたりにあるように思われます。

さらに大きかったのが初音ミクとMMDの存在。
MMDはもちろん『#ホロぐら』等の源流というのはありますが、何より大きいのは、MMDでモーションキャプチャーが利用できるようになり「踊ってみた」が可能になった時、CGキャラクターの「中の人」という概念が発生。

初音ミクの影響が大きいのは、いまだにVtuberやVocaloid、Voiceroidなど、CGキャラクターの名前として「漢字+かな(カナ)」が良くイメージされることもそうですが、何より大きいのは「バックグラウンドのストーリーを持たないキャラクター」が受け入れられるようになったこと。

過去が無いキャラクターは、どうやって物語を手に入れるのか?

本書では最初に、「現実の存在やフィクションなど、別途コンテンツに起源をもつキャラクター」を考察から外していますが、この結果、考察の対象となった「現実の存在やフィクションなど、別途コンテンツに起源をもたないキャラクター」として、初めて成立したのが初音ミクです。

もちろん、プロフィール文に「電子の歌姫」の二つ名もあり、衣装のモチーフはシンセサイザーDX-7、声優は藤田咲さん、そしてヴィジュアルイメージはKEIさん、といった断片的な情報はありましたが、彼女の過去を語る物語は白紙でした。どんな性格かではなく、声の質がどうで、どんな歌が得意か。どんな曲を歌い得るのかという情報が最優先として提供され、可能性を減ずる情報は注意深く消去されていました。

結果、初期の初音ミク楽曲は、初音ミクというキャラクターを肉付けする事に注力されました。
『Pakaged』『ハジメテノオト』『私の時間』『あなたの歌姫』『えれくとりっく・えんじぇぅ』『恋スルVOC@LOID』など、人工物である、でも人間の代わりに人間の心を歌います、といった、ファンが楽曲によって、初音ミクのイメージを膨らませていきました。
そういった、人工物である等の自己紹介的な時期が過ぎて、完全に人間の少女として歌い始めたのが『メルト』ではなかったかと思います。

キャラクターのイメージを固めるのに、楽曲が重要である事が決定づけられました。多くのVtuberにとって、「歌ってみた」動画や歌枠が必須であったり、オリジナル曲を持つのが一つの到達点であるのは、まさにこのあたりが原点ではないでしょうか。

Vtuberは、物語を持たず、観客とともに作るために登場する。

『Vtuberの哲学』の中で考察の対象とされているVtuberも、ほぼ、この初音ミク同様に、それまでの物語を持たず、姿形と、プロフィール文と、声だけを持って登場します。

物語は、初配信以降の活動により、リアルタイムでつづられていきます。
むしろ、登場時点の姿かたちや声、プロフィールなど、全ては、その後ユーザーとともに物語をつづっていくための、基盤として提供されている。

……などと決めつけて書いてしまいましたが、実のところ、冒頭に述べたとおり、自分は、何人ものVtuberを初配信からずっと追っているというわけではないので、このあたりは有識者諸氏のご意見が欲しいところです。
ただ、Vtuberの物語が、活動を続けていく中で、そのファンとともに作られていくものであることは、本書にも書かれているし、自分も実感している事なので、間違ってはいないでしょう。

本書では、Vtuberの芸術性として、絵画や音楽や映像作品を引き合いに出されていましたが、こう考えて見ると、比較すべきはむしろ演劇に近いのでは。
特に、観客とともにストーリーや演出を変えていく即興劇、仮面劇。

仮面劇……『能』……? 『能面』……? まさか……

……ちょっと長くなりそうなので後編に続きます。

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