山野弘樹『Vtuberの哲学』春秋社(後編)

前編で、Vtuberは即興劇、仮面劇ではないかというところまで書きました。では続き。

即興劇・仮面劇としてのVtuber。

自分も演劇にくわしいわけではないのですが、以下の論に必要なところだけざっくりまとめてみます。

即興劇というのは、その場その場でストーリーや演出が変わる劇で、往々にして観客との掛け合いなどに左右される。
観客の理解や参加を促すため、登場人物はステレオタイプな物である。これをストック・キャラクターという。

ストック・キャラクターというのは、例えば、落語で言えば八っつあん熊さん与太郎ご隠居大家に番頭おかみさん、吉本新喜劇では茂造じいさんとか和子ばあちゃんとか、アニメで言えば糸目で声が石田彰とか、出てくるだけでどんな人物か皆が知っている、説明不要なキャラクター。

多くの仮面劇では、ストックキャラクターの誰に相当するのかを、被っているお面で区別できるようになっています。
例えば、イタリアのコメデア・デラルテでは、ネコの面なら道化師アルルカン、緑色なら守銭奴プリゲラ、鼻の長いザンニは愚か者、といった具合。

さて、Vtuberを即興劇と考えるなら、リスナーにまずキャラを認識されることが必要。
「こういう格好のキャラなら、こんな性格に違いない」
「こんな見かけなのだから、こういう物言いをするのかな」
等々。
多くの場合、Vtuberはそれを念頭に置いたキャラ設定を行った上で、デビューに臨むのではないでしょうか。

曰く、ロボであるとかエルフであるとか、アイドルであるとかチアガールであるとか巫女であるとかシスターであるとか、悪の秘密結社であるとか、女海賊であるとか騎士であるとか座長であるとか、獣人であるとかその母親であるとか。
そのフィクション性の度合いは様々ですが、その時に広く認知されている別ジャンルのコンテンツに根差していたり、定番の属性であったりと、ユーザーの理解と想像を促す事を念頭に設定されています。

もちろん、リアルタイムでストーリーがつづられていく以上、初期のキャラ設定は更新されたり、うやむやになったり、十七歳のはずが三十路になったりしますが、そのように設定が変化していく事自体がストーリーであり、その変化に参加することで、ユーザーはファンになっていきます。

たとえるなら、Vtuberが、デビュー当時に被っていた仮面を外していく過程こそが、ファンと共にそのストーリーをつづって、キャラクターを確立していく事なのです。

儒烏風亭らでん……恐ろしい子!

ストックキャラクターを使う仮面劇というと、日本の『能楽』もその代表のひとつです。即興劇ではありませんが、その源流である『猿楽』には、即興性が多分に含まれていた事でしょう。
能面では、『翁』の面は神であり、『尉』は老人、『中将』は貴族、『癋見』は天狗。
『小面』は若くて美しい女性です。

前述のとおり、Vtuberは、ユーザーに認識されたいキャラクターの仮面をかぶって現れるとするならば、その『小面』を被って現れた儒烏風亭さんは、まさに、それを体現していたと言えるのではないでしょうか。

そして、マクラの済んだ噺家が羽織を脱ぐように、それを外した。これは「自分に仮面を外させたユーザーの皆さんはもう、私のファンです」という宣言に他なりません。

さらに加えるならば、その後「酒カス・ヤニカス・スロカス」という、「ダメ人間」というキャラクターの仮面をかぶろうとして失敗している。

「受け入れられるためのキャラクター付け」という仮面を外して、逆にファンに受け入れられるという過程を、物理的に仮面を外すという行為で、目に見える形にした。
さらには、「受け入れられそうにないキャラクター付け」という仮面をつけることに、失敗してみせる。

ここまでされては、どんなユーザーも、キャラクターのパターンという仮面で彼女を見ることは、断念するしかない。どうしたって、彼女自身のオリジナリティに注目せざるを得ない。
ファンにならざるを得ない。

偶然でしょうか? いや、計り知れない智慧のある女性です。すべては、彼女の掌の上だった……
(ここで白目を剥いて小見出しを読む)

仮面を被っているのは、Vtuberだけだろうか?

いつどこで誰から聞いたのか、全く覚えていませんが、「娯楽は労働を模倣する」という話を聞いた事があります。
曰く、
物理的に動作する機械に向かい、レバーを操作する単純作業が労働の主流であった時は、パチンコが流行り、モニター画面に向かい、キーボードなどの入力装置を操作する労働が出てきた時代に、PCゲームが登場したと。
考えて見れば、農村の郷土芸能には農作業をモチーフにした踊りや歌が数多くあり、海辺の里には漁労にまつわる祭がある。

その理屈が、Vtuberにも適用できるとしたら、どういったものだろうか?

現在、労働という言葉からイメージされるのは、対人労働が多いのではないか。第一次・第二次産業は、今でももちろん重要なのだけれど、仕事のストレス等という言葉で話題に挙がりがちなのは対人関係。
仕事に限らず、私生活においても、ネットの普及以降、お互いに監視し合うようなシーンにはいとまがない。

働いている時はもちろん、模範的な社員や店員の仮面を被る事を強制され、仕事以外でも、自分以外の者がいる場所では、例えば模範的な親だの、常識をわきまえた市民だの、しつけのできた子供だのといった仮面を被る事を求められる。

この仮面に対して、私たちは、単に重荷として受け入れ、あきらめる事しかできないのだろうか?
むしろ仮面を楽しんだり、自由自在にコントロールして、人生を豊かにする手段として利用できないだろうか?

その悩みに答えるように、仮面、すなわちキャラクターを、自分の意志で創作し、共有し、時に捨て去り、自由自在に変化させ、それが多くの人に受け入れられる、その全てを楽しんでみせる存在。
それがVtuberではないか。

全ての者が、何者かである事を求められる時代、それが重荷になりがちな社会にあって、自分の意志で何者かとなり、それを多くの人とともに、自由自在に楽しんで見せるVtuberは、まさに私たちに与えられた希望ではないか。

中の人がリアルを語る事で、キャラクターのフィクションとしてのストーリーがつづられていく不思議。

キャラクターとか、仮面とか、何者かとか、思いつくままに書いて来たせいで、言葉の意味がとっ散らかってしまいました。自分でもよくわからなくなってきましたが、でもまあ、なんとなくニュアンスは伝わっているかと思います。

本書においても、Vtuberというキャラクターのフィクションの度合いは、捉えづらいものとされていたと思います。
実際、Vtuberのキャラクターのフィクション性を、ファンは、どの程度に捉えているのか。
これはかなりややこしい問題。

Vtuberの配信、特に雑談系を見ていると、そのほとんどは現実にあった話なわけです。設定がフィクションのVtuberでも、フィクションの世界のフィクションの体験を語る事は、まずない。

儒烏風亭さんの場合は特に、落語を習っている話も、美術館に行った話も、他のホロメンと会った話も、バイト時代の話も、飲む酒も語る芸術品も、すべて現実世界のもの。
他のVtuberもどうでしょうか? 自分の設定が架空の世界の住人だからと言って、架空の世界の架空の体験を語る事は、あるのでしょうか?

フィクションのキャラクターの語る、現実世界の話を楽しむというのは、改めて考えると、奇妙な事のような、そうでないような、ちょっと戸惑う所。

とはいえ、語る内容が現実であるかどうかは、キャラクターのフィクション性とはあまり関係ない、とも思われます。ドラえもんが恐竜の解説をするからといって、恐竜は架空の存在ではないし、サザエさんが野菜の値上かりを嘆くときには、現実の野菜も値上がりしている。

キャラクターのフィクション性は、語る内容ではなく、その視点にあると言えるでしょう。リアルな立場では取り得ないような、理想的な視点とフィルタリングで現実を見ることができる。リアルな人間ではできないような表現方法で、それを伝えることができる。

Vtuberは希望を与えてくれる存在です。

私たちは、真に現実をありのままに見るという事は、していません。いつだって、そこには他人の目が介入しています。
現実の何を見ても、それを理解し、解釈する際には、それまでに教育されたり、経験した、様々なフィルターがかかります。
「自然は芸術を模倣する」などという言葉はまさに、芸術が、私たちに新しいフィルターを提供することを指しています。

儒烏風亭さんが、現実世界の事を語るのを聴くとき、私たちは彼女のフィルターを通した世界を見ています。
このことは、儒烏風亭らでんというキャラクターが、フィクションか否かという事には関係ないですし、また語るのが彼女以外であっても変わりません。
例えば、『Vtuberの哲学』を読んでいる間、私は山野弘樹氏のフィルターを通してVtuberという存在を見ていたわけです。

儒烏風亭さんの目を通してみる世界は、とても心地よく感じます。
それは、彼女自身の魅力と能力による事はもちろんですが、Vtuberという、フィクションの存在である点にも大きく因っているかと思われます。

フィクションの世界は、全てが思い通りになる、不快な物は何もない、心地よい世界でありうる。無限の可能性と、自由がある。
それに比べれば、現実は苦しく不自由な事ばかり。
そう思いがちです。
けれど、そのフィクションの存在が、現実を素晴らしいもの、美しいものと語るとしたら、どうでしょうか。
今一度、現実だってフィクションに負けず素晴らしいもの、美しいものだと思えるのではないか。

まさに、儒烏風亭らでんさんは、美術、芸術といった、美しいもの、かけがえのないものについて語っています。
また、同じReGLOSSの仲間や、ホロライブの皆さんについて語るときも、本当に幸せそうに、喜びに満ちて話します。

私は、その声を聴くと、自分の生きるこの世界が、美しくかけがえのないもので満たされている、幸せと喜びに満ちていると思うことができるのです。

(徹夜テンションでおかしなことになりそうなので、この辺で切り上げます。読んでくださった方、ありがとうございました。
また、最後になりますが、山野弘樹様、先駆者としての著作に感謝いたします。このジャンルの進展に希望をいただきました。今後ともご活躍なされますよう、願っております)

追記:『第五章 生きた芸術作品としてのVtuber』に関しては、後日あらためて考えたい。

自分は、Vtuberを芸術作品と認識することには反対です。
これは、芸術という言葉、特に現在の芸術の扱いに対して、個人的にかなり複雑な感情を持っていることに因ります。
本書の内容で該当する部分を一部挙げるとすると、ディッキーによる「芸術作品」の定義でしょう。

「ある特定の社会制度(アートワールド)の代表として行動するある種の人ないし人々をして、当の人工物に対して鑑賞のための候補という身分を授与せしめた、そうしたものである」

私は、この定義を認めません。ディッキーがどんなに偉い先生だか知りませんが、私が感動したり、素晴らしいと思ったり、魂を揺さぶられたり、人生を変えられたりしたものの価値を、どこの誰かもしれないアートワールドの代表者とやらに値踏みされたくありません。
そもそも、芸術かどうかを判断する権利を、一部の者に独占させることは、芸術の歴史そのものが否定しているはずですが、どうしてこんな定義になるのでしょう?

さらに言えば、アートワールドなんて大層な言葉を使っていますが、具体的にはどんな連中でしょうか? イーロン・マスクが猿の落書きに大金をはたいたと聞けば、似たような落書きをありがたがって金をドブに捨てるような馬鹿か、彼らを騙して金を吸い込むドブそのもののマモンではありませんか。
そんな連中に目をつけられたら、Vtuberは、生きた芸術作品どころか、ファンから取り上げられ、権利を分割され、投機商品にされて、犬印の暗号通貨みたいに使い捨てられるだけです。

山野弘樹氏はどうお考えかわかりませんが、私は、自分の愛するVtuberが、私たちから奪われ、ズタズタに切り刻まれて、投機商品にされて売りさばかれるのは、絶対に見たくありません。

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