見出し画像

ラヴソングを聴かなくなって

音楽を好きになって、どれくらい経ったのだろうか。

初めて音楽を手元に置いたのは小学校1年生の時だったと思う。まだ8インチサイズだったCD。アニメ『るろうに剣心』の主題歌だった、JUDY AND MARYの『そばかす』を買った。その後、小学校高学年の時にMDプレイヤーを買って、どんな時でも耳元で音楽を鳴らす権利を得た。流行りは小さな耳かけ型のヘッドホンで、耳の裏が痛くなるのにそれに拘っていた。中学校の頃には、友達とカラオケに行き始めた。高校生の頃に、iPodを買った。そして、バンドを始めてギターを買った。

昨年で30歳になった僕が過去を振り変えるだけでも、最早死語の嵐。21世紀を跨いだ世代であり、ゆとり教育の始まりの世代であり、昭和最後の世代は、僕と同様に全員が三十路へと踏み出した。30歳は、一般的には子供が大人になるには十分な時間が経っていると、思わざるを得ない、と思う。

身体も変われば、環境も変わってきた。酒の好き嫌いも、人の好き嫌いも既に確立して、それなりに経験を積んできてしまった。ーーにも拘らず、至って澄ました顔で「まだまだ、ガキのまんまですよ」と周囲には嘯く僕だけれど、最近思ったことがある。

ラヴソングを聴かなくなった、と思う。

ラヴソングと言っても括りが大きくなるので最初に言っておくと、「直接的な表現」を孕んだものだ。

当時の彼女が鼻歌で囁いた<わたしより好きな煙草>という歌詞に、なんとなくワンルームの居心地が悪くなったり、女友人がカラオケで歌う<諦めたくなっても あなたまたホラ優しくするでしょう>なんて歌詞に初恋を思い出してみたり。昔は恋愛に対する自己体験がまだまだ鮮明で、恋愛ってものがきっと自分の真ん中にとても近いところにあったのだと思う。だから共感もしたし、歌詞に自己投影をしていたのだと思う。

でも今はどうだろう。以前よりも、より直喩で表現されることが増えたラヴソングの数々を聴いて、「凄い表現だな」「いいメロディ」なんてことは思うことは多々あれど、いつしかそこに共感をしなくなった。決してディスをしてるわけではなく、事実として僕は君に逢いたくて震えたりしないし、ブラジャーのホックを外すときだけ君のことをわかった気にもならないし、長くなるから<君のことが好きだ>とまとめようとも思わない。

直接的な表現のラヴソングを聴くということは、言ってみれば自傷行為に近いものなのだと思う。何処にも届くことのない救われない想いを、世界で誰かにだけわかって欲しくて、それを耳元の歌に縋って、傷に塗り込んで、形ないものに色を付けて、答え合わせをしてあげたのだと思う。

でもいつしか、ほとんどが自分の経験のストックの中で出来事が展開されていくようになる。想像を超える出来事は起きなくなって、自分の中で答え合わせがどんどんできるようになって、歌の中に答えはいらなくなってきた。

ーー大人になるということは、想像の範疇の中でのみ生きて、いろいろなことを諦めること。そのように僕のことが映るかもしれないが、そうじゃない。何もかもを見上げた先の未来に欲しがっていた僕は、今まで視界にも入らなかったものを見ることができるようになった。見えなくて、届かないものばかりに手を伸ばさなくなった。要するに、より多くのものが見えるようになってきた。

見えるようになって気づいた、横にいてくれる人/モノのことを大切にできるようになった僕は、きっと大人になったのだと思う。その自分のこと、嫌いじゃないなと思う。

<最後の花火に今年もなったな  何年経っても思い出してしまうな >

この歌の中に答えなんてない。聴いた人の中だけに、僕の中だけに答えはある。そんな歌を僕はずっと聴いている。これまでも、きっとこれからも。

ラヴソングを、僕は聴かなくなった。

いただいたサポートは、すべてテキスト作成の経費とさせていただいております。いつも、本当にありがとうございます。