見出し画像

第2章 私のキャリア遍歴(2)−大学専任教員に−ここからが本当の勉強のスタート(1)初めは地方私立大学の専任教員に

2005年4月、広島県内の私立大学で専任講師のポストに就きました。大学の立地している地域は面接時は「町」でしたが、平成の大合併に伴い「市」となっていました。キャンパスは、最寄り駅までバスで約40分ほどかかる場所にあり、一部の教職員と学生はバスで通ってきましたが、他の教職員と学生の多くは自動車で通ってきました。校舎の裏側に広大な駐車場があり、土地が豊富にあることが強みでした。

キャンパスの敷地内に教職員住宅と学生寮が併設されており、また3キロほど離れたところにあるショッピングセンターとの間を結ぶ無料のシャトルバスがあり、車を持たない学生寮暮らしの学生たちに、ちょっとしたレジャーの機会を提供していました。

授業としては、「簿記」、「会計学」、「財務管理論」のほか、ゼミを受け持つことになりました。のんびりした雰囲気の大学でしたが、休講したら必ず補講を行うことが求められ、私の学生時代とは大違いと思ったものです。

私が大学生だった頃に受講していた「税務会計論」の授業で、担当の非常勤講師の先生が「来週は教務課が休んでいいと言ってくれたので、休講にします」と本当に休講になったことや、「経営学総論」の授業で、担当教員が教室にやって来るも、すぐに「今日は頭が痛いので休講にします」と宣言し、そのまま休講になったこともありました。教室では先生の突然の宣言に歓声が上がり、教室からは喜々とした表情をした学生たちが次々と吐き出されていきました。今から考えると、おおらかな時代だったと思います。ちなみに、この2つの科目のお二人の担当教員はすでに泉下の人となられましたので、ここでエピソードをご披露した次第です。

話を広島時代に戻します。大学ではクリーンキャンペーンを担当する委員として、学内のゴミや吸いがらを拾う委員となった程度で、オープンキャンパスなどの学校行事以外校務はほとんどなく、本当にのんびりしていました。専任教員として収入も安定したこともあり、予てからの宿願であった日本の鉄道全線完乗に向けて各地の鉄道路線を訪ね歩くことにしました。

有り余る時間を使って、主に週末や長期休暇の期間に、まず西日本の鉄道路線や名所を訪ねました。都内在住のままであれば、西日本の鉄道や交通の不便な名所を制覇するのは大変ですが、広島に住んでいれば、それは比較的容易です。この時に今はなき芸備線急行「みよし」や西日本鉄道宮地岳線(現、貝塚線)などに乗ることができました。

また、船に乗ってよく離島を訪ねました。日本近代史を専攻する同僚の先生に勧めていただいた大崎下島の「御手洗(みたらい)」を初めて訪問したときに「不便な離島にこんなに立派な街並みがあるのか」と感動したことを今も鮮明に思い出します。

御手洗の地名は、901年に菅原道真公が左遷されて太宰府へ向かう途中に当地に立ち寄った際、手を洗い口をすすいで祈りを捧げたとの伝承などに由来するとされます。

江戸時代に入ると、より安全な航路として瀬戸内海が利用されるようになり、帆船が風待ちや潮待ちをする港として繁栄するようになります。そして、滞在する船乗りたちを相手にした「待合茶屋」が形成され、御手洗で一番初めに開設された置屋だった「若胡子屋」には100人を超える遊女が籍を置いたと言われています。

「若胡子屋」の建物は今も残っており、内部を見学することができます。また、他にも江戸時代の建物が多く立ち並んでいることや住民による保存活動などが評価されて、1994年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

「若胡子屋」の斜向かいには、「金子邸」があります。ここは、江戸時代末、倒幕派の長州藩と広島藩が「御手洗条約」を結んだ場所です。その条約締結後、長州藩と広島藩はただちに、倒幕に向けて京阪へと向かいました。また、広島藩と長州藩の調停のため、坂本龍馬も度々「金子邸」に宿泊したとされています。

私が御手洗を初めて訪ねたのは2005年で、この当時は上蒲刈島と豊島をつなぐ「豊島大橋」が未開通でした。広島県呉市広地区から安芸灘大橋が架橋して陸続きとなっていた上蒲刈島の大浦港までバスで行き、そこから大崎下島の立花港まで船で移動。さらに立花港からバスに乗り換えて御手洗地区へ向かう必要がありました。バスと船の接続が悪く、大浦港で2〜3時間位待たされたこともありました。

豊島大橋が開業したのは、2008年。私が広島を離れる前年のことでした。

橋が開業して広島市内や呉市広地区と御手洗を結ぶ直通バスが走り始めて交通の利便性が向上したことで、御手洗の訪問回数が増えました。御手洗へ向かう途中にある下蒲刈島の「松濤園」へも頻繁に足を運び、広島を離れるまで、ほぼ毎月のように安芸灘大橋を渡るようになっていました。

御手洗をはじめとする広島県内の各地は、アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した映画「ドライブ・マイ・カー」のロケ地として、注目を集めています。しかし、御手洗や大崎下島の本当の素晴らしさは、豊島大橋が架橋される前の雰囲気だったと思います。架橋前は、大崎下島の大長港から対岸の岡村島(愛媛県越智郡関前村、現、今治市)や今治港への船も発着していました。

対岸の四国にもよく出掛けました。お気に入りは、呉の阿賀港と松山の堀江港を結ぶ「呉・松山フェリー」のビジネスパックを使った松山旅行でした。フェリーの会員になると5%引きの6,650円でフェリー往復運賃と松山市内のビジネスホテル1泊がセットになった旅行商品で、手頃な値段だったことから、2ヶ月に1回くらいのペースで足を運びました。しかし、呉・松山フェリーは、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)の供用開始や、2010年前後の時期に民主党政権が実施した高速道路割引実験などで大きな打撃を受け、2009年に廃業に追い込まれてしまいました。

松山だけでなく、高松にも頻繁に足を運びました。また、徳島や高知も幾度となく訪ねました。広島に住んだからこそ、四国の素晴らしさに気付けたのだと思います。

特に、高松は、中心市街地活性化の成功例として注目を集める「丸亀町商店街」、特別名勝の日本庭園「栗林公園」、日本三大水城として海水を導き入れる堀をもつ高松城(玉藻公園)、史跡名勝天然記念物に指定されている屋島など、魅力的なスポットが豊富で、魅了されました。

また、香川県には他にも、高松などから船でアクセスできる芸術の島「直島」、丸亀市の離島で重要伝統的建造物群保存地区の街並みがある「塩飽本島」、金比羅さんとして広く崇敬を集める金刀比羅宮などもあります。

このように、広島時代には、中国・四国地方の訪問を中心として、観光の意義や楽しさを知りました。私は鉄道好きで、旅行は100%鉄道を絡めていましたが、広島に住んでからは、船がメインの旅行やバスがメインの旅行も多く経験し、視野が広がりました。私が観光やまちづくりを本格的に志向するきっかけとなったのは、広島時代の経験が大きかったと思います。2007年には、国内旅行業務取扱管理者試験に合格しました。

一方、大学では医療系の学科に所属していたため、医療を専門としていない私は、思うような研究成果をなかなか出せない状況に思い悩むようになります。また、東京に戻りたいとの思いも抱き続けてきました。教育・研究機関の求人情報サイトのJ-RECINをチェックして、目ぼしい公募に履歴書と教育研究業績書を送り続けました。

北関東の短期大学から、書類審査通過の通知を受けて、面接を受けるも不採用となったこともありましたが、2008年7月に、神奈川県内の私立短期大学から書類審査通過の通知を受け取り、8月下宿に1次面接と学長面接を受けました。そして、9月上旬に電話で内定が通知されました。そして、正式な採用内定通知を文書で受け取ったのは、その数日後のことでした。

こうして、私は2005年2月に東京に引っ越しましたが、今も広島の一部の先生や学生たちとは交流が続いています。広島での4年間は間違いなく、今のキャリアにつながる、充実した時間だったと感じています。

(続く)

著者についてはこちらへ
プロフィール:https://note.com/leoliner/n/nf8605238dfee

研究者情報:https://researchmap.jp/leoliner


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?