アメリカ大学院全不合格体験記(挫折編)・その1

大変ご無沙汰しておりました。学会出張、論文執筆、研究以外の勉強などに忙殺されているうちに前回の投稿から半年が経ってしまいました。ただそんな生活も一段落つきつつあるので、これからはもっと頻繁に発信をしていきたいです。

さて、前回と前々回は「なぜ重力波を研究しようと思ったのか。」について、Caltech主催のサマープログラムに参加したところまでを「立志編」「修行編」の2部に分けて綴りました。今回は少し重々しいタイトルに変えて、僕の挫折した過去を振り返ってみたいと思います。博士を取り終わったなぜ今になってこんな記事を書いたかというと、1つは大きな挫折を精神的に乗り越えるのに年数が必要だったのと、2つ目はやはり世の中には成功体験が多く共有され過ぎていると感じたからです。
キラキラした体験記があたえる憧れは強い動機づけになりますし、僕もそれでとても救われてきました。ただほとんどの受験者(9割以上?)が不合格で終わる現実がある中で、このような記事を読み過ぎてしまうと(書き手の意図にかかわらず)どうしても生存バイアスが働いてしまうとも感じます。断りとして、世間に溢れる合格体験記の多くが純粋な情報発信を意図として書かれていることは理解した上で、そこに反対意見は全くありません。何なら、もし合格していたら僕もキラキラ体験記書いていたと思います。その中にたまにはこんな失敗談の体験記があってもいいよね、という気持ちでそこから得た教訓も含めて本項を綴りますので、ご笑覧ください。

芽吹いたアメリカ大学院進学への思い

サマープログラムを終えた当時の僕は、アメリカにかぶれきっており、小野雅裕さんの「宇宙を目指して海を渡る」を読み漁っては、俺もアメリカ大学院に進んで強く成長するぞ🔥と闘志を燃やしていました。ちょっと1年前まで人生で何がしたいかわからず燻っていた自分が、その時は「アメリカ大学院の天文物理でPh.Dをとる」という6年先まで一気にビジョンを描けたことで、とてつもないエネルギーが体の中から湧き出てくるのを感じました。「あぁ、生きてるってこういうことだ」と思いました。ドラマチックに描いてしまいましたが、冷静に今思い返せば実は大きな誤りが1つありました。「アメリカの大学院=ハーバード、MIT、Caltechなどのトップ校」という等式がなぜか頭の中にあったのです。それもそのはずで、サマープログラムで関わった人はみんなCaltechの教授陣や研究者、ネットで検索をして出てくる人もみんなトップ校の学生。自分の知っているサンプルがあまりにも偏っていたのです。この点に関しては後の気づきとしてまた戻ってこようと思います。

休学から復帰した学部生活

宇宙物理への情熱がいくら燃えど所属は依然として工学部、これをどうにかしないといけませんでした。ただ幸運なことに僕のいた物理工学科に日本の重力波検出器で使われるレーザーの開発に携わる研究室があったのです。迷うことなくその研究室に入り、まずは実験装置の開発に欠かせない光学の基礎をここで勉強しようと決意しました。それに加えて重力波の理解に必要な一般相対性理論と、教養としての宇宙物理学を、外部聴講で履修しましたね。ありがたかったのは、学部間の履修が比較的簡単だったことと、物理工学科は理学部物理科と履修科目自体は酷似していて、これらの授業の理解に前提となる分野(電磁気や量子力学など)はすでに履修済みであったことです。ある程度は順調に歩めているように思えた学部生活にもやはり反省点があります。後述もしますが、やはり卒業研究、国内大学院入試とアメリカ大学院の出願準備を同時に行うのはかなり厳しいということです。

国内の大学院入試

上述のようにアメリカにかぶれていた僕ですが、現実的に国内の大学院も見ておこうと思いいくつか視野に入れていました。ただアメリカ大学院の出願に注力したかったこともあり、国内は東大一択に絞ることになります。これはネームバリューで選んだわけではなく、日本の重力波実験は東大の本郷と宇宙線研究所で一大拠点を築いていて、一回の試験で多くの研究室に希望を出せるのでとてもお得だったからです。それに加えて、重力波に関するデータ解析や理論に精通する研究室もあり、僕の当時の興味とかなり合致していました。そして本郷キャンパスの研究室は簡単に訪問できるため、教授とも話がしやすく各研究室がどのような研究をしているかが把握しやすかったです。こうしていろんな方と話をするうちに、大学院では実験よりも重力波理論・データ解析を学びたいという気持ちが強くなっていました。しかしながら、工学部から理学部物理の宇宙理論系に専門を変えた例は(僕の知り合いの中には)おらず、かなりリスクがある中での受験でした。幸い第一志望だった重力波理論の研究室に拾ってもらい、国内で行くアテを手に入れたというわけです。
当時、研究者というキャリアに対する価値観が偏っており、トップを走っていないとやる意味がないと思っていました。そのため、(こんな学部生に今の自分が会ったらいろいろ諭しにかかっていますが、)当時は(アメリカも含め)東大のどこにも引っ掛からなかったらすっぱり諦めて民間就職するつもりでした。実際は宇宙物理の知識など皆無に等しかった当時の自分が、よくまあこんな偉そうな価値観を持っていたなと思います。ともあれ、そんな僕をポテンシャル採用してくれたその研究室には今でも非常に感謝しています。

出願校選び

夏の終わり頃に東大の合否がわかってから、出願するアメリカ大学院を絞り始めました。選ぶ際に軸としていた基準は「東大と迷うくらいならハナから出願しない」。学びたいことを学べる場が約束されたことから、東大での研究生活に期待している自分もいました。そして物理分野で見ればその当時は(今はどうかわかりませんが)、いわゆる大学ランキングで見て東大もアメリカのトップ校に引きをとっていなかったのも事実です。確か10位くらいだったと記憶しています。ただ今思い返すと、この「ランキングを見る」という行為を志望校選定でやるべきではないと個人的には思っていて、これも後で述べたいと思います。このような経緯でかなり攻めた姿勢で決めた志望校が以下の4つでした
Caltech
MIT
スタンフォード
ハーバード
「…トップオブトップやんけ、ランキングしか見てないやろお前。」という声が聞こえてきます。それは否定できませんが、CaltechとMITは、僕の今所属するLIGOコラボレーションを主導する研究機関で、理論・データ解析・実験と基本何でもでき、ここ選んどけばまあ外れないという位置付けでした。一方、ハーバードとスタンフォードの出願理由はLIGOとは関係なく、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の観測プロジェクトで使われる装置開発のチームがいることでした。そもそも僕が重力波に興味を持ったのは、ビッグバンより前の初期宇宙を観測する限られた手段の1つという理由だったので、このCMBのプロジェクトはこれが動機にあります。

さてこの選択が吉と出るのか、凶と出るのか(タイトル見て察して)、続きは次の記事に書きます。特に、GRE・推薦状やTOEFLがどのような状況だったかを記憶の許す限り振り返り、この挫折から学んだ反省や気づきをまとめたいと思います。

では。

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