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なぜ重力波を研究しようと思ったのか。(修行編)

僕が重力波を研究するまでに至った経緯に関する記事の二編目「修行編」です。
前回の立志編では、学部3年時での勉強会がきっかけで重力波に興味を持ち始め、教授からの紹介を通してカルフォルニア工科大(Caltech)のサマープログラムに参加が決まるまでを綴りました。
このプログラムはCaltech SURFと呼ばれ、主に全米から集められた学部生が、重力波の「実験・データ解析・理論」の分野に分かれて、3ヶ月程度のプロジェクトを現地のチューターとともに進めていく実践的な内容です。
毎夏開催されていて、今年もあるようなので興味がある人のためにリンクを貼っておきます。コロナの感染状況によってはオンラインになる可能性もあるようです。
https://labcit.ligo.caltech.edu/LIGO_web/students/SURF/

このプログラムの開催場所はCaltechのキャンパスがあるカルフォルニア州Pasadena、LIGOの観測装置があるワシントン州Hanfordとルイジアナ州Livingstonです。
Pasadenaはロサンゼルスから車で1時間弱ほど離れた閑静な住宅街で、気候も温暖なため僕としては是非ともそこに行きたいという気持ちがありました。
しかしながら当然多くの学生が同じことを考えるようで、僕の場合は締め切りを大幅に過ぎていたこともあり、PasadenaではなくLivingstonに飛ばされました。
この通知メールが届いた時は少し残念で、「ルイジアナ州とかどこだよ」という気持ちで地図で調べた記憶があります。

事前準備と予習で追われた語学留学期間

その年の4月から大学を休学していた僕は、春からカナダのバンクーバーで語学留学をしていました。心の片隅でアメリカでの大学院留学を意識していて、最低でもTOEFL100点が必要と聞いていたので、当時80点くらいだったのをその留学で100まで持っていくことを目標としていました。
最初は普通に語学学校に通っていたのですが、サマープログラムの参加が確定になるとまず学生ビザに申請しないといけなくなり、それも申請時にはカナダにいたためバンクーバーにあるアメリカ領事館で手続きをしないといけませんでした。
当時限られた英語力を使って、なんとか同意書やビザに関する書類を読み込んで、理解半分でビザ面接に挑んでましたね。

そして何より大変だったのは、事前課題であった論文の読み込み。
SURFプログラムの参加確定メールと同時に、3ヶ月で行うテーマが文面で与えられました。
前回(リンク)紹介した勉強会での経験を買われて参加したので、LIGOの実験装置がある主にレーザー実験に関するテーマだったのですが、当時の自分にはタイトルですら一ミリも理解できませんでした。
「これはやばい」と悟り、勧められた参考論文を読もうとしたのですが、これがまた地獄の始まりで、物理英語の引き出しや背景知識が皆無だと、出てくる単語が何もわからず電子辞書を隣に置いてひたすら調べていたのを覚えています。
例えば、”frequency”という単語。形容詞”frequent”の名詞形なので一般的な文脈では「頻度」という意味ですが、科学論文では「周波数」として使われるかなり頻出の単語です。
これくらいだったら少し調べればわかるものの、「(波の信号に対する)変調」という意味の”modulation”に至っては、そもそも日本語の意味を理解していなかったためとりあえず辞書の意味を鵜呑みにするしかありません。
これを毎日繰り返し、1週間かけてどうにかして読み終えた感想は「うむ、ようわからん」。虚無感とはこのこと。

Caltechは全米トップレベルの大学のため、参加学生に対する要求も高く、課題論文などを読んでテーマに関するレポート数枚を事前に提出しなければいけませんでした。
読解ですら手こずっていた自分が、いわんや英作文をや、という感じで不安でしかなかったので、読んだ論文の各所をつなぎ合わせてどうにか体裁を整えたのを、語学学校の先生に添削を頼みました。その先生から言われた印象的な言葉が
「日頃のあいさつすらおぼつかない君が、なんで俺がわからないような単語を知っているんだ」
日本人研究者あるあるの「喋り始めたばかりの赤ちゃんがいきなり高度な研究内容を話し始める現象」はまさしくこれだったんですね。

ルイジアナでの生活

ルイジアナ州どころか、アメリカに数ヶ月単位で生活するのが人生で初めてだったのでとても刺激的なひと時でした。まず初っ端が空港で車をレンタルするところから始まり、当時はgoogle mapで経路検索するという考えがなく、そこの職員さんが手書きした地図を頼りに学生寮までどうにかしてたどり着きました。ちなみに施設へのアクセスが車しかないため、プログラムの参加の唯一の条件が、『国際運転免許を取れること』でした。この時以上に運転免許を持っていて良かったと思った日はないですね。ともあれ、その後にプログラムを共に過ごすルームメイトが合流し、色々話して打ち解けてからは不安な気持ちが少し和らぎました。ただ、彼から最初に聞かれた”What are you going to work on?(何について研究する予定なの?)”という質問が最初理解できず焦っていた段階で、「こいつあまり英語できないな」と察されていたんだろうなと今となっては感じます…

本題のプロジェクトですが、ざっくりいうとレーザーの強度を測定する実験で、単なる測定ではあるのですが当時の自分には必要な前提知識が多く、土日も関係なく論文や教科書を読み漁ってました。それ以外に辛かったのが、実験のシフト。僕の実験は重力波観測で使われる装置そのものを使った測定だったのですが、それは一辺4kmにも及ぶ巨大なもので、アメリカ全土で2つしかありません。なので、多くの研究者がこぞってその装置を使いたがり、交渉しながら分単位でスケジュールを決めるのです。単なるインターンである当時の自分は現場で一番下の立場だったので、シフトを組む際の優先順位ももちろん最後。会いている時間帯が早朝しかなく、朝4時起きで実験施設に向かった日もありました。

そうやってプロジェクトに忙殺されているうちに3ヶ月があっという間にすぎ、最終日には論文スタイルのレポートを提出し、全参加者及びチューターの前で結果報告会をすることになっていました。研究発表はおろか、英語での口頭発表もほぼ初めてだった僕は、この世の終わりかのような不安に襲われ、スクリプトを全て書き上げて反復練習しているうちに夜が明けていたのを覚えています。なんとか発表もうまく行き、最後には部活の大会を終えた後のような、達成感と安堵感に満たされました。

プログラムを終えて

プログラムを終えた時に抱いた感想は、陳腐ではありますが、「英語の非ネイティブは、ネイティブに比べて倍以上の努力をしないと同じ土俵に立たせてもらえない」ということ。大学受験の時から「英語に費やした勉強時間を全て数学と物理に当てられていたら、もっと賢くなれたのに…」と思ったのは当然のことながら、本プログラム中にアメリカ人のルームメイトに何回嫉妬したことか。研究の課題のほかに、慣れない専門的な英語に苦しみ、プライベートでの英会話もよくわからず、この三重苦を乗り越えるのはそれくらい大変でした。

それと同時に、そのような過酷な環境で奮闘している日本人研究者や大学院生に出会う機会にふれ、同じような環境に身を置いて成長したいと次第に思うようになりました。そして当時、東洋経済のサイトで特集されていた小野雅裕さんの『宇宙を目指して海を渡る』をパソコンに穴があくほど読んでいたこともあり、いとも簡単に感化され、アメリカの大学院入学を本格的に目指すようになりました。

将来のビジョンが徐々に見え始めた僕は、一旦バンクーバーに拠点を戻して休学生活を続けました。牛角でアルバイトをしながら小銭稼ぎをして、冬にはケニアにボランティアに行くなど休学中の話すネタは尽きないのですが、それは(多分)別の機会に書くとして、次の『挫折編』では日本の大学に復学した後にアメリカの大学院に出願するまでの経緯を書こうと思います。

では。

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