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霧の中の乙女

何故この人に惹かれるのだろう。もうひとりの人を悲しませる事を知っていても、自分でも押さえ切れない気持ちに苦しんだことはありませんか。つらい思いをさせた人にもきっと切ない思いがあったのです。

1.霧の碓氷峠

1994年10月
上野発13時、あさま17号は碓氷峠の急勾配をゴトゴトと電気機関車に押されながらのぼっていた。

低周波の振動に、さきほどまでうとうとしていたかおりは、眼を醒ましていた。かおりの右の通路側の席にはしあわせそうに居眠りしている悦子がいる。通路をはさんだ向こうの窓側には外の紅葉を見つめている美弥子がいた。
かおりも左の窓から外をみた。
外は黄色、赤、褐色に染まった紅葉の季節であったが、ミルク色の濃い霧が視界をはばんでいた。 いくつものトンネルをくぐりぬけて、傾斜は突然緩やかになった。

「悦子、軽井沢に着いたよ。起きなさい。」
かおりはまだ眠りから覚めきっていない悦子を起こして、薄紫色のマウンテンパーカーをはおり、網棚の上のリーボックのスポーツバッグを降ろした。悦子はグレーのフリースを着て、あわてて支度をはじめた。美弥子はもうバッグを肩に下げて、出入り口の方へ向かっていた。

「そんなに慌てなくても大丈夫よ。機関車の連結を切り離すのに少し停まってるから。」
かおりは悦子にそう言った。外は相変わらず濃い霧で矢ケ崎山のスキー場の景色は全く見えなかった。
列車の外へ出るとひんやりとした空気がからだを包んだ。
「うわー、さむーい。」
悦子が首をすぼめて驚いていた。
「この天候じゃ、のんびりとした紅葉見物って感じにはならなそうね。」 美弥子はそういうと、
「かおりと出かけると、いつも、大雨とか吹雪とかだよね。」 と文句をいいながら袴線橋の階段をのぼっていた。
「それに、濃霧も付け加えておいて。」
かおりは苦笑しながらバッグを肩に掛け直した。

駅前からタクシーに乗って、おみずばた通りの美弥子の別荘へと向かった。
新道から靄の中を切り裂いて、車は紅葉の鹿島の森に到着した。美弥子の別荘は聖ヨゼフ修道院のそばにあった。
美弥子が鍵を開けて、すこし湿った匂いのする家の中へはいり、明かりを点けた。
あたりは鬱蒼とした森と、深い霧のために午後3時過ぎだというのに暗くなっていた。冷気は家の中にも忍び込んでいた。

「へー、薪ストーブがあるんだ。」
悦子は感心して、ストーブのまわりを見回していた。
「でも、スイッチ、どこにあるんだろう?」

3人はひと休みした後で、
「ここからなら歩いていけるわ。」
という美弥子の言葉にしたがって、旧軽井沢銀座へ行ってみることにした。
旧軽ロータリーから軽井沢銀座を上ってゆくと、深い秋の夕方だというのに意外にも多くの人通りであった。 いくつかの店は閉まっていたが、秋冬物のウェアのワゴンセールが目立っていた。
「えー、フリースがこんなに安いんだ。」
「ほんとだね。あっ、奥にコートもあるよ。」
悦子とかおりは眼を輝かせて値札を確認していた。美弥子は微笑みながら店の外でたばこを 吸っていた。


2.紅葉ギャラリー

少し飲みすぎて遅く起きたものの、2日目の日曜日は、旧軽から見晴台へ紅葉の中を遊歩道を歩いてゆく予定だった。

かおりがいちばん先に起きて、カーテンを開けてみると、鹿島の森方面は、昨日と同様の深い霧につつまれていた。
「ほんとに濃霧もつけくわえてもらわなくっちゃ。」
まだ、寝間着代わりのスエットの上下といういでたちであったが、そおっとベランダへの二重ガラスの戸を開けて、表に出てみた。空気は冷たかったが、湿度はかえって心地よかった。

かおりはベランダのサンダルを履いて庭に降りた。
そして何年も積み重なって堆積した、ふわっとした感覚の針葉樹の落ち葉を踏みしめながら、低い石積みの塀ぞいに、雲場池の方へ歩いてゆくと、ふっと霧が晴れて、隣の家の庭が見えた。そこには、 ざっくりとしたウールのシャツを上着のようにはおった、髪の長い若い男性がイーゼルの上のキャンバスに向かって油絵を描いている姿が見えた。

かおりが針葉樹の落ち葉を踏みしめる音に、彼はふっとこちらを見て、眼が合ってしまった。
「あ、おはようございます。昨日からここへきているんです。すみません、お邪魔しちゃって。」
かおりはとっさにそう言った。彼は痩せてはいたが、大きく涼しげな眼が印象的だった。おはよう、といったのだろうか?微笑んで軽く会釈をすると、ふたたびキャンバスに向かって絵を書き始めた。彼の向いている方向にはスワンレイクとも言われる雲場池が湖水の上に霧をたたえていた。かおりが彼のいた方とは逆の方向へすこし歩くと、まるで今の出会いは夢だったかのように、靄(もや)の中に消えていった。

その日3人は、あいにくの軽井沢特有の霧模様ではあったが、当初の予定通りジーンズにトレッキングシューズを履いて、遊歩道を目指して出発した。

「かおりはいいわよ。もう婚約しちゃって、来年の4月の式を待つだけの売約済みの身だからね。わたしはこの秋の高原で素敵な男性に出会わなくちゃならないんだから、じっと別荘にこもってるわけにいかないの。」
そういう悦子が積極的に出かけようと誘ったのであった。
「素敵な男性がこの天気の中、のんきにハイキングに出かけてくるのかしら。」
美弥子はそう言うとちらっと舌をだした。
「少しとうのたったOL3人組だけがいさましく行進してるだけ、なんて気がする。」
美弥子がそう言うのを聞いて、かおりは笑っていた。

かおりは東京の食品メーカー勤務のOLだった。すでに入社後5年が経過していた。美弥子と悦子とは美大の同期だった。3人とも会社は違うし、それぞれ性格は異なるものの、不思議と気が合って、一緒にでかける機会が多かった。
混雑しはじめた旧軽銀座の入り口を避けて、水車の道をすこし上ってから、ショー記念礼拝堂へ出た。もみじの美しさにかわるがわる記念写真を撮影した。しばらく上り坂を歩いたが、遊覧歩道入り口のところで早くも悦子の気力は萎えてきたようだった。

「どうしたのさっきの勢いは。ナンパされに行くんでしょ?」
美弥子が悦子を励ましたが、悦子は、
「ナンパだなんてはしたない。でも、ハイキングしているのって、お年を召した方かカップルの人たちばっかりね。」
と、口とは裏腹にがっかりしていた。
「まあ、この天気じゃ紅葉も見物できないから、旧軽食べ歩きツアーに変更しよっか?」
美弥子がそう提案すると、残る二人は即座に賛成した。

さきほど、美弥子の別荘で軽くソーセージとジャムを塗ったパンと紅茶で朝食を済ませたばかりであったが、行列のできているパンの浅野屋の前で
「ここの2階のシチューがおいしいんだ。」
子どもの頃から軽井沢に来ている美弥子がそう言ったのを聞いて、悦子とかおりは食欲が湧いてきた。結局、しばらく待った後でビーフシチューとポークビーンズを3人で分け合って食べることにした。
さらにその後でモカソフトを買って、何軒かの店によってみた。かおりは婚約者へのおみやげも買わなければと思っていたので、彫金の店やアクセサリの店を中心に品定めをしていた。通りから少しはいったところに小さい額に入ったきれいな絵を飾っている店があった。
「ちょっと、見ていっていいかしら?」
かおりは返事も聞かないうちに店の中へ入っていった。

意外と奥行きのあるその店の中には大きい油彩の絵も飾ってあった。季節柄か秋の山、軽井沢の紅葉などを描いた油彩、水彩、版画が数多く展示してあった。なかには小さいが値段も手ごろなものもあった。
「まるで、紅葉ギャラリーね。」
美弥子が感心して見回していると、店の奥から髪の長い青年が現れた。顔を上げた瞬間、かおりと眼が合った。
「あ、さっきは、どうも。」
かおりがお辞儀をすると、一瞬わからなかったようだったが、すこしはにかみながら、
「どうも。」
と挨拶をした。


3.雨のロータリー

「ねえ、どこで知り合ったの?」
紅葉ギャラリーを出た後、悦子はかおりに聞いた。
「朝ね、散歩していたら、隣の庭で油絵を描いてたの。」
「すぐ、呼んでくれればよかったのに。でも、あの子、年下だよね。」
「悦子は年上でも、年下でも関係無いんでしょ?」
と、美弥子が口をはさんだ。

「あの子ならいいわよね。お姉さんが教えてあげる、って感じ? でも、私と美弥子はまだフリーだからいいけど、かおりは駄目よね。」
「美弥子だって彼いるじゃない。」
「結婚式の日取りが決まってなければ、フリーなの。」
美弥子はそう言うと、
「さっき買った版画見せて。」
とかおりに言った。

「じゃあ、どこか入ろうか?」
悦子が眼を輝かせると、かおりはあきれて、
「えー、また何か食べるの?信じられない。」
といいながら、版画の包みを抱きしめた。

『絵がお好きなんですか?』
『え、ええ。いちおう、美大だったものですから。』
『この版画、僕が描いたんですけど・・・。どうですか?』
『Autumn colors ですか。素敵ですね。・・・じゃあ、これをいただくわ。』
『ありがとう。』
かおりは窓の外を見ながら、先ほどの短いやりとりを思い出していた。はにかんだような笑顔が印象的だった。となりでは悦子と美弥子がハーブティーを飲みながら、他愛もない会話を続けていた。

しばらくすると、雨が降りだしていた。石畳の上にしぶきがはねているのが見えた。
「ついにこうなったか。かおり、責任とってよね。」
「彼を迎えに来させたら?」
美弥子と悦子は、“雨女”のかおりを責めた。
「ベルコモのなかの店で傘を買ってゆこう?」
かおりは現実に引き戻されて、冷静に答えた。

店を出ると雨はいっそう強くなっていた。濡れるのは覚悟で、小走りに向かい側へわたり、ベルコモンズのなかへ入った。すると、そこに先ほどの紅葉ギャラリーの青年、朝隣の家の庭で油彩を描いていた青年が立っていた。
「あ、先ほどはどうも。」
かおりが先に気づいて、挨拶をした。
「ひどい雨になっちゃいましたね。別荘へ帰られるんですか?」
「え、ええ。ここで傘を買ってかえろうかと・・・。」
「ずぶ濡れになっちゃいますよ。もし、よろしかったら、僕、今別荘へ帰りますから、車で送ってゆきますよ。」
「ほんとですか、うわーラッキー。」
かおりと彼とのあいだに悦子が割り込んできた。

彼は たざきりゅうじ と名乗った。別荘はギャラリーのオーナーのもので、店の番のアルバイトをしながら、ときどき自分の作品を並べているらしかった。彼の作品は淡い色調は繊細だが、構図が独創的だった。
車内では悦子が助手席で大いに売り込んでいたが、りゅうじは、ああ、とかそうですか、とか気のない返事をするだけだった。

りゅうじが送ってくれたお陰であまり濡れずに済んだ。
かおりは他のふたりが髪を乾かしに洗面所へいったとき、版画を包みから取り出して、あらためて見直していた。かなり以前に感じた事のある、胸が締め付けられる思いが 一瞬彼女の心をよぎった。


4.雪の鹿島の森

年が明けて1995年1月、かおりのいつもの通りの生活が少し変化しはじめた。婚約者の賢治とは今までどおり、週1回のペースで会っていたが、話しの内容は自然に、結婚式のこと、旅行のこと、引越しのことが中心になった。
賢治はそういった点では実務的で、てきぱきと段取りを決めてゆくのだった。かおりは、自分を引っ張っていってくれる賢治のことが好きだったのだが、自分の意志とは違う流れに巻き込まれたようにも思えて、すこし戸惑いを感じはじめていた。
彼の実家は松山でめったに帰れないこともあって、自然に都内の彼女の実家に来る事も多くなってきた。

そんなとき、かおりは1月の終わりに独身最後のスキーに行く事になった。
美大のときに、スキー同好会に入っていた彼女は、例年は3月終わり頃まで目一杯滑りにゆくことが恒例であったが、さすがに4月の式を控えて、雪焼けしない時期に今シーズンは終了する事にしたのだった。

最初、賢治も来る予定だったのだが、日曜と月曜にかけて行く計画だったので、仕事の都合がつかず、来られなくなってしまった。
結局、秋の時と同じで、美弥子と悦子とかおりの3人で美弥子の別荘に行く事になった。そこから、軽井沢プリンスホテルスキー場まで車なら10分くらいでゆけるのだった。

「そういえば、あのとき送ってくれた彼、りゅうじくんって言ったっけ。どうしてるかなあ。」
悦子が軽井沢駅からのタクシーの中で何気なくかおりに言った。
「冬はきっとお店は閉めているだろうから、こっちにはいないよ。きっと。」
美弥子がそう答えて、曇った車の窓を手で拭いて、
「やっぱり、雪になった。あまり、この辺は降らないんだけどなあ。」
と、かおりの方を振り返って言った。

ゲレンデのコンディションはアイスバーンであまり良くなかったが、美弥子と悦子につきあって初級迂回コースを滑っていても面白くないので、かおりはスラロームバーンという上級コースにチャレンジすることにした。
途中で迂回へまわる二人とは別れて、ギャップのある急斜面を果敢に降りていった。

きっと、心のどこかになにか引っかかるものがあったのだ。
10ターン目でバランスを崩してしまった。スキー板は交差したが外れなかった。凍ったギャップの頂点に思い切り叩きつけられて、少し滑落して停まった。
最初は息が詰まった感じが苦しかったが、スキーを揃えて立ち上がろうとしたとき、右足首のくるぶしに激痛を感じた。
(しまった。1本目にこんなとこで、怪我するなんて・・・。)

リフト乗り場まで、片足でなんとか滑り降りることができた。1本目なので、ブーツのバックルをしっかり留めていなかったため、足首をひねってしまったようだった。しかし、とりあえず歩く事はできた。

「ごめんね、1本目から。ちょっと気を抜いたらこうなっちゃった。1日券買っちゃったんだから、美弥子と悦子は滑ってて。わたし、何とか歩けるから、先に帰ってるわ。」
「そう?大丈夫、スキー持って帰れるの?」
「ホテルで、タクシー呼ぶから平気よ。湿布薬も持ってきてるし。」
かおりは口とは裏腹に、痛みと、ある不安に顔を曇らせて、ひとりで先に別荘に帰った。

別荘に着くと、荷物をタクシーからおろして、ゆっくりとひとつづつ運ばなければならなかった。スキー板を持って、雪を踏みしめてゆくと、隣の家に明かりが点っているのが見えた。
(あれ、まさか、りゅうじくん、来てるのかしら?)
そんなことはないだろう、と自分に言い聞かせつつも、かおりは体の中がすこし暖かくなったように感じた。

突然、隣の家のドアがひらいた。そして、やはり中からでてきたのは、長い髪、澄んだ目をした、たざきりゅうじ だった。
「あ、・・・かおり、さんですよね。・・・どうしたんですか?」
りゅうじは名前を覚えていた。そして、かおりの歩きかたに気づいて、近寄った。
「プリンスで転んじゃって、1本目からリタイアしたんです。」
「それは、いけない。手当てはしたんですか。」
荷物を力強く抱えて、りゅうじは聞いた。
「いえ、でも湿布薬持っているから。」
りゅうじはすかさずかおりの右側にくると、
「僕の肩につかまって。ほら、いいから!」
といってかおりを支えて、玄関までのアプローチをゆっくり一緒に歩いていった。
「骨に異常がないか、調べた方がいい。捻挫だって、いいかげんに治すとずっと後々まで痛みが残りますよ。今日は日曜日だけど、少し離れたところにやっている病院があるんです。この時間ならまだ間に合うから、僕が連れていってあげましょう。」
「えっ、そんな、申し訳ないですよ。」
と、かおりは遠慮したものの、本音は病院で早めに手当てをしたほうがいい、と思っていた。
「僕だったら、今ちょうどひと区切り付いたところで、買い物に出ようかと思っていたんで、全然気にしないで。・・・困っている人を見過ごす事なんてできないよ。」
荷物を玄関の中に入れると、りゅうじは元気付けるように笑いかけた。
「え、でも。」
「今度、もし僕が困っていたら、助けてください。それで、いいでしょ?」
かおりは屈託のないりゅうじの笑顔に素直に、
「どうもありがとう・・・。」
と答えていた。


5.霧の中の乙女

車は秋に乗ったのと同じ、4ナンバーのパジェロだった。病院へ行く車中でりゅうじは痛みをこらえるかおりの気を紛らそうと、いろいろな話しをした。絵を書き始めた時のこと、店で勘定を間違えたときのこと、大学は学費の滞納で除籍になってしまったこと・・・。
なかでも、絵を書き始めた動機が最もかおりの印象に残った。
東北を旅したときに、日本海に沈む夕日を見て、奥入瀬の新緑を見て、十三湖の荒涼とした風景を見て、無性に風景を描きたくなった、と彼は言っていた。
刻々と変化する光線。あしたになれば、ひとつとして2度と同じ風景は存在しないことが、彼に大きな衝撃を与えたのだった。
「しろうとだからテクニックはよくわからないんだ。でも、きっと僕の心に映った一瞬は切り取っていると思うな。」 かおりは足の痛みも忘れて、熱心に話してくれるりゅうじに聞き入っていた。

病院は隣の町にあった。
診察の間、りゅうじは広い待合室でテレビを見て待っていてくれた。レントゲンを撮り、手当てを終えて1時間が経過していた。
「ごめんなさい。ずいぶん長いこと待たせちゃって。ほんとにどうもありがとう。」
「いいんだよ。それより、足首どうだった?」
「さいわい、骨には異常ないって。捻挫だから湿布して動かさないようにって。サポータくれたわ。」
「それは、良かった。ちゃんと手当てしておけば安心だからね。」
りゅうじはうれしそうに笑った。
たくさんの湿布薬と、痛み止めの飲み薬をもらって、別荘への帰路についた。

「かおりさん。」
「やだ、かおり、でいいわ。なに?」
「君に見てもらいたいものがあるんだ。」
彼は真剣な表情でそう言った。

別荘に着いたのは午後1時過ぎだった。軽井沢は小雪が舞っていた。
「いま描いている絵を見てくれないか?」
りゅうじはそう言って、彼の居るログキャビン風の家へ案内した。
ドアを開けると中の広いリビングはすっかりアトリエになっていた。油絵の具の独特の匂いがかおりの鼻腔をついた。忘れていたものに出会ったようで、とても懐かしかった。

「これなんだ。」
彼が見せてくれた絵は、おそらくあのとき霧の中で彼が描いていたものだった。
幻想的な青緑の霧のなかに薄衣をまとった若い女性が振り向いていた。いまにも霧の向こうに消えてしまいそうで、それでいて見るものを惹きつける眼差しが鮮烈だった。
「これは、実はあのときの、君の姿なんだ・・・。題は、霧の中の乙女。古風だけど、これしか考えられない。」
彼は微笑んで、煉瓦造りの暖炉に火をいれた。

かおりはしばらく見入っていた。ストーブの炎とともに彼女の心の中にもこれまで感じたことのない感動があふれていた。
「な、なんていったらいいのかしら・・・。言葉を失うってこんな感じなのかな。」
「だめ・・・かな?」
「だめ、なんてとんでもない。私にとってこれまで見たなかで最高に感動を与えてくれる絵だわ。」
「そう。そうか。そういってもらえてとってもうれしいよ。僕はあのときの君の姿をおもいうかべながら描いていたんだ。そして、さっき外へでると、本人がいた。・・・何か思いが通じたみたいで信じられなかった。」
りゅうじはとても嬉しそうにまた、キャンバスにむかった。
「すこし、そこに座っていてくれないか?」
「え?」
「普通にしていてくれればいい。」
かおりはうなづいて皮製のソファに座った。

夕方前に美弥子の別荘へ帰って、かおりは婚約者の賢治に電話をした。日曜日なので彼は自分のマンションにいた。
「ごめん。怪我しちゃった。」
「えっ?怪我だって?スキーなんかに行くからだよ。調子に乗って転んだんだろ?結婚式にギブスはめてたらみっともないだろ。もう2度と行かせないからな。」
賢治は怒ってまくしたてた。
(怒る前に、少し心配してくれればいいのに・・・。)
こうなることがわかっていたので電話するのがいやだったのだ。

翌日も彼女はスキーには行かなかった。美弥子と悦子はせっかくだからとタクシーで朝早くからプリンスホテルスキー場へ出かけていった。
そして、ふたたび隣の家を尋ねたのだった。
「あ、いらっしゃい、きのうはモデルになってくれて、どうもありがとう。足は大丈夫?」
「あなたのおかげで、手当てが早かったからだいぶ楽になったわ。こちらこそありがとう。」

濃い目の紅茶をごちそうになりながら、かおりはもういちど霧の中の乙女を見せてもらった。
昨日より一層手を加えてあって、人物が浮き上がってくるようだった。
「僕はこの絵を持って、ニューヨークへ行こうと思う。」
「えっ?ニューヨーク?」
突然の言葉にかおりは驚いてティーカップを 落としそうになってしまった。



6.旅立ちの季節

1995年3月ももう終わりに近づいていた。

「それで、めずらしく相談だなんて、どうしたんだ?」
会社で唯一信頼できる上司の岡野は、徳利で日本酒を注ぎながら、かおりにそう問い掛けた。
「それが、そのお。」
「言いにくそうだな。まあ、いいさ。簡単に言える事なら、わざわざあらたまって話しをすることもないんだから。」

岡野は人懐こい微笑みを浮かべて、
「さあ、美味しいものを食べよう。天ぷらは熱いうちがうまいんだ。」
と料理すすめた。

しばらくは、当たり障りのないはなしが続いた。
「実は、わたしどうしようか悩んでるんです。・・・課長もご存知のとおりもうすぐ結婚することになってるんですけど・・・。」
「・・・けど、か。それで?」
「このまま、流れに任せて結婚してしまっていいものかどうか・・・。」
「婚約者の彼の事で、なにかあったのか?」
「ある、といえばあるし・・・。でも・・・。」
「他に、もっと好きな人でもできたのか?」

心の奥底まで見通すような眼で、岡野はかおりを見つめた。
「は・・・はい。」
かおりは眼をそらさずに続けた。
「なんて言ったらいいのか、私にもわからないんですけど、惹かれるんです。・・・わたしはこういう人とずっと一緒にいたかったんじゃないかって、どうしても思えて・・・。」

『最初で最後のチャンスかもしれない。この別荘の持ち主でギャラリーのオーナーがしばらくニューヨークのソーホーにいるんだけど、自信の持てる作品が描けたらそれを持ってニューヨークに来い、っていってくれているんだ。』
『いままで、自信を持ってこれだ、といえるものが描けなかったんだけど、今回のかおりをモデルにした、霧の中の乙女は自分でも最高だと思えるものになった。』
『売れる、とかお金になる、とかじゃなくて、たくさんの人に、この絵を見てもらいたい。そういう気持ちに初めてなれた。』
『自分でも不思議だけど、パワーが湧いてきたんだ。』
『もし、もしも向こうでどこかのギャラリーに飾られる事になったら、そのときは一緒に見てくれないか?』
熱く語るりゅうじの言葉を思い出しながら、かおりは一部始終を岡野に話した。
「現実的な損得を考えてしまったら、もう式の準備も整っているし、収入だっていちおう安定している婚約者と結婚するのがいいに決まってるのはわかるんです、けど・・・。」
「けど・・か。それ以外のもっと大事なところで、きっとしっくりいかない感じがあるんだね。」
かおりはうなずいた。
「この人は自分とは合わないんじゃないかって、いまになってたびたび感じるようになってきたんです。」

「結論は君の中でもうでているんじゃないか?」
岡野はぐいっと日本酒をあけると、ずばりそう言った。そして、視線を床の間の沈丁花に向けて続けた。

「僕は遠い昔、つらい経験をしたことがある。」
「課長がですか?」
「そうだ。恋人、というわけではなかったんだが、一緒にスキーへいって、素晴らしい景色を見て、もう1度一緒に来ようと約束をしていた友達がいたんだが・・・。その後、彼女は・・・若くして急に亡くなったんだ。」
「・・・。」
「ああ、すまん、変な話しをして。でも、それから、後悔するような生き方だけは、彼女のためにも絶対にしないようにしてきたつもりだ・・・。」
「そうだったんですか。」
「彼女ももっときっとやりたいことがあったろう。本当に好きな人と、遠いところへ一緒に行って、美しい景色を見て感動するというような経験もきっとしたかったろう・・・。ってときどき今でも思い出しているよ。・・・ちょうど今くらいの季節だったな。」
それだけ言うと岡野は遠くを見るような眼でかおりを見た。

「やらないですませれば、それは確かに楽かもしれない。でも、必ずあとで後悔するだろう。逆に思い切って飛び立ってみて、もし、結果が悪かったとしても果たして後悔するだろうか?・・・楽な道が必ずしも自分にとって良い事とは限らないってことだな。」
すこし微笑むと岡野はふたたび杯を一気に飲み干した。
「急に退職することになるかもしれませんが、・・・すみません。でも、今日はどうもありがとうございました。やっぱり、課長に相談して良かったです。」
しばらくしてかおりは少し涙ぐみながらもすっきりとした表情で岡野に礼を言った。

家に帰った後、かおりは賢治に手紙を書き始めた。
『ここまできて、このような手紙を書く事をお許しください。』
『自分の気持ちに素直になろうと決意しました。』
『あなたには本当によくして頂いたのに、申し訳ないと思っています。』
『ずっと私の気持ちは理解していただけないかもしれません。』
『いまさらと言われるでしょうが、私にとって、あなたは本当のやすらぎを与えてくれる人ではなかったことに気づいたのです。』
『わたしはニューヨークへ行こうと思います。』
何度も何度も書いては破った。どうしても、自分の気持ちを文章で表現しきれなかった。
賢治からの電話にも出ずに、ひとり思い悩んだ。
本当に思い切って飛び立っていいのだろうか?
裏切られた者の気持ちはどうなるんだろう?
賢治には何も大きな問題があったわけではなかっただけに、1週間は食事も喉を通らない状態になってしまった。

4月3日、ただならぬ様子をいぶかった母親に、正直に自分の気持ちを告げた。
どうしてもこのような気持ちのまま結婚してしまうわけにはいかない、と。当然のことながら、猛反対にあった。しかし、その主たる理由は世間体によるものだった。長い時間の後、結論はでた。

翌日、式場へキャンセルすることを連絡して、招待者へも連絡を済ませた。
しかし、かおりは賢治にどうしても直接話しをすることができなかった。自分が裏切ったものに対して、いかなる弁明も許されない事が分かっていたから。
トラブルからの逃避であるとは悟っていたが、この気持ちを引きずって結婚をすることはかならず二人とも不幸になる、という確信のみが自分の行動を支えていた。
その日、かおりは荷物をまとめて家を出た。その日の晩から、都内のホテルに宿泊した。
結局、賢治への手紙は書くことができなかった。
そして、本来なら結婚式の当日の8日に
「ケンジごめんなさい。 かおり」
という手紙をポストに投函して、かおりはりゅうじと一緒に成田空港へ向かった。
4月というのに少し肌寒かった。旅立つ二人を優しく包むように小雨が降っていた。
<おわり>

ケンジの場合

岡野慎太郎の場合

美弥子の場合


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