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志賀高原 忘れ得ぬ終わりの季節

何気なく誘い合った楽しいスキーツアー。それは忘れられない切ない思い出でもあるのです。


1.最後の春休み

1980年3月16日日曜日
僕は岡野慎太郎。ついに大学の卒論の発表も終わり、残された学校の行事はいよいよ卒業式だけとなった。今後の人生で2度と味わえない、ほっとしたような、はかないような最後の春休みを迎えた。
その晩、高校時代からの友人の大島裕介から電話がかかってきた。
「岡野。もうこんなこと2度とできないんだぜ。平日に思い切り死ぬほどスキーをしようぜ。志賀へ行こう。熊の湯のリバーサイドホテルならいつでも部屋とれるから。」
「スキーか。あまり、気乗りしないな。それに冬休みも卒論で忙しくてバイトしなかったし。金がない。」
「なんだ、おまえ。去年まであんなに一心にスラロームでインカレ目指していたのに。あの情熱はなくなったのか。膝は大丈夫なんだろう。」
「なんか、楽しくなくなった。スキーはやれるだけやったからもういいよ。」
「とにかく行こうぜ。実はもう宿は押さえてある。」
「え、宿も取ってあるのか。行くともいってないのに。」
リビングで電話をしていたら、耳ざとい妹の郁美が近寄ってきた。
「お兄ちゃん。大島さんでしょ。スキーに行くの?。いつから?。ねえ一緒に連れてってよ。友達の晴美もすっごく行きたがってるんだよ。お兄ちゃんに教わりたいって。」
「お前、今電話中だよ。うるさいんだよ。」
このやり取りは大島にも聞こえた。
「郁美ちゃんか?。岡野、電話かわれ、かわれ。ああ、郁美ちゃん?。大島です。しばらく。スキー行きたいって?。いいぞ。連れてってやるぞ。」
「えっ。ほんとですか?。行きます行きます。兄がうじうじして行かないなら、私と友達の女の子を連れていってください。大島さんの車で行くんでしょう?。」
「おおいいぞ。高校3年生のかわいい子を二人連れてゆくのを断るほど俺は馬鹿じゃないよ。ところで、あっさっての晩からなんだけど、スケジュールは大丈夫なの?。」
「そんなもの、あったって、変更しちゃいます。友達もスキー1回しかやったことないけど、上手な人と絶対に1度行きたいって言ってるんです。大島さんて北海道出身ですごく強いスキーをするって兄が言ってましたよ。教えてください。」
「よし。まかせておきなさい。」
「絶対ですよ。友達に連絡しちゃいますからね。じゃ兄に替わりますから。ちょっと待ってください。」
送話口を押さえて、妹はいーっという顔をして受話器を渡してくれた。僕は(お前なあ、母さんにもいわないで…)などぶつぶつ言いながら、電話に出た。大島は言った。
「お前かわいい妹がこういってるんだぜ。たまには妹の面倒を見てやれよ。俺だけでまさか連れてくってわけにもいかないだろ。」
「なぜ?。それでもいいじゃないか。」
「ばか。部屋は一つしか取れてないんだぞ。お前がいればいいけど。俺だけという訳にはいかん。」
「え、部屋一つなのにお前はそういう安請け合いをしちゃうわけ?。信じがたいいい加減さだな。」
うしろで郁美は、(部屋一つでいいじゃんいいじゃん。)と既にうきうきしている。
「わかったよ。しようがない。行きますよ。まあ、これが最後のスキーってことだな。」
「お前はなぜそういう風に理屈をつけずにいられないんだ?。まあいい。郁美ちゃん達を教えるだけでなくお前の根性も直してやろう。」
「あさっての晩って、もしかして宿の予約がか?。そしたら、明日の夜中に出るってことじゃないか。」
「そうだよ。」
「そうだよじゃないよ。お前はなんでそう無鉄砲にどんどん物事を進められるわけ?。」
後ろで郁美が、(明日の晩、いいぞ、どんどん行こう。)と大島に加勢している。そしてキッチンのほうへ飛んでいって、(お母さん、お兄ちゃんたちが一緒に志賀へスキーに連れてってくれるんだって、行ってもいいよね。)と大声でいっている。
「岡野みたいな深刻なやつには、俺みたいな明るい良い友達が必要ってことさ。はっはっは。それじゃあな、明日の夜中の12時頃おまえの家に行くからな、支度しておけよ。」
がちゃん、と元気良く電話が切れた。
「おにいちゃん。ちょっと電話貸して。」
郁美が受話器を取ると、友達のところへ電話をかけた。
「あもしもし、桑島さんのお宅ですか?。岡野ですけど、晴美さんいらっしゃいますか?。」
(まったく、外ではおしとやかにしてるんだから。)と僕は思った。
「あ、晴美。スキー行きたいって行ってたよね。実はお兄ちゃんとお兄ちゃんの友達が明日の晩から志賀へ行くから連れてってくれるんだって。ねえ、一緒に行こうよ。もちろん車。こんなチャンス一生に2度とないよ。」
(よくもそう口からでまかせがでてくるな。連れてってやるなんていつ言った。お前は悪徳セールスマンになれるよ。)と思っている僕にはおかまいなしに、
「え、予定はないけど、お母さんに相談するって?。いいわ、私が説明してあげるからお母さんに替わって。」
郁美は結局、友人の桑島晴美とその母を5分も経たないうちに説得してしまった。


2.出発

1980年3月18日火曜日 午前0時

大島裕介は江東区東陽町から彼の中古の愛車、レオーネの4WDのバンにのって恵比寿駅のそばの僕の家に来た。僕の家にはすでに午後9時頃から桑島晴美が来ていた。
晴美は妹の郁美とは違って、おとなしいタイプの子だった。

「こんばんは。遅くにどうも。」
大島は僕の母にそつのない挨拶をした。妹の郁美がしゃしゃり出てきた。
「こんばんは。今日はどうもありがとうございます。私が郁美で、この子が晴美。二人合わせて仲良しミミーズでーす。」
お調子者の郁美が馬鹿な挨拶をした。
「いいねえ。この底抜けの明るさ。僕は大島裕介。ゆうすけと呼んでください。」
「ねっ、気さくな人でしょう。うちのお兄ちゃんはなんかかっこつけてるけど。大島さんはその点おとななのよね。」
「裕介、でいいですよ。」
「さあ、荷物を積み込んで出発だ。」

僕は大島が来るのを待っている間にエッジを砥ぎ直して、アイロンでホットワックスをかけたロシニョールのSTコンペを結束し、スキーキャリアに乗せた。キャリアにはすでに大島のオーリンが積んであった。次に郁美のロシニョールを積んだ。そして、最後に晴美の新品のダイナスターを積んで、結束のゴムバンドをかけた。
その間リアゲートをあけて、大島がブーツのバッグとウェアの入ったバッグを積み込んでいた。最後にストックを荷物の上に乗せるように積んで、リアゲートをバンと閉じた。

「よし、行くぞ。」
最初は、僕が運転することにした。イグニッションキーをオンにすると、カラカラという独特の水平対抗エンジンのサウンドが深夜の街に響いた。カーステレオからはイーグルスの Take It Easy が流れていた。

明治通りから目白通りにはいり、練馬インターから関越自動車道にはいった。夜中だというのに仲良しミミーズははしゃぎどおしだった。(といっても、うるさいのはもっぱらうちの郁美だったが。)
助手席には晴美、僕の後ろに郁美、助手席の後ろに大島が乗っていた。

「おい、途中で交代するんだから、大島を少し寝かせてやってくれ。」
「いいよいいよ。楽しいじゃん。こういうの。学生最後のスキーツアーが最高のものになりそうで、俺はうれしいよ。」
「ねえ、晴美。裕介さんて人間できてるでしょ。お兄ちゃんもすこし見習いなさい。」
晴美はふふふと笑って言った。
「でも、郁美はいいよね。そうやってなんでも言えるお兄さんがいて。私、弟がいるだけだから、とってもうらやましい。」
「これは、もしかしたらハルちゃんは岡野のこと気に入ってる?。」
「え、そんな。」
「裕介さん。晴美はオクテなんだから、からかっちゃだめよ。」
「郁美はお転婆でじゃじゃ馬だから、いくらからかってもいいけどね。」
僕は郁美にしかえしをした。

外は関越のとぎれとぎれの照明だけの暗闇だったが、車の中は楽しい旅行への期待でとても明るく、眠気はすっかりどこかへ飛んでいった。僕の心にひっかかっていたものも少し融けだしてきた。
(二人とも化粧っ気もないし、色気はまだまだだね。でも、そのままがいいような気がするよ。)


3.254号から18号へ

関越は東松山で終わりだった。インターを降りてから少し行ったところのロイヤルホストで軽く夜食とコーヒーをとった。そこから、254号線にはいり、藤岡、下仁田を通って内山峠に入った。
「ここから、ところどころダートだ。」
大島に以前教わったことのある、四駆のギアを入れた。サスに突き上げるショックを感じた。ざざあ、というノイズとともに少し横滑りをしながら狭い山道を4WDは駆け抜けてゆく。闇の空をよく見ると奇妙な形をした山が道の両側に迫っている。しばらく行くと、できたばかりの内山トンネルはそこまでの道とうってかわって明るく広々としていた。そこを抜けて快適な道を少し走ると、佐久の市街だった。もう既に4時になっていた。大島も郁美も眠っているようだった。晴美は運転している僕を気遣って、時折、小さい声で眠気覚ましに会話をしてくれた。
「スキーは何年やってるんですか?」
「中学1年のときからだから丁度10シーズンになるんだな。」
「競技スキーをやってたって郁美からききました。いいところまでいっていたって。」
「ああ、スラロームをやっていた。自分なりに一生懸命やっていたんだけど、でも去年の学内のインカレ出場のための選抜レースで、2本目に大失敗したんだ。」
僕はあまり人に喋ったことのない思い出したくないことを、つい素直な質問に思わず答えてしまっていた。
「吹雪の中、急斜面に落ちて行くところのブラインドゲートが続くところで、今でも時々夢にみるんだけど、右ターンで右のスキーのインエッジがポールに引っかかった。そして、大転倒して、右のひざをやってしまった。それ以来、スキーが恐くなった。」
「そうだったんですか。なんか、悪いこと聞いちゃいましたね。ごめんなさい。でも、恐いっていう感じ、私とはレベルは全然違うんでしょうけど、私にもあります。今も、スキーに行けるのがとても楽しいのに、反面うまくスキーが操作できなかったらどうしようっていう不安感でいっぱいなんです。」
「いや、レベルは問題じゃないかもしれない。僕も同じ気持ちさ。うまくスキーが操作できなかったらどうしようって。」
「変なの。インカレのレベルの人と、初心者の私と同じ気持ちなんて。」
「おもしろいね。じゃあ、一緒に練習しよう。」
僕達は一緒に笑った。笑い声に郁美が起きてしまった。
「あら、おとなしい二人組みがなんか明るく笑っている。」
「いま、どこだ。」
大島も起きてしまった。外はもう明るくなっていた。
「18号の小諸をすぎたところだよ。」
「ごめん、ずっと運転させて。交代しよう。」
そこから、大島が残りの道のりを運転することになった。今度は僕と晴美が後部座席で眠る番だった。郁美は助手席に移っても眠っていたが。
気が付くと湯田中から夜間瀬川にかかる橋を渡って左へ屈曲した急な坂を上っているところだった。時刻は7時半だった。右前方の志賀高原方面の天候は厚い雲に覆われ、思わしくなかった。
「こりゃ横手は吹雪かな。」
大島がつぶやいた。「3月だっていうのに。誰か、雨男じゃない吹雪男がいるね。」
郁美が(そういうこといっちゃだめ、お兄ちゃん気にしてるんだから)というしぐさを大島にした。
「吹雪ってこわいですよね。何も見えなくなっちゃうから。」
いつのまにか起きていた晴美はそういった。
「吹雪は恐いよ。何も見えなくなる。」
僕もそういった。僕と晴美はお互いの顔を見て笑った。
「あれ、変なの。私たちが眠っている間に二人に何があったの?。」
郁美が不満そうに言った。
「いいことじゃん。その調子その調子。吹雪の日もあるし、晴れの日もあるってこと。そういえばハルちゃんは天気の晴れの字だね。縁起がいいよね。」
徹夜あけの少しハイな状態の大島が鼻歌を歌いながらそう言った。


4.志賀草津道路

志賀草津道路の料金所の手前で、チェーンを着けるために車を停めた。僕と大島は手慣れたもので、炊事用のゴム手袋をして5分くらいで前輪にチェーンを取り付けた。暖かい車内と異なり、外は雪が舞い、とても寒かった。郁美と晴美はスキーウェアを羽織って、僕達の作業を見ていた。生意気な郁美が本気で感心をしたようだった。
「さすがに、男の人ね。こういうのが要領よくできるって、かっこいいよね。」
僕は、寒そうに両腕を前で抱くようにしている晴美に説明をした。
「四輪駆動とオールシーズンタイヤでも、この道はなめてかかると痛い目にあうんだ。」
「そうなんですか?。3月なのにそんなにすごい雪道なんですか?。」
「怖がっているわけではないけど、ここで一度車を停めて、こういう風に一息いれることで余裕ができて、安全に走れるんだ。突っ走るだけが速いわけじゃないんだよ。」
大島がいつも僕達が話していることを、晴美と郁美に言った。その時、ランドクルーザーが料金を払った後、ディーゼルエンジンを思い切りふかして緩い左カーブの坂道を上っていった。
「あれは、悪い見本。黒い煙を出して、空気も悪くなる。」

3つめのカーブから雪道になった。4輪駆動は次々にカーブの続く志賀草津道路をチェーンのグリップで確実にのぼってゆく。いくつめかの左ヘアピンを力強くコーナリングしたところで、先ほどのランドクルーザが右側の雪の壁に右後部から突っ込んでいた。

「ほら、悪い見本。一息つくことも、楽しい旅行には必要というわけだ。」
大島は普段は明るくまわりを楽しませる男だが、このようにときどき良いことを言う。
(そうか、一息つくことも必要だな。)
僕は横を通り過ぎながら、ランドクルーザーから降りてくる人達を眺めていた。
丸池の一の瀬への分岐を通り過ぎて志賀草津道路の冬季の終点、横手山に向かった。すでに外は本格的な雪だった。さいわい道路は除雪車が通った後で走りやすかった。木戸池を越えて左右が開けたところで正面にうっすらと熊の湯スキー場が見えた。

「あれが熊の湯だ。」
僕は初めてここへ来た晴美に教えた。
「えーっ!。あんな急なところを滑るんですか?。あれじゃ壁じゃないですか。私、絶対だめです。」
「ここから見ると80度くらいあるように見えるけど、あれでも30度くらいだよ。きっと3日滑ればあの第3リフトのコースが降りられるようになるよ。」
「お兄ちゃん、来る前はぶつぶつ文句言ってたのに、すっかり晴美のコーチのつもりね。」
「お前と違って素直なハルちゃんと一緒に練習するんだ。」
「よし、じゃあ私はお兄ちゃんと違って明るい裕介さんに強いスキーを教えてもらおう。」
「よおし、吹雪の中しっかりついてこいよ。」
宿に着くと、大島はフロントと交渉して、仮眠を取るための部屋を確保した。荷物を部屋へ運んで、部屋の布団を引っ張り出して敷いた。着替えもせずに部屋の端の壁際から、大島、僕、郁美、晴美の順に寝た。すぐに大島はかるいいびきをかいてぐっすり眠ってしまった。僕も少し眼を閉じたら、先ほどの関越の風景、254号線の風景が瞼の裏にフラッシュバックして、いつのまにか眠っていた。


5.コーヒーブレイク

雪の落ちるばさっという音で僕は目覚めた。2時間くらい眠ったのだろうか。時計を見ると10時20分だった。僕はまだ眠っている大島を起こさないように気をつけながら、カーテンを少し開けて外を見た。春の大きめの結晶の雪が、次から次へとめどなく空から落ちてきて、眺めをさえぎっていた。「すごい雪だ。ゲレンデがまるで見えない。」
小さい声でつぶやいたら、部屋の端から応える声があった。
「さっきより、降ってるんですか?。」
晴美だった。
「あ、起こしちゃった?。」
「なんか、興奮して眠れなくて。ほとんど起きてました。」
「そう。外はすごい雪だよ。重そうな雪だ。せっかく来たのに、これじゃ、つまらないね。」
僕がそう晴美に言うと、壁際から声がした。
「つまらないだって?。ハルちゃん、そんなことないよ。こういうときこそ、基本の練習ができるよ。岡野、ちゃんと教えてやれよ。」
大島がいつのまにか起きていた。
(それもそうだな。あの時よりはずっとましだ。)
僕はそう思った。

「うーん。お兄ちゃん、いま、何時。」といいながら、やっと郁美が目覚めた。
「もうすぐ10時半だ。」
「さあ、支度して行こうぜ。僕達はすぐ支度できるから、先に君たちが着替えなさい。おい、岡野、ロビーでコーヒー飲もうぜ。」
大島は一方的に段取りを決めると、部屋の外へ出ていった。
僕達はロビーで、自動販売機の紙コップのコーヒーを飲んでいた。
「おい、大島。郁美たちと一緒だったから、聞かなかったが、あのひとつ年上のJALのスチュワーデスとはどうなったんだ。先週、もめたんじゃないのか。」
「ああ。正確に言うとスチュワーデスではなくて地上勤務だけど。でも、もめたというよりは、一方的にふられてしまった、という感じだな。」
「大学2年の時からだから、2年半くらいつきあっていたんだろ。今になってどうして?。これから、やっとお前も商社マンになって、対等につきあえるようになるっていうのに。」
「こっちがいくら一人前になろうと背伸びしても、追いつけないんだな。もうすこし歳を取れば感覚のずれは減ったと思うんだけど。まあ、広い世界に飛び出せば、もっといい男がたくさんいて、比較されて相対的に負けてしまったんだろうな。」
「それがおまえのいいところなんだろうが、あっさりと諦められるのか?。」
「岡野。顔で笑って、心で泣いて、っていうやつだよ。俺だって血の通った人間だ。ひとりでいれば気持ちが動揺して苦しくなるよ。でも、彼女をうらむ気持ちを持ったところで何も変わらない。実は、今回のスキーでお前にこの話しをして、そして、思いっきり最後の春休みにスキーをして、気持ちを切り替えようと思ってたんだ。いつまでも、少女のようにめそめそしてられんからな。」
大島は少しだけ陰のある微笑を浮かべた。
(昨日からあんなに明るく振る舞う大島にそんなことがあったとは。)
「そうか。そうだったのか。よし、思い切りスキーしよう。後悔のない最後の春休みにしよう。」
「岡野だって、去年、あのレースの後、目茶苦茶落ち込んだじゃないか。失恋とのダブルパンチだったもんな。なんか、お前あれからずっと陰を引きずっているよな。だけどなあ、俺らたかだか22歳じゃないか、これから社会にでてどんなにたくさんいいことがあるかわからない。そう考えようぜ。・・ってお前を励ますふりをして、実は自分に言い聞かせているんだけど。」
ふふっと、大島は笑った。
「前から言ってたと思うんだけど、岡野もどこかで気持ちに区切りをつけろ。失敗しない人間なんてどこにもいないよ。なんでも思い通りにいくことなんてないんだよ。でも、予定していない楽しいことだってたくさんある。俺は今回のツアー、最初に考えていたよりずっと楽しいものになっているよ。」
「そうだね。最初に思っていたよりね。」
一呼吸して僕は続けた。
「…ところで、話しは変わるけど、うちの郁美はおまえのこと気に入ってるよ。あれでよかったら、気晴らしに一緒に遊んでやってくれ。俺が言うのも変だが、これから短大へ入って、絶対奇麗になるとおもうよ。」
「かわいくなったと思うけど、申し訳ないが、郁美ちゃんじゃ、カンジナイんだよ。オンナとして扱えないんだな。二人とも18にしちゃあ子供っぽいよな。5年後くらいに考えとくよ。あ、これは彼女たちに言っちゃあだめだよ。」
「お前、年上が好みだからな。…ああ、ごめん。余計なことだった。」
そこへ、着替えの終わった郁美と晴美が来た。郁美はモンクレーの赤のダウンジャケットに赤いキャップ。キャップから耳を出してストレートの髪は後ろで少し低めにポニーテイルにしていた。晴美は流行のリバティイベルの白いウェアに白いニットの帽子、帽子の後ろから長い髪を三つ編みにしていた。
「お待たせ。はい、部屋の鍵。晴美、私たちもコーヒー飲もう。」
「赤ギャルに白ギャルだね。なんか、性格がウェアに反映されている感じ。いや、いい意味で。」
大島が意味不明のフォローをしながら、鍵を受け取って、僕達は部屋へ行った。


6.雪の第1ゲレンデ(その1)

僕と大島はすばやく着替えを済ませた。僕は郁美と色違いのモンクレーの青のダウンジャケットで、大島はノースフェイスの濃い赤い色のダウンジャケットだった。ロビーへゆくと、郁美も晴美もすでにいなかった。僕達はブーツとスキーが置いてあった乾燥室へそのまま向かった。ちょうど晴美が苦労して新品のノルディカのブーツを履いているところだった。
「どうしたの。きついの?。」
と大島が晴美に聞いた。
「ちょっと。昨日、お店で履いたときは、平気だったんですけど。」
僕は晴美の足元にしゃがみこんでバックルを調べた。
「もう1度全部はずすよ。―そしたらね緩めた状態で、爪先をトントンと軽く突いて、その後で椅子に座ってかかとをトントンとすこし強めに突いてごらん。そう。どう?。」
「あ、かかとが納まった感じがする。」
「そうしたら、一番ゆるくバックルを締めてごらん。痛くない?。」
「大丈夫です。」
「じゃあ、ゲレンデまでこの状態で歩いてゆこう。スキーをつけたら少しづつ締めればたぶん問題無いよ。」
「お兄ちゃん、晴美にはずいぶん親切なのね。よそでは、いつも女の人にそういうふうなの?。」
郁美が余計なことを言っている。大島が、今シーズンから使っているハンソンのリアエントリーブーツを履きながら答えた。
「郁美ちゃん。僕が保証するよ。慎太郎お兄さんは、誰にでもあう言う風にはしてないよ。あえて言えば、ハルちゃんは特別だってことかな。」
大島も無責任にからかっている。が、いやな気分はしなかった。

「晴美は今回2回目なんです。おとといの晩の電話の後、昨日、お茶の水にウェア以外全部買いに行ったんですよ。表に出さないタイプだけど、晴美もすごい気合入ってますよ。」
僕は普段は帽子をかぶらないのだが、寒そうなので郁美と同じ、溌水生地の赤いキャップを後ろ前にかぶった。そして、ゴーグルで帽子を固定した。
「この前、ステンマルクが練習のときそういう格好をしていたよな。おまえ、かっこつけてるわりにはミーハーなところがあるよな。」
「お前だってレイクプラシッドのマークの入ったニットキャップにゴーグルして、海和さんにあやかってるんじゃないの。」
「お互い様ってことか。さあて、かわいいミミズちゃんたち。吹雪の中へ行きましょう。」
「やだ、裕介さんたら。ミミズじゃないよ。ミミーズ。」
大島と郁美のやり取りに、滑り出す前の若干の緊張がほぐれた。

玄関をでて、橋を渡ってすぐ第1ゲレンデがある。スキーをかついで歩く距離が短いので大島はこの宿を定宿にしている。予約の時名前を言うだけで部屋を優先して取ってくれるらしい。僕達はそれぞれリフト券を買って、スキーを履いた。ゲレンデはまるで温泉のなかにいるように曇っていて、下の方が見えるだけだった。僕は今シーズンは前のクラブの仲間につきあって2回ほど行っただけだったので、トータルで7日目だった。昨シーズンまで年間50日滑っていたことを思えば信じられない少なさだった。

「寒いから最初ちょっと身体をほぐしたほうがいいよ。あっちの平らな新雪の積もったところに行ってみよう。」
大島が雪の降りしきる中、僕達を案内する。
「ここで少しスキーで歩いて、端までいったら、キックターンしてごらん。」
最初に、大島が見本を見せた。続いて僕が同じようにやってみた。
「それじゃあ、郁美ちゃん、やってごらん。」
郁美は高校1年のときから何回もスキーに連れてきて鍛えていたので、難なくキックターンができた。
「よし、次はハルちゃんだ。行ってみよう。」
緊張が感じられる、なんとか歩くのは大丈夫だったが、案の定キックターンで足を上げたときにバランスを崩して倒れてしまった。20センチくらいの新雪に埋まっている。僕はストックの先をつかんで起こしてあげた。
「大丈夫?。冷たいでしょ。」
「大丈夫です。この前はなんとかできたんだけど。難しいですね。あらやだ、雪の上に私の形が残ってる。」
それを見て晴美が楽しそうに笑ったので、みんなも笑った。
「今日は新雪だからハルちゃんのかわいいスタンプがたくさんできるよ。」
と、大島が言った。


7.雪の第1ゲレンデ(その2)

「そうだな。スキーを振り上げて立てる時にしっかりストックでささえてごらん。そしてゆっくり確実にひとつづつ動作するんだ。」
僕は晴美にアドバイスをした。今度はあぶなげなくキックターンができた。
「やったあ。すごい。」
晴美は大喜びだった。
「それが、急な斜面でもできるように何回も練習するんだ。自信が持てればどこでもできるよ。」
僕達は雪の中で20回くらいキックターンを練習した。少し積もった新雪の、悪条件のなかであったが、郁美も晴美も確実にできるようになっていた。
「よーし。これで身体も暖まったし、滑りに行こう。きっと、今の練習は後で役に立つよ。」
大島がそう言って先頭を切ってリフト乗り場にスケーティングで滑っていった。つづいて郁美が滑っていった。そして晴美がスキーの先を開いてスケーティングをしようとしたが、なかなか前へ進めなかった。
「ハルちゃん。無理しないでいいよ。平らだからスキーを揃えてストックを使って歩いて行こう。」
「はい。じゃあ先に行ってください。私遅いですから。」
「いいよ、いいよ、ゆっくり一緒に行こう。あわてて行かずに一息つくことも大切だ。」
僕は、料金所で大島が言っていたことと同じ事を晴美に言った。そして、先に行く大島に声をかけた。
「おーい、大島。先に郁美と滑ってろ。俺はハルちゃんと一緒に後からいくから。」
大島は左のストックを挙げて応えて第1リフトの乗り場に滑り込んでいった。
「だいじょうぶだ。あせらないで自分のペースでいいよ。」
僕は晴美を励ましながら、自分がだいぶ以前にもう意識しなくなっていた感覚を思い出していた。(ゆっくり確実にすこしづつ前に進む、か。でも、ちゃんとリフトに近づいてるよね。)
リフト乗り場へ着いたときには、もう大島と郁美は1本滑り終えてきた。「郁美、もう滑ってきたの。いまやっと着いたとこだよ。」
「お兄ちゃんが付いてればだいじょうぶ。や・さ・し・く教えてくれるよ。それより、裕介さんすごいよ。ホットドッグスキーみたい。目茶苦茶かっこいい。スキーしてると。」
「なんだ、そのスキーしてると、ってえのは。してないとどうなんだよ。」
「してないとねえ、コメディアンみたい。」
「それは、ひどいんじゃない?。」
「だって、ミミズちゃんなんていうんだもん。おかえし。」
二人はそんなやりとりをしながらまたリフトに乗っていった。晴美もシングルリフトに上手に乗れた。雪は少し小降りになってきた。降り場に着くと僕は晴美に、
「靴を少し締めてみよう。」
と言って、晴美の足元でブーツのバックルを一コマきつく締めてみた。「あ、今度は痛くないです。足もぐらつかないし。いい感じ。」
「よーし。ハルちゃん1本目、気楽に行ってみよう。」
大島が晴美に声をかけた。
「はーい。桑島晴美いってきます。」
晴美が初級コースをプルークボーゲンで滑り出した。少しぎこちなかったがターンはコントロールできていた。
「なんだ、結構すべれるじゃないか。よし、今度は気取った慎太郎お兄ちゃん、行ってみよう。」
大島の声に押し出されるように僕はスタートを切った。右ひざはサポータで保護してあるが、吹雪の中の悪夢がどうしても頭をよぎる。スキーを取られないように気をつけて、右、左、右、左と均等なリズムで少し新雪の付いた緩斜面を雪しぶきを上げながらショートターンで滑りおりた。
ゲレンデ途中の木が1本立っているところで晴美が待っていた。
「すごーい。当たり前だけどやっぱりうまいですね。」
「次に大島が滑ってくるけど、良く見てごらん。僕とどこかが違うから。」大島が、少し荒っぽいが、浅まわり、深まわり、ロングターン、ショートターンとリズムを変えながら滑ってきた。
「ほんとだ。すごい。慎太郎さんとはまた違う感じ。自由自在に雪と遊んでるみたいですね。」
「今度は郁美だ。」
郁美は中ターンでパラレルで降りてくる。きっかけの時に少しひざが開いている。
「郁美ちゃん、結構じょうずだね。」
大島が感心していた。
「じゃあ、ハルちゃん。今度は僕についてきてごらん。上体の力を抜いてリラックスしていってみよう。」
「はい。」
僕のプルークの後に晴美がついて来る。円を描くように右、左とターンをする。(ゆっくりと、確実に。)と心で念じながらリードした。
ゲレンデの中間の端のところで1度止まった。
「どうだった。僕と同じところでターンできた?。」
「はい。なんとか。ひとりで滑るよりうまくなったみたい。上手な人の取るコースって滑りやすいですね。」
「それは、良かった。」
そこへ、大島が滑り降りてきた。
「ハルちゃん、いいじゃないか。なんか安心してついていってる感じがわかるよね。や・さ・し・いコーチにいっぱい教えてもらえよ。」
晴美がとてもうれしそうに笑った。3人でゲレンデの上の方を見ると、郁美がストックを挙げて、スタートを切った。郁美はロングターンで滑ってきた。
「雪が降っていても、気持ちいーい。」
郁美は派手にエッジングをして、停止しながらそう叫んだ。
「もう1回滑ったら、めし食わないか?。いい加減、腹減ったよ。」
大島がそう提案した。そういえば、朝食をまだ食べていなかった。


8.温泉へ行こう

1日目はずっと雪が降っていた。大島と郁美のコンビは熊の湯の一通りのゲレンデを滑った。僕と晴美は、緩斜面でプルークボーゲンと、少しだけ斜滑降の練習をした。午後4時には僕達は宿に帰った。
「雪の降るなかでも結構楽しめたろ。」
大島はスキーを肩から降ろしながら満足げに言った。
「いちばんうれしかったのは、ボーゲンで好きなところをスイスイ滑れるようになったことです。」
晴美は本当にうれしそうに応えた。郁美も大島について思い切り滑れて面白かったらしい。
「やっぱり来てよかったね、晴美。」

僕達はスキーを乾燥室に置きブーツを脱いで、ロビーへ上がった。
「朝と逆に僕達が先に着替えるから、ちょっと待っててね。」
大島が郁美たちにそう告げ、僕達は部屋へ戻った。スキーウェアとスキーパンツを脱いで、ひざのサポータをはずすとなんともいえない開放感を味わった。
「岡野。俺思うんだけど、お前サポータしないで滑ったほうがいいんじゃないか。」
「でも、これで固定していないと、スキーを踏めないんだ。」
「今日の滑りでも、そんなもの必要なのか?。もう、ポールでコンマ何秒を競うわけじゃないんだぞ。自分の滑りにこだわらずにハルちゃんを教えていた今日のお前の滑りはすごく自然だった。相手は“自然”だろ。雪が降れば降ったなりの、晴れれば晴れたなりの怪我をしないような楽しみかたがあるんじゃないかなあ。あとね、ひざに故障があれば、ひざに無理のない滑りで楽しめるんじゃないか。どうしてこんなことを言うかっていうと、この前スキーに行ったときに、片足の不自由なスキーヤーがいたんだ。俺は最初大丈夫か、と思ったが、とんでもない。彼は俺なんかとても及ばない素晴らしい滑りをしていた。俺は涙が出るくらい感動した。見ているだけでスキーをしている喜びを感じたんだよ。こう言っちゃあなんだが、お前の滑りを見ていると、あくまで、あのレースの直前のイメージを必死で追い求めて、過去の型にはめ込もうとしているように見える。」
僕は大島の鋭い指摘に何も答えられなかった。
「また、具合が良くなってレースをやる時にそう考えればいいじゃない?。今はフリースキーをしてるんだから、環境とか体調とかを調和させて、なにしろエンジョイすることだよ。今日の郁美ちゃんとハルちゃんの滑りを見ていたら、こっちまで楽しくなってきたろ。」
「うん、確かにそうだ。ハルちゃんがとてもうれしそうなのを見て素直にうれしかった。」
僕達はしゃべりながら着替え終わっていた。
ドアを開けながら、大島は一言。
「郁美ちゃんとハルちゃんに楽しみかたを教わることだな。」

ロビーへ行って大島が二人に声をかけた。
「ミミーズちゃんたち、お待たせ。さあ、窮屈な服を脱いでおいで。」
「はーい。でもなんか“服を脱いでおいで“っておじさんぽくってやらしくない。」
郁美がすっかり大島に言いたいことを言っている。
「おじさんは、いやらしいから、今晩は覚悟しておきな。うふふふ。」
「やだあ。いやらしい。でも、晴美、万一のときのために温泉できれいに身体洗っておこうね。」
と郁美はいいながら舌を出して、晴美と部屋に行った。
しばらくして、白いスエットに着替えた晴美が僕達を呼びに来た。部屋へ戻るとピンクのスエットを着た郁美が体育座りをしてサービスのおまんじゅうを食べながらテレビを見ていた。
「郁美、お前、中学生じゃないんだからそういう格好でまんじゅう食ってんじゃないよ。」
「いいじゃん。いいじゃん。こういう姿を見られるのもこの春が最後かもよ。もうすぐ花の女子大生だよ。裕介さん、私を今のうちに予約するとお得ですよ。」
「考えとくよ。いずれにしても今晩は、みんながいるから、予約ってわけにはいかないね。」
「さあ、楽しい馬鹿話はそれくらいにして、温泉に行って疲れをとろうぜ。」
「おっ、めずらしく前向きな提案が岡野慎太郎君からでましたね。1日でだいぶ進歩したな。はっはっは。」
大島は大笑いすると、さっそく風呂へゆく支度をしはじめた。

風呂は天然温泉だった。湯船で全身の筋肉をほぐしながら、右ひざをしばらくさすっていた。以前あったうずくような痛みは殆ど感じなかった。
(きょうは楽な滑りを一生懸命ハルちゃんに教えようとしていたから、無理な力がどこにもかかっていなかったんだな。もしかしたら、大島の言った通り楽しむスキーができるかもしれない。)
大島はそれを知ってか知らずか、変な鼻歌を歌いながら、身体を洗っていた。


9.楽しく更けてゆく雪の夜

温泉の後、食堂でみんなで湯上がりのビールを飲みながら、冷たい岩魚の焼き魚と、定番の固形燃料で煮る水炊き鍋の夕食を食べた。
「意外にハルちゃんは平気でビールを飲むんだね。郁美ちゃんのほうが赤くなっているよ。」
「私、本当はワインが好きなんです。あ、未成年がそういうこと言っちゃやばいですよね。」
「おっと。ハルちゃんの意外な面を発見したなあ。なあ、慎太郎。たのもしいじゃないか。」
「じゃあさ、ワインをもらおうか。志賀高原ワインっていうのがあったよね。ロゼでいいかな。」
「いい、いい。なんでもいいから、頼もう。」
郁美はすっかりハイになっている。
僕達はロゼのボトルを半分ほど飲んで、あと半分は部屋に戻って飲むことにした。
部屋に戻ると、午後8時だった。しかし、寝不足と、スキーの心地よい疲れと、ビールとワインの酔いで、僕は眠くなっていた。テレビを点けた後、座布団を2枚並べてうつぶせになって寝転がった。その直後、郁美が僕の背中にまたがって乗ってきた。
「お前、何すんだよ。重たいだろう。」
「まあ、失礼な。疲れているみたいだから、マッサージをしてあげようと思ったんだよ。」
郁美が肩甲骨の際から背中にかけて指圧のようなマッサージをしてくれた。温泉とアルコールのあとでマッサージをしてもらうのは、正直言って天国のようだった。当たり前だが、郁美は普段はこんなことは決してしない。よほど、今日のスキーが機嫌を良くさせたのだろう。
(でも、もしかしたら、ずっと僕がハルちゃんの相手をしていて、郁美は少しやきもちを妬いてたのかな。)
ちょっとそんな気がした。しばらく、マッサージをしてもらった後で、次は、僕が郁美の背中に乗ってマッサージをしてやった。
「ほんとにうらやましいよね。仲の良い兄妹って。」
大島がワインを飲みながらニコニコしていた。
「ほんとですよね。妬けるからワイン飲もうっと。」
晴美はワインのせいかいつもよりよく喋るようになっている。僕がマッサージをやめようとすると、郁美はため息と一緒に、
「ああ、お兄ちゃん、気持ちいい。もっとして。」
といった。これには、大島も晴美も飲んでいたワインを吹き出しそうになった。僕も郁美の背中からとびあがってしまった。
「郁美ちゃん。そりゃ、声だけ隣の客に聞かれたら、大変な勘違いされるよ。」
大島が大喜びでからかった。晴美も口を押さえて大笑いして、止まらなくなってしまった。
みんなでボトルを開けてしまったあと、歯を磨いて、眠ることにした。寝床を敷いて朝と同じ順番でふとんにはいった。すぐにうとうとしはじめたが、郁美が一言つぶやいた。
「本当に来てよかったね。」


10.快晴の横手山頂へ

2日目の朝を迎えた。
僕が一番の早起きだった。郁美は僕の布団の方に寄って僕の方を向いて無邪気に眠っていた。晴美はこちらに背を向けるように床の間のほうを向いて眠っていた。僕は仰向けに口をあけて寝ている大島を起こさないように気をつけながら、ゲレンデに向いている窓のカーテンを開けてみた。
(やった、快晴だ。)
置いてあった腕時計を見ると、午前6時23分だった。昨日とおなじように、僕の動く気配に晴美が起きてしまった。内緒話のようなとても小さい声で、
「おはようございます。」
と言って、にっこり笑った。そして、窓の外を指差しながらまた小声で言った。
「今日の天気はどうですか?。」
「ハルちゃんの名前とおんなじ、晴れ、だよ。」
「やったあ。大島さんの言った通りになりましたね。」
名前を呼ばれて、大島が起きたようだった。
「うーん。なに、晴れた?。ほんとか。そりゃよかった。じゃおやすみ。」
彼はまだ半分眠っていた。
「よし。今日は横手山の山頂を越えて、渋峠まで行ってみよう。ハルちゃん、そこには面白いレストハウスがあって、壁の真ん中に線が入っていて半分は群馬県、半分は長野県なんだよ。そこから浅間山もすぐそばに見えるし、富士山も見えるときがあるんだ。」
「えーすごい、絶対行きましょう、って私行くのはいいけど帰ってこられるかしら。」
「迂回コースがあるし、昨日の調子なら大丈夫だよ。きっとこの天気なら最高だよ。」
僕達が期待に盛り上がっていると、郁美がやっと目覚めた。
「なに、天気が良くなった?。それは良かったわ。でも眠いからおやすみ。」
大島とほぼ同じ感想をもらしてまた布団の中にはいってしまった。

窓の外に輝くゲレンデの見える食堂で朝食を取った後で、例によって交代で、部屋へ戻ってスキーの支度をした。昨日の大島の忠告のとおり、今日は右ひざのワイヤー入りのサポーターをしないことにした。
「そうか、自分の足で試してみるのか。」
大島がうれしそうに笑った。
「いや、試すんじゃないよ。遊んでみるんだよ。」
「ナイス。今日はきっと最高なスキーになるぞ。」
外へでると空はポスターで見るような深いブルーだった。僕達はスキーをかついで横手山スキー場へ行く急な坂道をのぼった。
「3月のこの天気でダウンじゃ暑かったかなあ。」
郁美がふうふう言いながら歩いている。今日は帽子をかぶらず赤いバンダナでポニーテイルにしている。

「山頂へ行けばちょうど良くなるよ。」
僕は郁美と晴美に言った。晴美は今日もニットの白い帽子を被っている。大島はノースフェイスのダウンの上にLサイズのプリントTシャツを着るといったふざけた格好をしていた。鉢巻きのように紺色のバンダナを頭に巻いている。
「なんかそれ、すごいデブにみえますね。」
郁美が大島に昨日にひきつづき言いたいことを言っている。
僕は今日は帽子はかぶらず、ミラーグラスをかけていた。
横手山の最初のシングルリフトは、ほとんど斜度のないコースの上を延々と上っていった。真正面にブルーの空をバックに真っ白な横手山が浮かび上がっていた。頂上にテレビのアンテナがはっきりと見えている。山頂方面には雲はまったくなかった。1本目のリフトを降りると晴美は目を丸くして訴えるように言った。
「あの頂上を越えてゆくんですか?。」
「そうだよ。ここは日本でもっとも標高の高いスキー場で、山頂は2305メートルもあるんだよ。昨日の雪で雪質は北海道よりいいかもしれない。」
最後の第3リフトは極端な急斜面を上るために、スキーを脱いで手に抱えて乗らなければならなかった。たっぷりと積雪があったので、乗っているリフトから1メートル下には雪の斜面があった。途中から非常に冷たい風が吹きつけてきた。
山頂に到着したときには、寒さのため耳が痛くなっていた。
「本当だ、ダウン着て来て良かった。」
郁美がそういいながらステップインのサロモンの555のバインディングを踏み込んでスキーを履いた。
「ほら、熊の湯の方を見てみな。すばらしい景色だ。」
大島が笠岳の方を指差しながら、郁美と晴美に言った。
「うわー、すごい。」
二人とも声にならないような叫びをあげて感激していた。笠岳のはるか向こうには屏風のように連なる北アルプスが見えた。

「さあ、群馬県側の渋峠スキー場に行くぜ。」
平らな部分を歩くように滑って、リフトぞいを少し滑ると、こんどは右手に浅間山が大きく見えた。
「ほら、あそこにうっすらと富士山が見えるだろう。」
僕が郁美と晴美に教えてあげた。
「あ、ほんとだ。富士山だ。」
「左手には谷川連峰も見えるんだよ。一度に北アルプスから富士山まで見わたせるところは他にないんじゃないかな。」
「きょうはこういう景色が見られただけでもとてもうれしい。なんか生きてて良かったっていう感じ。スキーって滑るだけが楽しみではなかったんですね。」
晴美がほんとうにうれしそうにそう言った。
「そうなんだ。こういう景色を見ると、たとえば悩み事があっても、そんなものはとても小さく感じられて、深刻になってるのが馬鹿馬鹿しくなっちゃだろ。深呼吸すれば思わずすっきりしてしまう。たとえば、思い通りにスキーが操作できなくても、雪にまみれて転倒してもぜんぜん気にならない、むしろ楽しめてしまう。僕達のスキーはそれでいいんだよ。」
大島は彼女たちに教えているフリをして、彼自身のこと、そして僕のことを言っているのだった。彼にいわれるまでもなく、この恵まれた天候と景色には、僕もすべてを忘れて、まったく素直に感動していたのだった。

その日の滑りはスキーを始めてから、初めて味わう楽しさに溢れたものになった。初級迂回コースを晴美に教えながら滑るのも楽しかったし、晴美を大島に見てもらって、郁美と新雪の上級コースをハイスピードで降りるのも面白かった。自分の傷めたひざの許す限りで、無理をせず、形も気にせず粉雪の雪煙にむせびながら滑るのは、まさに至福の時といって良かった。
「お兄ちゃん。いい顔してるよ。」
郁美がリフト待ちの時にそう言った。
「僕だけじゃないよ。郁美も、ハルちゃんも、大島もすごくいい表情だ。」
「さっき、ハルちゃんがすこし急なところで、斜面の端の新雪のところまで行ってしまってどうするかなあ、と思ったんだけど、自分でちゃんとキックターンして、斜滑降で真ん中にもどってきたんだよ。すごい進歩だよね。」
大島が僕達に報告をした。
「やっぱり、昨日の雪の中の特訓が役に立ったんですよ。」
晴美はほめられて、すこし恥ずかしそうに言った。春の日差しは雪に反射しながらも、季節の移り変わりを主張するかのように 力強くみんなを包んでいた。


11.乾杯 !

その日は1日中横手山で滑りつづけて、宿に帰ったのは5時近かった。5時半には全員スエットに着替えて部屋で心地よい疲れを感じながら、休んでいた。
「岡野、足大丈夫か?。」
大島が心配して聞いてきた。
「ああ、ひざに負担のかからない滑りを自然にやっていた。ミミーズに楽しみかたと転びかたを教わったよ。」
「新雪で3回も転んじゃった。もうくたくた。でも、今日は最高だったね。お兄ちゃんとスキーに来てこんなに天気が良かったのは初めてだね。」
「郁美、お前なんか顔すごく日焼けしてない?。にこって笑うと歯が真っ白に目立つ。」
「えー、お兄ちゃんほんと?。でも、いいや。サーファーぽく見えるでしょ。いま、流行だから。」
「郁美は髪の毛もレイヤーになってるし、そういうの似合うから、明るいグリーンのアイシャドウつけて、パールの入った口紅つければ、ぴったりだね。」
と晴美が言った。郁美は自分の顔を鏡に映してみた後、僕達の顔をしげしげと見ながら言った。
「でも、お兄ちゃんも、裕介さんももっと真っ黒になってるよ。」
「これは、大島に教わったんだけど、メンソレータムを顔に塗っておいたんだよ。そうすると、肌が傷まずにきれいに日焼けするんだ。」
「ふうん。わたしも明日塗ろうかしら。」
「女の子はあまり日焼けしない方がいいみたいだよ。年取ってから苦労するって。」
年上の女性にすこし詳しい大島が解説をした。

その日も、温泉にゆっくり入ったあとで、食事の時にビールを飲むことにした。
「さあ、楽しいスキーツアーも最後の晩になった。みんなでスキーシーズンの終わりを惜しみながら乾杯をしよう。」
大島がみんなにビールを注ぎながらそう言った。郁美は注いでもらいながら、
「スキーシーズンは終わりでも、私たちのスキーは今回始まったような気がする。」
としみじみ感想を述べた。大島が乾杯の音頭をとった。
「最高の天気と、最高の仲間と、そして、これからのみんなの新しい門出に、かんぱーい。」
「かんぱーい。」
思わずこぼれたみんなの笑顔は素敵だった。

「岡野、お前、過去の失恋へのこだわりは捨てろ。あれ以来、女とほとんど接触を断っていたじゃないか。むしろ逆に積極的にいろいろな人とコンタクトするべきだよ。」
酔いが少しまわったあとで大島がみんなの前で核心を突いてきた。いままでならば避けてきた話題だが、僕もその日は気持ちがふっきれていて素直に応えた。
「そうかもしれないね。」
「まあ、いろいろな女がいて、いろいろな男がいる。ある人にとってはすごくいい人でも、他の人にはいいとは限らないんだ。確かに奇麗な娘だったけれど、あの娘は俺が見てもお前には合っていなかった。」
「そんなに、奇麗な方だったんですか?。」
晴美が遠慮がちにではあるが、興味深げに質問してきた。大島が応えた。
「まあ、モデルのタイプだね。郁美ちゃんは会ったことあるよね。」
「ええ、でもちょっと冷たい感じがしたけど。」
郁美はそう応えた後、晴美に小さい声で、(お兄ちゃんね、一緒のクラブだったその人にふたまたかけられたの。)と説明していた。大島は言った。
「俺は、今回郁美ちゃんやハルちゃんとスキーに来られて、当然、恋愛対象としての男と女としてじゃないんだけど、いろんな話しをして、一緒に美しい景色をみることができて、とても良かったと思ってるよ。」
「私も、同年代の男の子とは違う考え方をしてるな、ってすごく感じました。」
晴美が僕の方を見てそう言った。郁美がいつになく真面目な顔で僕に言った。
「そうだよ。お兄ちゃん、まだ隠居するには若すぎるから、社会人になったら会社の同僚の女の人ともっと遊びに行ったらいいよ。もちろん、女子大生になった私たちとも一緒に遊びに行ってね。私も前から言おうか迷ってたんだけど、いろいろな人と出会えばきっとお兄ちゃんにぴったりの人が見つかると思うよ。」
その後すかさず大島が、
「ハルちゃんも有力候補だね。」
と言った。晴美はそれを聞いて(そんな…)と言って赤くなってしまった。僕は助け船をだした。
「だめだよ、ハルちゃんをからかっちゃ。」
「お転婆でじゃじゃ馬の郁美と違ってウブなんだから、って言うんでしょ?。」
郁美が口をとがらせて文句を言った。
「でも、そんな郁美ちゃんのことを、最高っていう人がすぐに現れるよ、きっと。」
大島がナイスフォローを決めた。機嫌の直った郁美は図々しく、
「大島さんがそういってくれたらいいのに。でも、スキーしてるとき言ってね。スキーしてるとかっこいいから、うっかり、私も好きよ、なんて言っちゃうかもしれないから。」
と、フォローしてくれた大島にきわどい牽制球を投げた。
その日の晩も日中の疲れで全員健康的に午後9時には布団を敷いて寝ることになった。電気を消して、おやすみと言った後、布団に入ると、隣に寝ている郁美が僕の布団の中に手を入れてきて、僕の手を握った。小さい頃郁美は寝るとき手を握ってやらないと眠らなかった。そんなことを思い出して、郁美の手をやさしく包んであげた。 そしてみんないつのまにか ぐっすりと眠ってしまった。


12.忘れ得ぬ終わりの季節

最後の日も、天候は快晴だった。今日は熊の湯を滑ることにしていた。朝ゲレンデに出るときに、帰りの時刻は午後1時と決めた。晴美を目黒の家まで送ってゆくのに、午後10時までには送り届けたい。そのためには午後1時が滑れる限界と思われた。
第1ゲレンデ、第2ゲレンデと足慣らしをした後で、晴美も一緒に急斜面の第3ゲレンデに行くことにした。通路のようなコースを通って、斜面のトップに立ったとき晴美が思わず言った。
「えー、こんな急なところ滑れない。」
「ハルちゃん、今回斜滑降できるようになったろ。それで、端まで行ったら得意のキックターンをすればいいよ。もし、ターンができそうだったらボーゲンで楽なところで廻ればいい。自分のできることをやればいいんだよ。」
僕は晴美の緊張をときほぐすように教えた。
「でも、正直言ってこわいです。」
「じゃあね、僕の後ろについてきてごらん。楽々ターンできるよ。」
「はい。でも、落っこちるときは一緒ですよ。」
僕達はスタートを切った。最上部がもっとも斜度がきびしかった。ここは左足を谷足にして斜面の端まで斜滑降で引っ張って、ギャップの鞍部を使ってボーゲンで左ターンをした。一心に後ろをついてきている晴美もうまく同じ場所でターンできた。同じ要領で今度は右ターンをした。5ターンくらいでもっとも急斜度の部分はクリアできた。斜滑降のまま、山まわりで一回停止した。
「やったじゃないか。見事に30度の斜面をクリアできたよ。上を見上げてごらん。」
「やったあ。でも、慎太郎さんのおかげです。私は必死でくっついていっただけですから。」
最上部では、郁美と大島がストックを振っている。そしてふたりは郁美が大島の少し前になる形でスタートした。郁美が切れ上がるようなショートターンでリズムをわざと変えながら滑っている。斜め後ろの大島は、それにぴったりとリズムを合わせて平行に同じように滑っている。
「すごい。まるでデュエットみたい。ぴったり息が合っているわ。」
「いや、あれは大島が絶妙に合わしているんだよ。でも前を滑っている郁美は明らかに大島の滑りを真似しているよね。」
僕と晴美はフィギュアスケートのような二人の滑りをみていた。僕達の立ち止まっているところで、郁美と大島も停止した。
「お見事。郁美、お前大島の滑りに似てきたな。」
「ありがと。上手になったでしょ。なんかねえ、裕介さんの真似をしていたら、ぽんって踏んで切れあがる感じがわかったのよ。でも、晴美もすごいじゃない。2回目のスキーでこれだけ滑れれば相当なもんだよ。」
「ほんと。自分でも信じられない。慎太郎コーチのお陰です。」
「いやいや、そのコーチは君たちのお陰で深刻な求道者から、フリースキーをエンジョイできるように解脱できたんだよ。」
大島が大袈裟に言っている。でも、確かにそうだった。思い残すことは何もなかった。


楽しかった時間もついに終わりの時が来た。

午後1時を過ぎたところで、僕達は宿へ帰って少し汗ばんだウェアを着替えて、帰り支度をした。そして、なぜか来るときよりふくれあがってしまった荷物を車に積み込んだ。みんなすこし無口になっていた。
大島は上りの雪道で汚れてしまったレオーネバンのエンジンを掛けた。僕達はたくさんの思い出のおみやげのできた志賀高原、熊の湯・横手山スキー場を後にすることになった。
カーステレオのカセットはC,S,N&Yの4WAY STREETというレコードの ON THE WAY HOME という曲だった。
車は駐車場からでて、志賀草津道路へ左折した。大島以外の3人は明るい日差しの中、後ろに見える熊の湯の第3ゲレンデをみんなで振り返っていた。
そして、郁美が助手席の窓を開けると、
「さようなら、ありがとう。また、みんなできっと来るからね。」
と、大きな声でゲレンデにむかって叫んだ。
僕達4人全員が心の中で同じように約束していた。


13.その後の 4 WAY STREET

大学を卒業して、僕はある食品メーカーの工場勤務となり、新人研修後、6月から秋田県へ赴任することになった。
大島は、大手商社に就職し、研修期間が終わると8月からサウジアラビア勤務となった。
「スキーはしばらくできそうもない。」
彼は旅立つ前に電話でそういっていた。
郁美は付属の女子校から短大へ入学したが、高校時代とはうって変わって派手になり、六本木のディスコに入り浸るようになっていた。
そして、晴美は…。

雪の降る晩、9時頃工場で残業をしているとき、郁美からの声にならない電話があった。
「お兄ちゃん、・・・晴美が・・・晴美、駄目だった。」
7月に体調を崩して入院したという知らせは郁美から聞いていたが、急激に病状が悪化して、その年の12月のはじめ、クリスマスを待たずに晴美は急性骨髄性白血病でこの世を去ったのだった。

郁美は電話の向こうで泣きじゃくっていた。
僕は事務所にいたのだが、電話を握り締めたまま言葉を失い、頬を伝う涙を止めることができなかった。
『きょうはこういう景色が見られただけでもとてもうれしい。なんか生きてて良かったっていう感じ。スキーって滑るだけが楽しみではなかったんですね。』
白いリバティベルのウェアに白いニットキャップをかぶった晴美がうれしそうに笑いながら横手山で言っていた言葉が脳裏によみがえっていた。

「郁美。約束が果たせなくなったな。」
そして1980年の3月は、たった1度だけの忘れ得ぬ終わりの季節になったのだった。

(おわり)


岡野慎太郎のその後1

岡野慎太郎のその後2


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