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J-GIRL HIROKOの夢

普段は意識しない透明な国、ニッポン。僕たちはどこから来てどこへ行こうというのか。


幕張ベイエリア CHIBA

1995年5月15日。
その朝、いつものように浅野賢治は出勤してノートPCをオンにしてネットワークにログインした。Eメールアプリが立ち上がるあいだ、机の上に配布されていた、課長の昨日の出張先での、手書き打ち合わせ議事録に目を通した。
(まったく、こんなのコピーしてる暇があったら、電子掲示板に載せてくれ。)
その時、メール着信のサウンドが鳴った。
リターンキーでメールを開くと、それは香港の現地法人JTT-HKの女性のシステムエンジニア、シェリル・ラムからの助けを求めるEメールだった。

" Kenji, HELP !
We still can not connect with the network to SANKO Japan. I checked every settings many many times, but could not find any problem.
A person in charge of SANKO has been angry for our slow action already. We need your help.
Soon my boss will directly ask your boss to send you Hong Kong by phone call.
Anyway, PLEASE COME ASAP.
Best Regards
Sheryl 0:23 Jun. 22 '95 "

賢治は課長のためにそのメールをプリントアウトして、持っていった。
「とにかく、つながらないからすぐ来いってことです。」
「すぐって言ったって、浅野君…日本側のセッティングが君の担当だろう。」
「日本側は完璧です。サンコー電機の東京本社へのネットワークのテストは、ここから何度もやっています。いずれにしても、こちらには佐々木もいますし。それに…。」
賢治は信頼できる後輩の名前を挙げた後、
「むこうの責任者のマイケル・チェンから隅田課長に直接もうすぐ電話がきますよ。」
「えっ。電話って、英語の電話か?」
隅田課長はあきらかにたじろいでいた。
(これで、カスタマーサポート課の課長が良く勤まるよな。)
賢治は心の中で呟いた。
結局、現地の責任者マイケル・チェンからの電話を受けて、英語に弱い隅田課長はオーケイというしかなく、賢治は翌日のフライトで急遽、香港へ行くことになった。
(ラッキー!。今年はついていない事ばかりだから、こういうこともなくっちゃ。)
夕方、いつもよりずっと早く、賢治は京葉線に乗りながらそう考えていた。
(どうせ、通信の設定をどこか間違えているに決まってる。だいたい、うちの現地法人はろくな従業員を採用しないで、シェリルみたいな女の子にやらせているからこうなるんだ。)
彼の会社はJTTというあまり大手ではない通信ネットワーク事業の会社であった。通信回線自体は他の大手を利用し、おもに国内の遠隔地のネットワーク間接続をサポートするのを主体でやっていたが、最近、東南アジアに数箇所拠点を設けて、国際ネットワーク接続事業を開始していた。後発ではあったが、円高で海外へにげている日本企業を狙って格安料金で請け負うという営業戦略であった。
(まったく、うちもうちだけど、コンペやっても価格最重視で決めてしまうサンコー電機も随分だよな。少しでも安い価格を提示すれば、簡単に乗ってしまうんだから。)

翌日、賢治は成田からのキャセイのフライトのなかで、ぼんやりと今年の4月のことを思い出していた。
その年の4月8日土曜日、彼は婚約者の上原かおりと結婚式を挙げるはずだった。
しかし、その当日に彼女は式場に現れなかった。“ケンジごめんなさい かおり”という簡単なメモを残して、別の男性とニューヨークへ旅立って行ってしまったのであった。

賢治はひとりで飛行機の中から、遠く霞んでゆく地図と同じ形の日本列島を横目で眺めて、
(かおりも同じようにこの窓から見ていたんだろうか?)
と柄にもなく センチメンタルに考えていた。


啓徳国際機場 KAITAK AIR PORT

林立するビルの軒先の洗濯物をかすめるようにして、緑と白に塗られたキャセイパシフィックのボーイング747は香港啓徳(カイタック)空港に着陸した。1時間戻して、腕時計を14:50にセットした。飛行機のドアからタラップへ1歩出ると、湿った蒸し暑い空気が賢治を歓迎してくれた。グレーの雲が空を覆いつくしていた。香港へは学生の時遊びで来て以来6年ぶりだった。
イミグレーションのカウンタはどこも混んでいた。賢治はたまたま、日本人の多い列に並んだところ、隣に比べて非常に流れが早かった。税関では前の日本人ビジネスマンの真似をして日本のパスポートをわざと見えるように持っていたら、フリーパスだった。

バスターミナルへの出口で、シェリル・ラムが待っているはずであった。出迎えの人が鈴なりになっているスロープをキャスター付きのキャリーバッグを引きながら降りてゆくと、 「JTT」とマジックで大きく書かれた紙を掲げている高校生くらいにみえる若い女性がいた。
「シェリルか?僕はケンジだ。」と英語で問い掛けた。
「はじめまして。良く来てくれたわ。」
彼女は少し聞き取りにくい広東語なまりの英語で答えた。髪を外巻きにカールし白い髪留めでとめていた。背は高くないがTシャツの下のプロポーションは抜群だった。眼が大きく肌は小麦色で、どちらかというとタイの女性のようなタイプだった。
(やれやれ、こんな女学生みたいなのとコンビ組むのか。)
すっかり女性が苦手になってしまった賢治は、にっこり笑って握手をしながらもそう考えていた。
(とにかく、お子様との仕事は早く片づけて、以前行きそこねたビクトリアピークへ行こう…。)
バスターミナルで空港からの巡回バスに乗った。A1線でJTTのオフィスのある尖沙咀(チムサーチョイ)へHK$12で行けるのだった。
「香港ははじめて?」
バスのなかでシェリルが聞いた。
「いや、6年前に来た事がある。たしか89年、北京でトラブルのあった年の11月だ。」
賢治は言った後で、(しまった。余計な事だった。)と思った。天安門事件がどういう感覚で彼らに受け止められているのか、賢治は考えてみたこともなかった。
(再来年は中国に返還されるし、この手の話題は避けた方がいいのかな。)賢治はそう思い、話題を変えた。

「海鮮料理を食べた事がないんだ。」
「本当?じゃ、今晩、いいところへ連れていってあげる。最初にオフィスに寄ってミーティングしてからね。」
彼女はウィンクしてすこし微笑むと、ふっと真顔になって窓の外へ視線を投げた。くすんだアスファルトとコンクリートの灰色の中に熱帯の植物の濃い緑が生い茂って、コントラストを形作っていた。裏道の香港特有の張り出した看板を潜り抜けながら、バスは走って行った。香港島との海峡の見えるネイザンロードの終わりまで行って、僕たちはバスを降りた。とりあえず、ハイアットリージェンシーでチェックインを済ませた。

尖東(チムサアチョイイースト)にあるオフィスでの挨拶と、状況説明の打ち合わせは1時間くらいで終わった。賢治は、(まあ、明日の午後には片がつくだろう。)とたかをくくっていた。営業所の所長のマイケル・チェンは、5時になったら、「また、明日。」と言って、そそくさと帰ってしまった。シェリルは、
「うるさいのもいなくなったから、今日はとにかく食事して早く休みましょう。」
と言って賢治を連れて、MTRという地下鉄に乗った。途中で1回乗り換えて彩虹(チョイホン)という駅で降りた。壁の虹の色のタイルがきれいな駅だった。
(ずいぶん遠くまでくるんだな。オフィスのそばにもレストランはたくさんあったのに・・・)と、彼は思っていたが、シェリルはさらにミニバスを待っている行列に並んだ。
「あれに乗るのか?」
「そうよ。これから西貢(サイクン)へ行くの。」
それからさらにバスは40分位、香港にこんなところがあったのかというような急で曲がりくねった山道をのぼったり下ったりして、エキゾティックな小さな港に着いた。そこがサイクンだった。岸壁際のメインストリートでは、店先の水槽に斑模様の魚、カラフルな伊勢海老、さまざまな貝類を売っている鮮魚店が軒を連ねていた。
「ここには、さすがに日本人もあまり来ないわ。」
長旅に少し疲れた賢治に、すっかり暗くなってしまった初夏の海を背景にして シェリルはそう言った。


西貢 SAIKUNG

彼女は次々に魚や貝や大小の海老を選んで、店の人に何か指示をした。
「この上のレストランで今選んだ魚を料理してくれるわ。」
行きましょう?というような仕草をして、シェリルは狭い階段を上っていった。
テーブルにつくと、彼女はすぐにビールを注文した。ウェイターはよく冷えたサンミゲールビールを持ってきた。
「はじめてのディナーに乾杯しましょう。」
とシェリルは微笑んで、Cheersと言った。あまりの目まぐるしい展開に賢治は、「あ、ああ。Cheers.」と、戸惑い気味であった。

「サンコー電機のネットワーク担当者は、まったくタフだわ。」
皿に山盛りの茹でた海老を剥きながら、彼女は賢治にそう言った。(このタフっていうのはやっかいな相手という意味だな。)と賢治は想像した。
「日本人なのか?」
「ええ、それがとってもこちらの痛いところを突いてくるの。私が設定しているルーターのマニュアルが、遠くの空調機械室に置いてあって、取りに行く場合は鍵を借りなくちゃならないの。そうすると、『専門家なのに今更マニュアルを見る必要があるのか?』っていうの。」
「そんな中でやっていれば、プレッシャーを感じるな。」
「ええ、でも、わたしはケンジが想像しているようなミスはしてないわ。」
そんな話をしていると、白と黒のまだらの模様のメバルのような魚の煮付けがでてきた。もっとも醤油のたれの上にたっぷりと油が分離して浮いていたが。魚の上にはねぎの千切りとパクチーがたっぷりと降りかけてあった。「この魚はガルーパっていうの。漢字では“石斑魚”と書くの。」
シェリルはメモにボールペンで上手に漢字を書いた。

「シェリルはずうっと香港にいるのかい?」
「1年前まで、半年間カナダに行っていた。1997年が心配でね。向こうに永住しようかと思っていた。でも、やっぱり帰ってきたわ。ここが私のホームタウンだから…。」
屈託なく彼女は笑っていた。運命にもてあそばれた土地でも、そこに生まれ育った人々にとっては間違いなく還るべき故郷なのだろう。香港人はもう少しドライかと思っていたので賢治には意外だった。まあ、誰もが同じ訳ではないのだろうが。
「ともかく、明日は僕がサンコー電機のオフィスに行って、その日本人担当者にカウンターくらわしてやるよ。」
「そう願ってるわ。」


小雨がぱらついていたその翌朝、尖沙咀(チムサーチョイ)の駅で待ち合わせて、シェリルと僕は地下鉄MTRに乗って、九龍塘(カオルントン)まで行き、KCRという地上の鉄道に乗り換えた。よく整備された自動車専用道路の向こうに小雨にけむる静かな入り江の風景が広がっていた。テレビで見る香港とはまったく違うイメージの風景だった。サンコー電機のオフィスはカオルントンから約25分の太埔(タイポー)にあった。
工業地区と商業地区の境にあるあまりきれいではない20階建てオフィスビルの中にサンコー電機の香港現地法人があった。14階へエレベータで上ってゆき、シェリルがレセプションでネットワーク担当の、タフな“スギハラ”さんを呼んでもらうように頼んだ。
しばらくすると、後ろのエレベータが開いて、賢治たちの背後からひとりの人物が入ってきた。
「お待ちしておりました。早速ですが、作業にとりかかって頂けますか。」
久々に聞く日本語に、後ろを振り返ると、グレーのタイトスカートにブラウス姿のロングヘアを後ろでひっつめに結んでいる、日本人の女性が立っていた。
「スギハラヒロコです。あなたが、 アサノケンジさんね。」


大埔 TAIPO

「コンピュータルームは12階です。ついてきて下さい。」
そういうとヒロコはくるりと振り向きエレベータの下りのボタンを押した。シェリルは賢治に(この調子なんだから。)という気持ちを眼で伝えてきた。
(また、オンナかよ。いい加減にしてくれ。)
賢治は心の中でそう思っていた。
コンピュータルームの壁際のラックに通信制御装置や集線装置、そして問題のルーターが並べてあった。
「昨日シェリルは、あなたが来れば1日で問題が解決するって言ってました。プロのお手並みを拝見させて頂きます。」
ヒロコは少し上向きに唇を突き出し、挑戦的に賢治に言った。
「もし、テストできる状況になったら私を呼んで下さい。あ、私のアシスタントを紹介します。Y.H.リウよ。彼は中国人のエンジニアなの。よろしくお願いします。」
ヒロコは部屋の中にいた、いかにも人の良さそうな色白の青年を紹介した。
「ハジメマシテ。ヨロシク。ワタシハ リウ デス。」
彼は日本語で挨拶をしてくれた。
賢治は早速ノートPCをルーターのシリアルポートに接続して、シェリルのおこなった設定を確認した。
(あれ、全部あっているぞ。これなら、つながるはずだが…。)
サンコー電機内部のネットワークの状況も確認したが障害は全く見当たらなかった。シェリルといろいろテストをしてみたが、もっとも怪しいのは回線側だということになった。試しにルーターから回線のループバックテストをおこなってみたところ、反応がなかった。
「シェリル、本当にKLテレコムは回線には問題がないと保証したんだね?」
「ええ、でももう1度来てもらうわ。」
彼女は窓際から携帯電話で、国際専用線のキャリアであるKLテレコムにものすごい勢いで文句を言っていた。広東語で“すぐ来い”と言ったらしかった。
「機械本体の故障も考えられるので、サービスに新しい同じ型のものを手配してくれ。」
賢治はシェリルに指示をした。
「え、でも故障していなかったら、JTT香港でその費用を持たなければならないわ。ボスのマイケルに許可をもらわなくては…。」
「いいんだ。僕が後で全部片をつける。とにかく今日じゅうに接続して引き渡すために可能な事をすべてやっておくんだ。」
シェリルは少し驚いたような表情を見せたが、「Yes, Sir.」と言って、いろいろなところに連絡を取り始めた。
KLテレコムの担当者は午後3時頃やってきた。ターミナルアダプタまでが彼らの持ち場だった。そこから、中継局まで、そして日本までの何段階かの回線品質のテストを行なった。
「だいじょうぶだ。問題無い。」
回線は日本のサンコー電機本社まで、間違いなくつながっているようだった。

午後5時過ぎから、サービス部門がやっと調達した新品のルーターに取り替えてみる事にした。すべての設定を慎重に行なって、既設のものと入れ替えた。
「これで、つながらないはずはないのだが…。」
賢治はいつも自分の力を信じて仕事をしてきたが、この時は祈らずにはいられなかった。
(神様、お願いしますよ!)
彼がどんな神様に祈ったのかはさだかではなかったが。
シェリルとリウと、少し離れたところからヒロコが見つめるなか、回線を接続し、 パワーをオンにした。


暗闇  IN THE DARK

「ねえ、もう少し私のそばに寄って。」
暗闇のなかからヒロコの声がした。
先ほどまでの虚勢を張ったような調子は、もうすでになかった。賢治は小さいランプの薄明かりを頼りに、手探りでヒロコの肩に触れた。そして、やさしく肩を抱いてあげた。
「ありがとう。」
ヒロコはそう言うと、賢治の肩に頬を預けた。最初は少し身体が震えていたが、次第に落ち着いてゆくのが、彼にはわかった。
「ごめんなさい。…初めて会った人なのに。」
「あ、ああ。いいんですよ。こんな状況になれば誰だって心細い。…そう、少なくともひとりだけじゃなかったのは、ラッキーだった。」
賢治はヒロコを元気づけるように笑った。
「ラッキー?」
彼女は賢治を覗き込むようにして問い掛けた。
「そうだよ。ラッキーだ。どんなかたちでも美しい女性と一夜を共にすることができて。」
賢治はそう言って笑った。
「あら、どうもありがとう。そんな、歯の浮くような誉め言葉聞いたの、何年ぶりかしら。」
ヒロコも久しぶりに笑った。
「まあ、ここでじたばたしても仕方がないよ。明日の朝になれば、リウさんが気づいてこの空調機械室の鍵を必ず開けるさ。コンピュータ室は散らかしたままなんだから。」
賢治は暗く蒸し暑い機械室の中で、ネクタイをゆるめた。


それより2時間前の午後8時、賢治はみんなが見つめる中、ルーターのパワーをオンにした。動作ランプがグリーンになったのを確認した後、PCでコマンドを入力した。結果は…。
「………だめだ。やっぱり、ルーターの出口からパケットが飛ばない。」
シェリルはさすがにがっかりしていた。彼女はこの1週間毎晩遅くまでここでこうして作業していたのだ。精神的疲労も蓄積しているようだった。
「シェリル、君はとにかくこの状況のレポートを書いて、Eメールで日本にいるササキに送ってくれ。リモートで会社に入れるだろ?レポートを送ったら、帰っていいよ。」
「ええ、できるけど…。ケンジはどうするの?」
「僕はもうすこしトライしてみる。」
シェリルはうなづいてノートPCをルーターからはずして、携帯電話に接続した。
やりとりを見守っていたヒロコが賢治に話し掛けてきた。
「こんなとき、追い討ちをかけるようで申し訳ないけど、JTTさんとの契約では、開通は5月1日からになっていて、もうすでに2週間も遅れているの。私たちもさすがに正式業務は同時にスタートの予定にはしていなかったけど、6月からは日本と香港の連結決算をこのネットワークを使ってやることになっているわ。インターネット経由ではセキュリティーが保てないので会計資料はファイル転送できないし…。」
厳しい調子でなかっただけに、かえって凄みがあった。賢治は、
「必ず、24時間以内に接続します。」
と日本の政治家の選挙公約のように、確信も無く答えた。
「さすがに、日本のシステムエンジニアね。『私の作業は完璧だ。何の落ち度もない。』と言って、帰るようなことはしないのね。」
賢治はシェリルのはなしを聞いていただけに、少し迷った挙げ句、切り出した。
「すみません、マニュアルを最初から見直したいのですが…。」
ヒロコはすでに後ろ手にマニュアルの置いてある空調機械室の鍵を持っていた。ふふ、と少し微笑んで何も言わずに鍵を差し出した。
コンピュータ関係のマニュアル類はすべて空調機械室の棚の中に押し込められていた。フロアの面積が絶対的に不足しているため、そうなったのだろう。
リウが案内してくれた。廊下の突き当たりの鉄の扉をおおげさな鍵で開けると、部屋の外にある電灯のスイッチをいれてくれた。
「ココデス。」
リウは日本語を勉強しているらしい。簡単なことはすべて日本語でやりとりできるようだった。
「アソコ、マニュアルアリマス。ワタシハ、イマ、カエリマス。」
リウはそう言うとニコニコしながら、部屋を出ていってしまった。
賢治は、狭く蒸し暑い部屋のなかでルーターのマニュアルを引っ張り出した。これをすべてコンピュータ室に持ってゆくのは大変なので、空調機械室のなかで、関係ありそうなトラブルシューティングの項目から調べる事にした。

このこの遠隔ネットワーク接続ルーターは、アメリカのモニカ社製で、業界では標準機となっていた。賢治はすでに何度もインストールした経験があった。それだけに、“仕事“という枠をすでに超えて、意地でもあの女性システムエンジニアの鼻をあかしてやりたかった。彼は夢中になって英語のマニュアルを解読していった。
1時間以上が過ぎた。
すでにサンコーのオフィスには誰もいなくなっていた。コンピュータ室のスギハラヒロコを除いては。

(どうしたのかしら。)と、ヒロコは賢治のことが少し心配になってきた。
ヒロコは様子を見に行ってみる事にした。錆びた鉄の扉を開けると、奥の方で賢治は座り込んでむずかしい顔でマニュアルを5冊くらい広げていた。
「アサノさん。原因はわかりましたか?」
必死になっている相手に、ヒロコはあまり皮肉っぽく聞こえないように話し掛けた。
「あ、ああ。いや、それが、その。…おかしいんです。何も手違いはないと思うんだけど。」
「そう…。もう、今日はこれくらいにして、明日にしません?すこし頭をクールダウンしたほうがいいかもしれないわ。」
ヒロコは優しく微笑んだ。賢治は少し意外だったが、
「あ、すみません。もう、こんな時間だ。私は構わないけど、付合わせちゃいけないですよね。私ひとり残していけないだろうし…。でも、どう考えてもおかしい。すべての設定はパーフェクトだ。あと、考えられるのは…。」
「たとえば、ケーブルが断線しているとか…。」
とヒロコは何気なく言ったのだが。
「あっ。」
と言ったっきり、賢治は絶句してしまった。そういえば先ほど新しい機械に入れ替えた時にもケーブルは前使っていた物のままだった。確かにTAと接続するケーブルは場所が無いために小さく丸められてビニールの結束バンドできつく束ねられていた。断線している可能性はあった。
「それだ。ケーブルを変えてみましょう。」
賢治は散らかったマニュアルをあわてて元在った場所にしまい始めたが、その時、ガチャリと空調機械室の鉄の扉の鍵を閉める音が聞こえて、唯一の照明の裸電球も消えてしまった。

ヒロコと賢治は暗闇の中に取り残されて、一瞬、 何が起こったのか理解できなかった。


ヒロコの夢 DREAM

「どうして、スギハラさんはここに来たの?」
賢治は少し落ち着いてからヒロコに聞いてみた。
「スギハラさんなんて呼ばないで。ヒロコでいいわ。…私ね4大の英文卒なの。しかも、1浪だから…。去年、卒業しても日本では就職できなかったの。」
「あれ、ということはまだ、24?あ、ごめん。もっと上かと思ってた。」「もう、誕生日すぎたから25だけど。で、アルバイトしてコンピュータの勉強して、香港に来て、現地採用でやっと就職したの。仕事は面白いけど、お給料は安いし家賃がすごく高くて…。海外での生活は来る前に思っていたのと全然違ったものになったわ。」
「夢を持って海外へ出ていったんだ。」
「夢、あったかもしれない…。ねえ、アサノさんの夢って何?」
「ケンジでいいよ。…夢か。さっきまでは、得意先のタフなシステム担当者の鼻をあかしてやることだった。」
ふたりは笑った。
「それより前は…好きな人と結婚することだったかな。」と、賢治は1ヶ月前の、かおりとの出来事をヒロコに話した。
「今はね、夢中になって仕事することでつらい事を忘れようとしていた、なあんてカッコ悪いコメディの主人公なのに、似合わないよね。」
「…ケンジはそのかおりさん?のことひどい事をするって恨んでいるかもしれないけど、むしろそのまま結婚していた方がもっと悪い結果になったかもしれない。それに…」
「それに?」
「彼女の方がもっとつらい思いをしていたのかもしれないわ。」
ヒロコはそういうと、後ろで束ねた髪を解いた。長い髪が彼女の横顔を隠したのがシルエットで微かに見えた。

「わたしたち、何のために仕事しているのかしら。」
「それは生活してゆくためだ、なんて言ったらヒロコには叱られそうだね。」
「サンコー電機なんて、円高が80円まできたから労務費の安い海外へ工場を移転してコストダウン、なんて当然のようにやっているけれど、こっちへ技術指導をして日本から生産の主体を移転して、会社の利益があがりさえすれば良いのかな、って最近思うわ。」
「でも、それは香港や中国の人たちのためにはなるんじゃない?」
「それって、よくわからないけれそ第2次世界大戦に突入した時の日本の自己正当化の論理に近いんじゃない?そうそう、あのリウってなかなか優秀で親切なんだけど、1度だけ『南京大虐殺についてどう思うか?』って聞かれたことがあるわ。」
「え、それで何て答えたの?」
「ケンジ、何かコメントできる?私は何も答えられなかった。本当の歴史もよく知らないし。きっと彼が私個人に恨みを持っているわけではないし、責任とれって言われたって困る、っていうのが率直な感覚でしょ。事件そのものが事実かどうか良くわからないみたいだし。」
「僕たちは普段あまり意識していないけど、やっぱり“日本人”として見られているんだね。」
「そう、そして今、私たちの心のどこかに、アジアの中では日本人は優秀だっていう選民意識のようなものがあるように感じるわ。でもそれはいつかしっぺ返しが来るような気がする。日本の会社が自分の利益だけを追求して海外進出していれば、きっと何年か後には円安に振れて、その後空洞化してしまった日本の経済は破綻しはじめると思うの。カルト宗教が毒ガスを無差別にまく、なんて精神的には荒廃しきってるし・・・。」
「過酷な状況の中で、すごい話をしているよね。・・しかし・・」
「おなかすいてきたでしょ。お昼から何も食べていないものね。」
「天下国家を考えるのも大事だけど、その前に自分の身の安全と食料を確保することが必要だね。」
「そうよ。特にここではね。」

「あしたここから出られて、ケーブルを代えてうまく接続できたら、夕方食事に行こうよ。僕は前来た時にビクトリアピークへ行き損ねたんだ。」
「最近、あそこにきれいなレストランができたわ。そこへ行きましょう。うまくいったらご馳走するわ。」
「かならずうまくいく。こういう時は、前向きな希望を持たなくちゃね。」「じゃあ、素敵な夢を見て、すこし眠りましょうか?」
「ふたりで広東料理を食べている夢?」
と賢治が言うと、「松茸のどびん蒸しがいいな。」
とヒロコは言って 賢治の肩に頬を寄せた。


山頂 VICTORIA PEAK

ふたりは夕暮れのビクトリアハーバーを渡るスターフェリーに揺られていた。
「売店で日本の新聞を売っていたら、やはり買ってしまうね。」
賢治はフェリーの乗り場で今日の読売新聞の朝刊を買ったのだった。スタンプが押印してあったので、おそらく日本のエアラインに積んであった新聞の払い下げだと思われた。
「それにしても、大変な出張になったわね。」
ヒロコは優しい微笑みを浮かべながら賢治に言った。
「まあ、閉じ込められたのは予定外だったけど。ヒロコのアドバイスどおりにしたら仕事の方もうまくいったし。いいことの方が多かった。」
「…そうね。いいことのほうが、ね。」
そのあとしばらくふたりで遠く海の向こうに沈みゆく夕日を見つめていた。

ピークトラムに乗ったころにはすっかり暗くなっていた。ケーブルカーで急勾配を少し上ると、右側の窓から香港島のオフィス街とその間からカオルーン側のビル街の明かりが見えた。10分弱で頂上に着いて展望台へ出たら、まさに眼下には宝石箱をひっくり返したような景色が広がっていた。
「この夜景は、宇宙船からも見えるわしいわ。」
ヒロコは涼やかな風に髪をなびかせなていた。
数分の間、ふたりは香港の夜景を見続けていた。

「昨日は僕が話しをしたんだから、今日はヒロコの番だよ。」
「え、なにが?」
山頂にあるテラスで、夜景をバックにブラック・ベルベットというカクテルを飲みながら賢治はヒロコに質問をした。
「恋人はいないの?」
「恋人か…。日本にいた頃ね、子どもだったのに背伸びをして大人の恋をしたことがあったわ。」
「そう。それで?」
「それで…、続ける事はやはり難しくて……そういうこともあって、私は香港にきたの。」
賢治もそれ以上は深く聞かなかった。

エスニックに味付けされたイタリア料理の後、ふたたび、ふたりは夜風に当たりに外へでた。
「あなたは、とても男らしくて頼もしかった。ケンジにあえてとても良かった。」
「え、あ、それはどうもありがとう。……今度、電子メールを送るよ。いつでも、どこにいても連絡が取れる。」
「そうね。たしかに電子メールは便利だけど……。」

ヒロコは風に揺れる髪を左手で押さえながら、
「こんなことはできないわ。」
と言ってすかさず賢治の唇にキスをした。

「どうもありがとう。」
彼女はそういうと、賢治から離れて展望台の手すりの方へ歩いていった。

「ヒロコ。日本へ帰ってこないのか?」
(ヒロコ、君の帰る場所は香港のアパートではない)と賢治は思っていた。ヒロコは輝く夜景を背景に振り返ると、風の音に負けないように、大きな声で賢治に向かって言叫んだ。

「そうね、新しい夢が見られるならね。」

END

かおりの場合
霧の中の乙女|leo.tomoyuky (note.com)

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