''貯食''
最近、小学生の頃を思い出すようにしている。
というのも、11月の終わりに三重県のとある小学校で、講演をさせて頂けることになった。
こんな機会は滅多にないから、本当に嬉しい。
ありがとうございます。
そんなこんなで小学校の頃の記憶を無理矢理呼び起こしてみると、出てくる僕の小学校の頃の思い出…
遅刻して怒られたり
忘れ物をして怒られたり
ノートを書くのが遅くて怒られたり
置き勉をして怒られたり(今でも思う。置き勉禁止って、意味わかんないよね。)
先生の話を聞かずに、
虫カゴの中のバッタに集中しすぎて怒られたり(だって卵産んでたんだもん!)
これ以上は、書けたもんじゃない。
でもとりあえず言えることは怒られる日々。
散々なシーンばかりだ。
褒められたところよりも、悪い思い出ばかりが思い出されるのはどうしてだろう?
「怒られた」っていう記憶は、大人の僕達が思っているよりも、子供の深層心理に関わるんだろう。
僕は多分、幼少期の大半を、''自信のない子供''として過ごしてしまった。
だが、今となっては、例えば偏差値が低くても、点数が悪くても、IQが低くても…そんなものは自分の人生を生きると決めた瞬間にどうでもよい。
一度決めたら曲げないド根性の方が、百倍大事だ。(どこかの漫画の主人公のセリフみたいに聞こえる)実際偏差値という幻想に囚われているヒマなんて、どこにもないから。
躊躇なんてしなければ。
僕が幼少期を振り返ってみて思うのは、
あの時告白しとけば良かったなぁとか、ピアノ習っておけば良かったなぁとか。
そんな後悔ばかりだ。
大人は、間違いを指摘するのが責務だからたまにはしなくちゃならない。
だけどよっぽどのことがない限り、
なんでもやったら良いし、
子供は子供らしく、突き進めば良い。
子供は、みな天才なんだ。
色んな偶然が、今の僕を引き寄せている。
全部偶然なのだ。小さな頃の自分は「写真家になろう」なんて思ってなかったのだから。
中学生の頃、毎月2冊は欲しい本を買ってくれた母。高校生の頃部屋が水槽だらけになっても何も言わなかった父。毎日森に入った大学生活と、そこで出会った、生き物や自然が大好きな友達。
なんか今更だけど、その導きと、それぞれの想いに感謝しなきゃなと思った。
エゾリスは、秋になるとたくさんのドングリを地面に埋めて、貯食をする。
でもリスは、そのドングリのほとんどの場所を忘れてしまうという。
ドングリはネズミに食べられ、
ネズミにもリスにも食べられなかったものは、やがて地面で芽吹く。
要するに無駄にならない。
貯食。
僕は撮影でうまく行かなかった時は、
「貯食してるんだ」
そう思う事にしている。
(そして次の日には別の方法を試している。)
うまく行かなかったら?
親に怒られた?先生に怒られる?
陰でみんなに笑われる?
うまく行かなくても良い。
怒られてもそんな気にしなくて良い。
大切なのは全て無駄にならないという事。
というか自然には、「無駄」という概念すらないのだ。
埋めた場所を忘れても良い。
そのぶん沢山ドングリ埋めていこう。
小学生の頃を思い出しながら、
そんなことを伝えたいな〜と、思った。
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