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彼らに上京の詞は書けない

東京に住み始めて半年が過ぎた。

相変わらず人にも情報にも酔ってしまうときもあるが、少しずつ体も心も東京という街に慣れてきている。大学一年生のときなんとなく東京に行ってみようと夜行バスに乗り込み、ふらふらと歩いた時、あまりの雑踏と喧騒に、こんなとこに自分は住めないだろうと思っていたものであるが、慣れてしまうとなんてことなくなったりしてしまう。

東京で生活していると、当然幼少期からずっと東京やその付近で育ってきた人にも出会う。その人と話していると、やはり何か育ってきた環境の違いを感ぜざるを得ない。山手線に乗っていると大学時代を過ごした大阪の梅田のような街並みが延々と続くことにいまだに感動を覚えてしまうのだが、彼らにとってはそれが当然の風景なのである。

東京という街のずっと内部にいる彼らと外部から入り込んできた私。そこには目には見えないが決定的に大きな溝がある。それぞれを取り巻く文化も環境も全く異なったものであるし、彼らの育った環境を知り、羨ましく思ったことも多々あった。自分の育ってきた環境に不満があるわけではないが、ここで幼少期を過ごしたらまた違ったものが見えたのだろうなと思うことも多くあった。

しかし、同時に彼らは”上京”という感覚を知らないということに最近気が付いた。当たり前のことすぎて考えていなかったのであるが、彼らは私の持つ”上京”に対する感覚とか想いとかそういう類のものを永久に持ち得ない。そんなの別にいらないよと言われてしまえばそれまでであるが、東京という街に出てくる高揚感とか不安とか期待とか、悲しみとか嫉妬とか、その他諸々も含め、私が感じていることを彼らは感覚として持つことができないのである。彼らに上京の詞は書けないのだ。

・・・

そんなことを生まれも育ちも東京という友達に話してみたら、「私がニューヨークにいくと同じ感覚になるな」という返事が返ってきた。それはなんというかずるい。けれども多分同じことだろう。別に対象が東京である必要はこれっぽっちもないのだ。彼もまた違った視点を持っているのだなと少し感動した。

4月になれば、また私と同じように上京してくる方々が多くいるのであろう。上京という行為に何を見出し、何を表現するのだろうか。今年上京してきましたという人がいれば聞いてみようと思う。同じ上京者として、そして少しばかり内部にいる時間が長い者として。そうするとまた自分が上京してきた時に映ったものとはまた違った東京という街が顔を出すのかもしれない。

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