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言葉を使わない生き方

 言葉の語源は、「言」が言う事が事実にも成り得る重い意味を、軽い意味を持たせるために「端」をつけて「ことば」になったというお話があります。

 私は過去にも何度も同じ話をしているのですが、話すのがとても苦手です。うまく事実を伝える事が、大事な人になればなるほど言葉を間違えてしまう。 本当に伝えたい事は何一つ伝えられません。きっと伝えたいという思いがすごく強いのかもしれません。いよいよ嫌になって、今年の夏くらいから、言葉が私の中から削られて、表現のみが身体から露呈して、良くも悪くも素直な自分が出てきたように思います。

 そうは言っても、とても都合の良い言葉と言うのもあるわけで。例えば、「煉山」の「煉」の字ですが、冷静な冷たく然し熱い青色の炎と情熱的な赤い炎を持ち合わせて音を奏でたいと付けた名前です。こうした思いは言葉で話すと説明らしくなるものですが、「煉」の字をつけるとわかる人にはわかるもので、たまに、わかってくれたのだなという人に出逢います。その時は心から嬉しい気持ちになります。漢字一文字だと、その無限な表現に触れる事ができて、それはまるで、音楽の「音」そのものに触れている感覚になります。

 一方、「愛している」と言う言葉はとても難しい。言葉として放つと、それは感情として伝わる。然し自分の気持ちの度合いは自分すら測れない。束縛する事もあれば、裏切りになる事もある。だから「愛している」と言う時は、何かさり気無い、風で笹が揺れるような、そんな伝え方が私は好きです。

 私はもともと無口で、大学時代には何か面白い事を言えと言う先輩などもいたものですから、どんどん言葉が意味を持たないものになってしまったかもしれません。

 こうして、ただ言葉ではない表現だけで静かに生きていると、私の場合は性質に合っているのか、素敵な方々と多く接せられるようになりました。

 こうした文面を書いていると矛盾しているように思うかもしれないのですけれど、本当に極力、言葉を使用しても、なるべく柔かな、心地よい言葉を使いたいものです。

 それは何かとても尺八の音にも似ている、そう感じる今日この頃。


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