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5 砂嵐を越えて行け 【葬舞師と星の声を聴く楽師/連載小説】

連載小説『葬舞師そうまいしと星の声を聴く楽師がくし』です。
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5  砂嵐を越えて行け


 空の青が地平線に向かって白みを帯びていく。色はその果てで折り返し、黄土色に変わってこちら側に迫ってきていた。広大無辺の土砂漠。丘や隆起が緩やかな影を落とし、地面には所々にひび割れが見られた。どこまでいっても同じような光景だったが、まばらな灌木によって辛うじて遠近感が保たれていた。
 かねてより隊商らが踏みしめてきた跡が、干上がった小川のように長く伸びている。その人工の道を往く人影がふたつ、駱駝らくだが一頭。

「なあハーヴィド。お前さ、昨夜ゆうべもテントを抜け出してどこか行ってただろ?」並んで歩くふたりのうち、背の低い方のアシュディンが咎めるように言った。
「……起きていたのか?」
 まったく興味を示さずに返すハーヴィド。その大きな躯体を包んで、歩くたびに揺れるマントがさまになっている。
「俺とザインをテントに残してさ、ヘビサソリが出たらどうするんだよ」
 アシュディンが駱駝の背に掛けられた麻布あさぬのを持ち上げると、中から少年ザインが顔を出した。ふたりは見合って「なぁ?」「うん」と軽くやり取りを交わす。
「その時はお前がちゃんと駆除するんだろう? やり方は教えたはずだ。それにテントには虫除けの香を焚きしめてある」と、ハーヴィドは相変わらずつれない様子だ。アシュディンは諦めて、少年の頭に日除けの布を被せ直した。
「ったくよー、動物ならまだしも、賊に襲われたりしないか冷や冷やしてたぜ」
「賊とは、むしろ誰かさんのことじゃないのか?」ハーヴィドが目線を落として冗談めかしく言った。ようやくふたりの視線が合ったと思いきや、今度はアシュディンがすっと顔を背けた。
「ははっ、違いない、寝首を狙ってるのは俺の方だ。その楽器とお前の素性には興味ありありなんだよ」と戯けるように言うと、ふたりの間にしばし沈黙が流れた。

「素性か……では逆に聞くが」
 ハーヴィドは顔つきを険しくして、アシュディンのマントの合わせを掴んで持ち上げた。上衣の襟に刺繍されたアラベスク模様が顔を出す。植物をかたどった赤と緑の刺繍、それだけならありふれた柄だが、アラベスクの余白に金色の糸で縫われた図像が特徴的だった。それは月のようにも波のようにも見えた。
「この刺繍、帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールのものだろう。まさか盗品ではあるまいな?」
 アシュディンは慌ててマントを引っ張り、ハーヴィドの手から取り返した。崩れた前合わせを直しつつ「お前、帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールを知ってるのか?」と言って、出自を暴こうとする男に警戒の眼差しを向けた。
 彼の普段の明るさが鳴りをひそめる。しかしハーヴィドは動じず、いつもと同じトーンで「人並程度にな」と答えた。
 アシュディンはその平静な態度に感化され《別に隠すことでもないか》と思い直した。まだ見え隠れしている刺繍にマントの布が被さるよう整えながら、言った。
「俺は、ひと月前までそこにいたんだよ」
 抑揚に乏しい声。俯いた顔に栗色の髪が垂れて、瞳を隠した。それ以上語られることがないと分かると、ハーヴィドは
「……帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールの舞師は宮廷の内でその生涯を終えると聞いたが」と自問するように呟いた。
「かぁーっ、お前そんなことまで知ってるのかよ? あんなところ、面倒くさくなって逃げ出しただけだ」
 これ以上は聞くなといった態度。ハーヴィドはそれを穏やかに受け入れた。

 ややあって、辺りの気流が変化するのをハーヴィドは感じ取った。
「──むっ、かがめ」「え!?」
 彼はアシュディンに指示を出すと、駱駝の背に手を当て身を伏せるよう促した。賢い駱駝は即座に応じ、四つの膝を折り曲げる。
「ザイン、口に布をしっかり当てておくんだ」ハーヴィドの呼びかけにザインは布の下で二度頷く。ハーヴィドの腕が、少年と駱駝の背とを一塊にして抱きかかえた。
「お、おい──」
 狼狽えたアシュディンがそう口にした瞬間、とつぜん轟音が鳴り、猛烈な勢いで風が吹き込んできた。巻き上げられた埃が一行に襲いかかる。
「わぁっ、いて、いてて!」伏せ遅れたアシュディンは砂礫されきの格好の的となった。顔中に痛みが走り、吹き飛ばされそうになるのを堪えながら、ようやく身を屈めたが、突風は一転して皮肉屋の顔になって過ぎ去っていった。
「おいっ、ハーヴィド! 指示するなら詳しく説明してからにしろ!」
「馬鹿か。説明なんぞしている間に、こいつが吹き飛ばされたらどうする」
 ハーヴィドが足元を指差すと、大地に伏せた駱駝の背にザインの不安げな顔が貼りついていた。

 一行は立ち上がり、ふたたび歩き始めた。
「悪かったよ。それにしてもお前、やけに旅慣れてるよな」
「十年になる」
 アシュディンはその長い歳月を聞いて、目の前にいるハーヴィドの若返った姿を想像した。今の自分とザインの間くらいの年頃だろうか。ふと、ある考えが脳裏を過った。
「もしかしてお前、移動民族ロマの楽師か?」
 ハーヴィドは駱駝の手綱を握り、ひたと前を見据えている。アシュディンのように浮き足立つことはなかったが、眼をかすかに翳らせて「まあ、そんなところだ」と答えた。
 アシュディンは《なら、なぜ今はひとりで?》という言葉を飲み込んだ。自身が開示した情報と照らし合わせて、踏み込んでいい領域を推し測ったのだった。

 わずかに窪んだ土地に足を踏み入れていたことには気付いていた。照りつける太陽の下、あちこちに陽炎が立っているのをハーヴィドは見逃さなかった。
「まずいな。この一帯は気流がだいぶ不安定だ」
「え?」
「いったん止まろう」
 ハーヴィドが立ち止まり、続いて駱駝が、アシュディンが足を止めた。足音、荷の揺れる音、衣類の擦れる音、人の作り出す一切の音が止み、その場には風の音だけが響くようになった。笛のような高調な音と、キセルに息を通したような掠れた音とが混ざり合っていた。ハーヴィドはその奥底から迫り来るひずみを察知した。

「──いかんっ!」ハーヴィドは唐突に、ザインの体を布ごと持ち上げ、アシュディンの胸に押し預けた。そのままふたりをマントの内に抱え込み、押しつぶすようにして身を屈めた。
 ──刹那、風が急速に渦を巻いて、辺りの土砂を激しく巻き上げた! 先ほどの突風よりも鋭く、幾重にも重なった気流の束が駆け抜けていく。アシュディンとザインはマントの中まで轟いてくる音におののいた。砂埃が周囲の視界を奪い、ふたりを庇うハーヴィドまでが暗中に押し込まれたようになった。ハーヴィドは体重をアシュディンに預けて、一行が飛ばされぬよう必死に堪えた。
 砂嵐はどれだけ続いただろうか。少なくともアシュディンに死を予感させるくらいの時間があった。しかし彼は、背に密着するハーヴィドの胸に安心感も得ていた。《同じものをザインにも与えてやらなくては》といった使命感から、自身は少年のことを必死に護った。
 旋風はやがて弱まり、束になって鳴り響いていた轟音が細くほどけていく。舞い上がった砂埃がゆっくりと、後からやってきた微風に流されていった。
 濁った大気が透き通るのを待って、ふたりはハーヴィドのマントから抜け出した。

 アシュディンは何度か深呼吸を繰り返してから「ひー、間一髪だった。ありがとうな!」と礼を述べた。しかしなかなか返事が返ってこない。訝しんで振り返ると、ハーヴィドは立ち尽くして、あらぬ方へと顔を向けていた。アシュディンの場所からは表情が見えない。すると少し間を置いて、
「……お前、髪に香油をつけているのか」と、普段よりも息の多い、柔らかい声が漏れた。
「ん、ああ、帝国伝統舞踏団ダアル・ファーマールのならわしでさ。何かにつけて〈ならわしだ、しきたりだ〉って。でも笑っちゃうよな。あんなに嫌いだったのに、香油これだけはやらないと落ち着かねぇの」
 アシュディンは過去の不平不満をべらべらと述べた。しかしハーヴィドはそれに応じず、マントで顔の下半分を覆い、素気なく通り過ぎていった。
「え、もしかして俺、臭かった?」
 そのとぼけた問いにも返答はなかった。

 ザインがしきりに辺りを見回していた。何が起きたのかよく理解できていないようだった。ハーヴィドは少年をふたたび駱駝の背に乗せ「頑張ったな」と頭を撫でてやった。伏していた駱駝がつと立ち上がり、ハーヴィドの手引きによって歩き始める。
「すこし急ぐぞ」と、普段のハーヴィドらしい、よく響く声が戻ってきた。
「マジかよ〜ゆっくり行こうぜ。俺さすがにちょっと疲れたよ」浮かない顔をして答えるアシュディン。
 しかしハーヴィドは、駱駝の背に揺られるザインと、空の高いところとを交互に見て、急ぐべき理由をほのめかした。
「忘れたか、明日の夜は三日月だろう。日没までに次の中継地点オアシスに」
「……ああ、そうだったな。急ごう」
 三人と一頭の駱駝の前には、変わりばえのしない砂漠がずっと続いていた。


── to be continued──

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