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男だって会いたくて震えるのですが……

「男らしくない」と言われ続けて30数年。男なのに「会いたくて会いたくて震える」ようになってからは20年。男らしくなくて困ることはいっさいありません。こんにちは、〈矢口れんと〉です。〈蓮人〉から改名しました。より多くの年代の方々にコンテンツを届けたくて、読みやすいように改名しました。名前を柔らかくした途端に、硬質な文章を書きたくなったり、性的なアレコレを書きたくなったり、とにかく自身の天邪鬼っぷりに呆れております。

 ジェンダーバイアスという言葉が巷を賑わせている。男はこうあるべき、女はこうあるべき、ゲイはこういうっぽい、などといった色眼鏡のこと。用例、、、性に関連する色眼鏡を通して見たり描いたりする世界、人に色眼鏡をかけさせようとする行為が目撃されたとき「先生! それはジェンダーバイアスです!!」と指摘する際に用いる。色眼鏡をかけている人にはバイアスは見えない。だからこそ、かけていない人が指摘するのは、とても大事なことだと思う。

 ただジェンダーバイアス的なものがコンテンツから全て排除されてしまうと、正直僕は困ってしまう。大事なことの多くは女性歌手の歌詞や、女性漫画の登場人物に学んできた。それも「もはやこんなんいねぇよ」というような絶滅危惧種古典的女子たちから。男性である僕が、そのような女性像を理想にもしないし、家族や恋人に押し付けもしない。ただ彼女たちを見ていると、自分の心の中にいる、「かつて女性的と呼ばれていた部分」がホッとすることがある。

「あぁ、会いたくて震えていいんだなぁ、人間だもの」といった、コラボも生まれる。

 彼女たちが引っ張ってくれるのは、僕の中の男じゃなくて、僕の中の女だ。どうしようもなく人を愛しく思ったり、誰かを献身的に支えたくなったり、媚びたくなったり、弱さをチラ見せしたくなったり……そんな自分の〈部分〉をリードしてくれるのが、ジェンダーバイアスのかかりまくった女性像だ。もちろんそういった個性を、女性キャラクターだけじゃなく男性にも担わせてくれたら、妙な手続きなどを必要とせず、自分の中の「かつての女性的と呼ばれたもの」をもっと容易に受け入れられたのかもしれないけれど。ただコンテンツにおいては、一面的だったりラジカルな部分を見せてくれた方が、生来自分が持っているパーソナリティが分かりやすいようにも思う。

 ただ、悟空にもルフィにも興味を示さなかった僕は、ジェンダーバイアスの本当に怖い部分を知らないのかも。だからこんなことを言えるだけなのかもしれない。もしかしたら本当は大して好きでもないのに、悟空やルフィが好きだと周りに合わせて苦しんでいた男友達がいて、今も男らしさの呪縛に苦しんでいるかもしれない。

 しかし、おそらくジェンダーバイアスという言葉で批判される対象となる作品や描写は、もっと次元の低いものなのだ。紆余曲折のない平坦なつまらない作品。
 名作にはかならず挫折がある。その挫折は一面的なパーソナリティで乗り越えられるものではない。多くの場合〈自己改革〉か〈別のパーソナリティを持つ仲間〉か、どちらかが必要になる(もしくは超自然的な力の開眼ww)。その際に別のラジカルなパーソナリティを作品に登場させることは、少なくとも読者に一面的な価値観を押しつけるものではないし、むしろダイバーシティに近い。
 その一方で、たしかに作品自体が一面的な価値観の鎧を装着している場合がある。僕の知らないところではもっとたくさんあるのだろう。その作品のパワーを削ぐことが、果たしてジェンダーバイアスを少なくすることに繋がるだろうか? 正直分からない。そういう作品だってメタの立場に立ってさまざまなコンテンツと読み比べてみれば、1つの価値観としてうまい具合に消化できる気がしないでもない。色眼鏡なんて外したくなるような、素晴らしい作品に、世界はもう溢れてるんじゃないかな?

「こうあるべき」がなければ反発も生まれない。基準がなくなれば、路頭に迷う人も出てくるかもしれない。個人を選んで良い時代では、バイアスのかかったアイテムは必要悪になれば良い。そう思っている。これもまた天邪鬼。

 個人的な願い。仲間が4〜8人くらいいて、それぞれ違う属性や職業やパーソナリティを持っているファンタジーが好きだ。彼ら全員を胸の中に飼うことで、複雑な状況に対処したり、複雑な感情に共感できたりする。パーソナリティの配分はその時々で変わる。バイアスがなくなっても、ラジカルはなくならないでほしい。配分はこっちで調節するから!

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!