見出し画像

顕れる僕、潜る僕【エッセイ】

2021年も残り僅かになってきて、意識せずとも勝手に1年間を振り返ってしまう。昨年から大きな環境の変化はなかった。ウイルスをめぐる社会情勢は日々変容していったものの、個人の単位においては生活リズム、活動範囲、気をつけなきゃならないこと、どれにおいても昨年から引き継いだものばかり。

しかし心境の面では大きな変化があったと言って良いかもしれない。4〜5年ほど前から「潜る」という言葉が好きになって、今年はそれが特に極まった1年だった。「潜る」の対義を「顕れる」としたら、それは自己顕示欲にも関連してくる。創作をしていると、自己顕示欲との戦いは避けられない。作品にとって今ほんとうに大事なものが「没個性」である場面は多い。そういった時、自分が「潜る」必要に迫られるのだ。

自己顕示欲と戦うと言っておきながら、自分の記事を貼るのだが(笑)この詩作において「潜る」がもっともうまく体現できた実感があった。自分のことなど何ひとつ書かれていない詩。作者ですよね?と訊かれても、そうであるようなそうでないような、としか答えようがない。もし「自我」というものがあるとしても、詩の中へ、詩の世界の中へ澄み渡って限りなく薄められている。詩は、文芸はこれでいいんだと納得できた作品。

神話が面白い、と常日頃から言っている。それはもしかしたら神話の世界の中に「自我」が登場する余地がないからかもしれない。共感できる神などいないし、反発する相手も出てこない。現代社会に通じる常識や倫理観からもかけ離れている。だからこそ興味を持ちにくいという側面もあるが、自分を滅することの心地よさというのは、知れば知るほどに奥深いものだ。

「滅びの美学」ということばが、北欧神話に紐づけられてある。某ゲーム・カリスマボスの「滅びこそ我が喜び、死にゆく者こそ美しい」という台詞は界隈では有名で非常に人気が高い。
この冬、北欧神話をオマージュした『ロキの解放』では、滅びへと向かう男たちを自分なりに噛み砕いて書けたのではないかと思う。不思議なことに、その先には充実した穏やかさがあった。

「〜の美学」というと、自分の中では「引き算の美学」というものが確立していった1年だった。刺激的なもの、心や時間を圧迫するものを、しっかりと見極めて引き算していく。大事なものを大事にしていくための要領と余力をしっかりと確保していくために。すると面白いことに「引き算」することと「潜る」ことは感覚が非常に似ていた。「顕れている」私「顕れたい」私というものは基本的には足し算であって、さほど重要でないのにかかわらず自己を圧迫するものなのかもしれない。

造語にはなるが「顕性自己欲」「潜性自己欲」の両方が自分の中にある。フロイトのエス・イドとは微妙に違う気がする。顕性自己は多くの人と繋がったり幸福や昂揚を求めるのだけど、どこまでも騒々しくて妙に頼りない。他方で潜性自己は一見孤独なようだけど、静けさや穏やかさをどこかの誰かと共有している感じがする。

この「潜性の自己」が満たされるとき。それは煮物の鍋に火をかけている時、家のフローリングを水拭きしている時、カフェでぼーっとしている時。その他にも、仕事に必要な分の勉強をしている時、作品を作品たらしめている時など。こういう時には騒々しい自分が鳴りを潜めて、自分の心と体が一致した充実した時間を過ごせているように思う。

1913年の『霊界の境域』の言葉なのですけれど、われわれはみんな、世の移り変わりの中で、それぞれの願望を持ち、感情を働かせ、何かを意志して生きている。でも、その自分の個人的な願望や感情や意志の働きが、いくら努力しても自分の問題ではあっても、社会の問題にまで拡がっていかない。今はそういう特殊な時代なのだ、というのです。
高橋巖『シュタイナーの人生論』春秋社(2021)p.102

現代人の孤独は20世紀初頭からずっと続いているのだ、と考えさせられた一文。「顕性の自己は頼りない」に通じる孤独だと感じる。また、先ほど僕は「潜性の自分は誰かと繋がっている気がする」と書いたけれど、ずっと潜ったままではそれはそれで孤独に陥ってしまうのだろうかとも考える。引きこもり、育児うつ、空の巣症候群、高齢者の孤独、自己と暮らしと社会の問題はとても難しい。でも、すごく興味を惹かれる分野でもある。

今年は長年抱えてきた「ロシア文学への苦手意識」を払拭できた年でもあった。かつてドストエフスキーに妙な憧れがあり、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』それぞれチャレンジしたが、いずれも100頁足らずで挫折。他の海外作家の長編は読めていたので、ロシア文学にはご縁がないのだろうなと思っていた。

しかし2021年はひょんなことからトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読むことになり、苦手意識などなんのその、これまでにない物語世界への没頭を味わった。映画や演劇で有名な作品のため内容は知っていたので、あぁメンヘラビッチのよくある自殺物語でしょ?くらいに考えていたのだが、もう作者・関係各位・往年の読者の皆さまに地面がめり込むくらい土下座したい気持ちだ。本当に面白かった。

《おれは、魂の平安を授けてくれる、あの百姓と共通の喜ばしい知識をどこから手に入れたのだろう? どこからおれはそれを取ってきたのだろう?(後略)》
トルストイ著、木村浩訳『アンナ・カレーニナ(下)』
新潮社(2012年改訂版)p.613

主要人物である地主貴族リョーヴィンのラストシーンでの独白の一部。作品を読んでいればこの後に続く「どこから」はちゃんと分かるのだが、それとは別に、読者はめいめいの「どこから」を思い浮かべるのではないかと思う。ただしそれは物語の文脈から必然的に宗教じみたものになる。
現代の宗教とはなんだろうか。お金教、権威教、成功教……なんかは、そもそも搾取の構造があるので宗教として成立しにくいかもしれない。安全神話、健康神話、論理至上、科学至上……考えるほどに枚挙にいとまがない。

潜る私こそが誰かと繋がっており、平安を授けてくれる。しかしこの感覚はいったい「どこから」手に入れたのだろうか?

2021年は残り神話部の月報、連載中の『花の矢をくれたひと』19話を公開しつつ、このような日記や雑記を書くかもしれません。年度はじめ頃に訪れた創作鬱期を越えられたのは関わってくれている友人と読者のおかげです。ありがとうございましたm(_ _)m

#文学  #宗教 #人生 #エッセイ

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!