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翼と脚と(SPEEDとラピュタとインドラと)

青春のアルバムより1曲、SPEED「All My True Love」

Aメロの歌詞

翼なんてないって気づいてから/きっと強くなれた気がする/大地を蹴って走り出そう

作詞は伊秩弘将。SPEEDの楽曲だけを見ても、彼はハッとするフレーズをところ構わずぶち込んでくる人。だからか、SPEEDの曲はサビだけじゃなく、メロも思い出しやすい。

ちなみにこの曲のサビでは「あの空を越えて」「あの虹を越えて」と繰り返される。飛翔をイメージしがちだけど、「飛ぶ」とか「翔ける」などの語は出てこないので、かろうじて矛盾の一歩手前に留まっているように感じる。とうぜん歌詞に論理的矛盾があっても構わないはのだが、もしこの曲で「飛んで行け」「大空を翔ける」なんて歌われたら、Aメロの「翼なんてない」は、台なしだ。心に留まるフレーズにはならなかっただろう。

「翼」を求めがちだ。僕だけじゃなく、たぶん君も、キミも、ちみも。しかたないよね。翼がないと大損をしてしまうんだもの。情報の受信も発信も翼だ。ウイルスなど見たこともないのに、大地と山と海さえ越えて未知の病原体の情報がちら見えする。恥ずかしくて人に見せられず仕舞っていた原稿が、noteに投稿されて何百人何千人の目に触れる。もちろん、現代に限らず古くから「翼」はあった。伝書鳩だって郵便だって、雑誌もラジオも全て翼だ。ただ時代と共に「翼」の及ぶ範囲は格段に広がったし、「翼」の速度も速くなったことは紛れもない事実だ。

翼と言えば、古代インドにおける最古層の散文資料『マイトラーヤニー・サンヒター』には次のような神話がある。上村勝彦『インド神話 マハーバーラタの神々』(ちくま学芸文庫)より引用する。

山々はプラジャーパティ(造物主)から最初に生まれた息子であったが、翼を持ち、自由に飛びまわっていた。そのため大地は安定性を欠いた。そこでインドラ神は山々の翼を断ち切って、大地を安定させた。翼は雲になった。それゆえ、雲はいつも山のまわりを漂う。(pp.51-52)

山に翼が生えていて自由に飛びまわっていた、というのは、なんともロマンのある話だ。ラピュタはその生き残りなのかもしれない。『天空の城ラピュタ』のシータは、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』のヒロインをモデルにしていると言われているので、あながち妄想でもないのかも。。。

しかしロマンだけで飯は食えない。つまり生活できない。ロマンを売って飯を食っているように見える人だって、その足場にはちゃんと生活があるのだ。もし現代に照らし合わせて、翼を解釈し直すとしたら、こんなところか。多くの知識を携えて情報社会を駆け巡る人も、多くの思想を抱えて万人を救済する人も、多くの発想を武器に世界中の感動をかっさらう人も、大地に両足をついているわけだし、飯食ってクソして寝るのだ。やはり翼はあるとき断ち切られねばならない。そう、大地があるから空がある。科学的にではなく、少なくともこの神話世界の延長線上では。

英雄神インドラは先ほどの引用よりもさらに古い、『リグ・ヴェーダ』が編纂された時代にもっとも人気があった神である。数多の神々がいる中で、インドラに向けられた讃歌は全体の1/4を占めると言われる。もっとも有名なインドラ讃歌は「ヴリトラ殺戮」というものだ。インドラが、水の出口を占拠していた蛇の悪魔ヴリトラを断ち切ることによって、人々の祖先に向けて河が流れた。これも創造神話の一種である。

僕がインドラの神話を気に入る理由は、インドラが厳密な意味での創造主ではないところにある。立川武蔵『ヒンドゥー神話の神々』(せりか書房)によると、

インドラはこのように地上のものにかたちを与えはするが、それらを産出しはしない。彼はエネルギーを一つの場から他の場へと移動させるである。すなわち彼による「創造」とは、地上における変形である。(pp.53-54)

こういう性質に、僕は人間的なリアリティを感じずにはいられない。神話、宗教、またはオカルト好きというと、本来は無い(一般的には無さそうな)力を産出する魔法を求めているかのように誤解される。「光あれ」と言って光が生まれるような。もちろんそういう力に魅力を感じないわけではないが、エネルギーを移動させるというインドラのリアリティには遠く及ばない。

翼で延々と飛んでいれば、大地と空の区別もないところを漂うだけで、定住することもない。神話の通り安定性を欠く状態だ。また、水をひとところに占領されていたら、ある大地は乾いてしまうし、溜めていたところは腐敗するかもしれない。

創造とは産出だけではない。区分と流転も重要だ。インドラ讃歌はそのことを暗に教えてくれる。創作家が何かを生み出せないとき(これはもちろん自分のことなのだが)、「光あれ」と言ったところで何も生まれない。僕はこのインドラ讃歌のことを思う。大地と空の区別もなく漂ったりしていないか、頭に水が溜まって体が乾いていないか。それはつまり、発想にばかり頼っていないか、他人の空に迷い込んでいないか、机の前に座る時間を疎かにしていないか、創作に時間や労力を分配できているか、そもそも創作に分配する時間や労力はあるのか、、、などということだ。もちろんこれは創作に限らず何事に対しても言えることだ。仕事、愛情、友情、趣味など。

もし現代人が翼を大事にするのであれば、それはやはり大地と空を「行き来」するためのものとして大事にしたい。漂うだけ、行きっぱなし、というわけにはいかない。ましてや飛んで行った先を自分の住み処だと勘違いしてはいけない。そして、翼を扱うのには筋力や忍耐力が要ることも忘れてはならない。こうして空と大地を行き来した先に、僕の生きる場所も、僕の書く文章も音楽も、ちゃんと自分の足元に落ちているのだと思う。

大地に2本の脚で立っているからこそ、空は美しいし、ロマンを感じるのだ。インドラ神話のリアリティが身に染みる。

SPEEDは正しいよ、少なくともあの頃はね。笑
そしてラピュタのシータも正しい。「土から離れては生きられないのよ」というセリフの深淵なる意味を、あらためて噛み締める。

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