10 生きて、生きた木と 【葬舞師と星の声を聴く楽師/連載小説】
連載小説『葬舞師と星の声を聴く楽師』です。
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10 生きて、生きた木と
アシュディンはその巨体をテントの内まで引き摺り込んだ。肩で荒い呼吸を繰り返すハーヴィド。服をはだけさせると、左右の脇腹に痛々しく広がる内出血を認めた。片方の胸は歪にへこんでいる。
「肋骨がメタメタに折れてる。まさか、肺にまで……」
このまま出血が続けば、失血死するか窒息死するかのどちらかだ。しかし今からラウダナの都に向かっても、医者を呼べるかは分からない。そもそもこの悪天候で辿り着けるかも分からない。障碍の方が明らかに多い中で、瀕死の彼を置き去りにするわけにはいかなかった。
アシュディンは自身の無力を呪いながらハーヴィドの前にじっと座り込んだ。そして首を垂れて祈り続けた。
《どうか血よ止まれ、止まってくれ!》
額の前で組み合わせた手に爪がめり込み、噛んだ下唇に仄かに血の味が滲んだ。
《お前の痛みと苦しみを、ほんの少しでも引き受けられたら》
アシュディンは自らの心身を痛めつけながら、一心不乱に祈った。
「できることなど、ないだろう?」
横たわるハーヴィドが声を発した。何かを受け入れたような落ち着いた口調だった。アシュディンはハッと顔を上げて、呼吸をやや持ち直した楽師を見下ろした。ランプの炎がその輪郭を不吉に揺らめかせている。
「ひとつ、頼みがある」
「……なんだよ?」
ハーヴィドの腕がゆっくりと伸びてきて、ふたりの間に漂う。アシュディンはその手を両手でつかまえて堅く握った。
「こっちに来てくれ」
腕を引かれている。至極、弱々しい力で。アシュディンは彼の望むがままに、懐に潜り込むように横たわった。
背に腕が回ってきて、肩を抱き寄せられた。ハーヴィドの広い胸に、今は痛ましいその胸に、頬を当てると心臓の鼓動が叩き返してきた。アシュディンはその音に少しばかり安堵を覚えた。
ハーヴィドは、アシュディンの髪に顔を埋めた。雨に濡れてうねった毛から、仄かに立ち昇る情景があった。
「この香油、マホガニーがよく染み込んでいるな。大地に育まれた、生命力に満ちた、優しい香りだ」
それは囁くような小さな声だったが、ふたりの体が接する全ての場所から、アシュディンの芯まで響いてきた。
「昼間の枯れ木からは、哀しい香りしかしなかった。あれが最期かと思うと、やりきれなかった」
淡々と告げられる遺憾の想い。アシュディンは困惑しつつも、いま取るべき態度はひとつしかないように思われた。
「好きなだけ嗅げよ、今だけは俺が木になってやるから。でもあれが最期じゃない。お前は生きて、生きた本物の木と再会するんだ、絶対に」
しばらく返事は来なかった。雨が激しくテントを打ち付けており、やかましさの裏に潜む静寂がより恐ろしく感じられた。
「……しかし香油にマホガニーか。帝国伝統舞踏団は案外、俺たちのことを忘れてなかったのかもしれないな」
突然、辻褄の合わないことを言い出したハーヴィド。アシュディンはまともに取り合わず、
「ついに頭までおかしくなっちまったのか。もう喋るな、治ったらいくらでも聞いてやるから」と言って制止しようとした。しかしハーヴィドは思い浮かぶがままに話を続けた。
「お前と出遭って、ようやく使命を果たす時がやってきたのかと思っていたが、残念だ。俺が死んだら、ザインに見つからないうちに森に運んでくれ」
《死んだら……》葬舞師としてあちこちで散々聞いてきた文言が、いまさらになってアシュディンに重くのしかかる。
「何言ってんだよ! 俺たちの使命はザインをちゃんと送り届けることだ。ラウダナはもうすぐそこだろ? 絶対に生きてザインを──」
「はは、そうだ、そうだったな。俺たちは、ザインを……」
ハーヴィドの言葉はそこで途切れた。肩を抱いていた腕の力がふっと抜けた。
アシュディンは戦慄いて、おそるおそる左胸に耳を押し当てた。心臓はちゃんと動いているし、呼吸のたびに頭を押し返す力がある。しかし、これが一晩中続いてくれるとは限らない。分岐の先に用意されている残酷な結末も、覚悟しなくてはならなかった。
《もし仮にお前が死んだとしても、森に捨てるなんて出来るわけないだろ。そんなことしたら二度とザインの顔をまともに見れない。生きろ、ハーヴィド、生きろ》
声にならない激励を精一杯、送り続けた。しかし夜が更けるごとに、アシュディンの意識も薄らいでいく。いよいよ彼の精魂も尽きようとしていたとき、ランプの炎がふっと消えてしまった。
髪の匂い、マホガニーを吸い込んだ香油の匂い、雨と土と草の匂い、そしてハーヴィドの匂い。あらゆる香りが混ざり合って、アシュディンを微睡みへと誘った。
《それにしてもこいつの胸、死にそうだってのに、どうしてこんなにも温かいんだ……アイツとは、大違いだ……》
雨雲が通り過ぎ、悪夢のような夜が過ぎ、草原は端から順に黄金色の絨毯を広げたかのように、ゆっくりと朝陽に照らされていった。
テントの切れ目から差し込む光がザインの顔をくすぐった。その愛くるしい目蓋の辺りを何度か顰めて、少年は目を覚ました。
昨日あれだけ怖がらせてきた雨音も雷鳴も聞こえない。鳥の声が微かに響くだけの静かな朝だ。怖いものはぜんぶ、どこか遠くへ行ってしまった。
身を起こして振り返ると、テントの真ん中にふたりの姿を見つけた。もはやザインにとって血の繋がった兄のようになったふたりが、寄り添いながら寝そべっている。
ふたりとも、とても穏やかな顔をして眠っている。きらきらして見えるのは雨上がりのせいだろうか。ハーヴィドの寝息に合わせて、胸の上のアシュディンの頭が持ち上がったり下がったりしている。その様子が〈ふたりでひとつ〉みたいでちょっとおかしかった。
なんだか起こしたら悪いような気がして、ふたりをそっとしておいた。ほんとうは、飛びつきたいくらい嬉しいんだ。でもやっぱり、そっとしておこう。
アッシュは約束を守った。
ヴィドはちゃんと帰ってきた。
── to be continued──
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