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詩の敵はやはりアイツだった 【エッセイ】

珍しく夜更かしをしている。夜番の最中で寝るタイミングを逸してしまったのだ。
生活の変化により細切れに寝ることが多くなり、目を覚ますたびにスマホの通知を見て「おぉ、またか」と思う。
詩作品や詩に関するエッセイに対するリアクションが来ている。noteは以前にも増して詩作ユーザーを獲得し、コミュニティを拡大しているようだ。

端的に言うと「新規の詩人が増えた」

決して新規に対して古参がマウントを取ろうとしているわけではない(と書いてもそう思われてしまうだろうが、残念ながら当方は長く続いているだけの窓際詩垢である)。僕はそもそも年功序列には反対であり、むしろ新しさの価値を重んじている。若者の方が偉い。偉くない点はただそのコミュニティに秩序立てられてないという一点のみで、それも逆に偉いところだ。

しかし多くのユーザーを獲得し、また毎日投稿(高頻度投稿)を推奨するプラットフォームには弱点がある。みな薄々気付いているかもしれないが「希少性」だ。
詩人が増え、多くの作品が並ぶこの市場では、詩の価値は確実に薄れてしまう。もちろん理想的には、文学の価値はエクリチュールと読者の関係においてのみで規定されるべきだと思うが、そのような言説が青臭く感じられてしまうほど、ネット法の文学への浸食は大きい。
たとえば、投稿時間によって詩の価値は変わるし、フォローしているユーザー数によっても詩の価値は変わる。

これでいいのか!?などと言うつもりはないが、この液晶を滑り落ちていくような言葉の中から、自分の手元に置いておきたい言葉を掬い取ることに実際困難さを感じている。
「どう書いてあるか」は見えても「何が書いてあるか」が見えにくくなった。文学においてHowとWhatが表裏一体であるのは確かだが、それにしてもHowに比重が偏りWhatが見えない。

そして僕は古典に還っていく。

詩史において、日本とインドには共通した流れを持つ。それは①萬葉集→②古今集→③新古今集の変遷に代表されるもので、①What(素朴)→②What +How(素朴と技巧)→③How(技巧)の流れだ。
言葉を操れるようになってくると歌は技巧に走り、支配されていく。そしてその先には必ず衰退が待っている。
古代〜中世のインド詩もそうだった。古今集はもっとも洗練されたグプタ朝期のサンスクリット文学に相当し、その後技巧に走った宮廷詩人たちは自らの首を絞めることになった。

というのは中央集権的な文化の話で、日本でもインドでも衰退の後には革命が控えていた。そのひとつは担い手の変化。民衆化である。技巧的に周回遅れした(失礼)者たちにバトンが渡ることでWhatのマンネリが打破されるのだ。日本では俳句の台頭、インドでは地方詩人による吟遊のムーブメントだろう。周回遅れと言っても最低限のHowは既に言語の中に染み込んでいるものだから、その新しい文学は充分人を魅了するに足るものだった。

こうやって書いていると、ネット詩時代にヒーローは不要だということにも気付かされる。みんなで楽しく書いて何となく読めばいいのだ。つまり詩人が増え、詩作が増えた今の形は正解なのだ。ただ現代詩の場合、どうも読者を置いてけぼりにしがちな空気もあり、このムーブが成熟するためにはやはり素朴に立ち返る必要があると思う。ポエム、散文詩、詩っぽいもの、などはそれを見事に体現している。

詩に、文学に何を期待するか?にも依るだろう。ふと浮かんだのは、権威あるホールで聴くチャイコフスキーの交響曲も、ヴィレッジヴァンガードで売られているようなJ-POPのボサノバver.CDも、どちらも音楽だということ。担い手や顧客が異なることは明白であり、自分がどこを目指すのかはある程度はっきりさせておいた方が良い。

色々と考えはするのだが、それで創作のスタンスを変えたりコントロールできるほど器用ではない。ただ世間ほどの振れ幅ではなくとも、自分の中で微かに感じられる程度の変化は欲しいものだ。どちらかと言えば、素朴に立ち返る、Whatを再び新しくする方向へ。
そのためにはHowを捨て、書を捨て街へ出て、自然や建築やアートに触れたり、人と話す必要があるのだろう。それが今の僕に必要な詩作なのだと思う。

つまり……やはりコ口ナこそが僕の創作を阻む最大の敵である、チャンチャン♪


深夜に書き殴っただけの雑文です

#詩  #文学 #日記 #エッセイ #創作

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