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生きにくいあなたへ、古代インドの水を

知人がとある仏教教典をはじめて読んで、こう綴っていた。

「所有する」ということに対する恐れにも似た意志を感じた。人間は欲しいから所有するのではなく、所有しているから欲しくなるのだろう

彼が雑感のように記した「所有しているから欲しくなるのだろう」は慧眼だと思う。たとえば、金銭や物品を、恋人や伴侶を欲しいと思うとき、私たちはすでにそのイメージを所有している。過去に持っていたものや、他人が持っているものから、連想したり膨らませたりして、すでに所有している自分をイメージしているのだ。問題となってくるのはそれが実際に「所有できるか」「所有できないか」で、後者の場合、イメージと現実の落差から、勝手に落胆や悲哀に陥ることになる。

知人が読んだのは『スッタニパータ』という仏教最古層の教典だった。仏教学の中では「もっとも仏陀の教えの原型に近い教典群のひとつ」とされている。
そこに記されている「所有」への恐れ。「所有」は仏教に限らず古代インド思想全般が問題としたキーワードのひとつである。
『スッタニパータ』にどう書かれているか見ていこう。

人々は「わがものである」と執著(しゅうじゃく)した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。(805-)
 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。…「わがもの」という思いを離れて行うべきである。―諸々の生存に対して執著することなしに。(707-)

このような教えは仏教文学にも影響を残している。仏陀の弟ナンダの生涯を描いた『サウンダラナンダ』(邦題:端正なる難陀)という詩物語があり、そこでは

吾なり吾がものなりと云いて人は恐怖を得ればなり(アシュヴァゴーシャ, Saundarananda Ⅸ-35, 松涛誠廉訳)

と描かれている。
少々脱線するが、経典の詩文がほぼそのまま物語に挿入されるのは、インド古典の面白い点のひとつだ。抽象度を高めて寓意として込められた民話も残されているし、日本の民話もそういう傾向があるのだが、それだとどうしても切れ味が鈍る。経典の言葉には重さと鋭さがある。


アシュヴァゴーシャの詩文を見て気付いた方もいるかと思うが、ここでは「わがもの」と「われ」がセットにされている。確かに、「わがもの」と言うには「われ」が先立たなくてはならない。

「わたしとは何か」は宗教思想哲学および文学が挑戦してきた重要な命題のひとつ。インド思想も例外ではなくさまざまな自我を論じてきた。しかしこの古代インド的自我が「自我」学として現代日本で認知されるケースは非常に少ないと思う。
日本では「ムラ共同体構成員としての自我」「輸入された近代的自我」「実存」あたりを足場にして、それ以降の自我が語られるのが一般的だと思う(あまり詳しくないし紙面をとるので省略するが)。

で、これらのどんな自我にも生きにくさを感じるのは僕だけだろうか?? たぶん僕だけじゃないだろうから、僕はこの記事を書いている。
日本にはあまり届くことのなかった古代インド思想は、ときおり生きにくさに風穴を開けてくれることがある。

今日紹介するのは、インド思想の自我論では有名な「ネーティネーティ」という言葉。
サンスクリット語では

na iti na iti

aとiが並ぶとeに変化するという規則から、「neti neti」となる。
英語にすると「not it, not it」つまり

それではない、それでもない

これは『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』という仏教誕生以前の文献群に記されている文言で、ヤージュニャバルキャ仙という哲学者の言葉として現れる。
私(認識主体)はわたし(認識客体)を正しく認識することができない。「私はそれではない」「私はそれでもない」と延々と繰り返していくことしかできない、という論理である。哲学にそれほど精通していない人でも理解できる。そして、
「私はわたしを認識できない」という結論だけを示すのではなく、その課程を直に示しているところがこの論理の実践的で有用なところだと思う。

「私ってこれかも!」と思うことがある。しかし翌日には忘れてるか違和感が残るかのどちらかでしかない。それらは蜃気楼のようなものだ。「私」がわからないとき、「私」以外のもので「私」の確証を得たくなったりもする
僕はそれが「所有」欲だと思っている。家電を使用する自分、家の購入者である自分、恋人と手を繋ぐ自分、妻の生活を支える夫たる自分……「所有」は揺蕩う自己に一時的な足場を与えてくれる。

しかしそれも『スッタニパータ』が言うところの「常駐しないもの」なのだ。

この「常駐しないもの」を無理矢理「常駐させる」ために、資本や賃金や資格や容姿や性格などの取り引きを延々と続ける社会。それが今の日本の本流なのではないかと、わたしは、それが邪推であればよいのだが……と思っている。

おそらくこの「自我」と「所有」の概念の檻に喘いでいる人は少なくないのではないかと想像する。僕はミニマリストの方とお話ししたことも、その実生活を垣間見たこともないのだけど、「所有」のひしめきにウンザリする人はこのような生活に何らかの益を感じるのではないだろうか。

現実的に僕が「所有」にまみれた今の生活や価値観から抜け出すことは容易ではない。それは遁世することに他ならない。
それでも心の辞書の「ネーティネーティ」の箇所に付箋を貼っておくことくらいはできる。生き苦しいとき、すっかり疲弊してしまったとき、この言葉が自分の、そして誰かの乾きを少しでも潤してくれることを望む。

これは懐古主義だとか共産主義だとかのイズムではない。古代インドを流れていただろう川の水が、巡り巡って今日の日本の水道水に混入している。そんな馬鹿げたことを想像して、青いロマンの香りに浸ってるだけだ。


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