それも私【エッセイ】
先日、妻が入院をした。
コロナウイルス感染ではない。生命にかかわるような重篤な疾患でもない。ただ一泊二日の入院が必要な処置があったためだ。既に退院して元気にしているのでどうかご心配なく。
入院日に奇異な感情を覚えた。それは妻が処置室へと運ばれるのを見送った際のことだった。
ストレッチャーという搬送器具に乗せられ、病衣をまとう見慣れない妻の手には点滴の管。
ただそれだけのことなのに、僕の心はたまらなくなり、感傷に傾いてしまった。不安とか恐怖とは少し違う、いたたまれない感覚。
妻が不安そうな顔を浮かべていたので、ひとこと「頑張って」とだけ伝え、看護師さんに連れられていく妻の姿を見送った。
実は僕は病院勤めである。
ストレッチャーも病衣も点滴も、もう10年以上お付き合いしており、見ることも扱うこともすっかり慣れたものだったはず。
しかし家族の体に接しているそれらはまったく別物に見えた。ずっと見てきた器材、慣れ親しんだ場所なのに、僕はその時、妻が奥深い異界へと連れ去られてしまうようなイヤな感じがしたのだ。
僕は自分の職場でもある「病院」をある種の閉鎖空間だと認識している。ある種のと言ったのは、外からの監査が入らない腐敗した空間といったニュアンスではなく、その逆で、人間の抱える様々な不幸を吸い込み、閉じ込め、外に拡散するのを防ぐための空間といった意味だ。「忌み」を含んだ「聖域」のような性格を感じている。
(似たような話で、日本人が「死」を身近に感じられなくなったのは「病院死」が増えたからだといった説もある)
医療に携わる人、またそういう経験のある人なら想像ができることだと思うが、人はいざ「死」「生命」「健康」といったものを目の当たりにすると、それまでの考え方や立場が180°変わってしまうようなことがある。
「90歳過ぎているんだしもう何もしないで下さい」と毅然に言っていたご家族も、いざお婆ちゃんが苦しそうにしているのを見ると「何とかできないんですか?」と詰め寄ってくる。たとえ言葉に出さなくともきっと同じようなことを思っていることだろう。
人間の意見、感情、経験をガラリと変えてしまうくらい「生死」の現場は社会とは違う理(ことわり)に支配されている。
近年のコロナウイルスの隆盛で、人が「死」や「生命」について軽んじるような発言が散見される。正直、僕はそれを「そんなこと言ってても自身の回りに降りかかってきたら変わるんだから」と冷ややかな目で見ている。
そして全国民が数値に注目をしている。感染者数、重症者数、死者数、ワクチンの奏功率、副反応が起こる割合…… 数値化は医学が自然科学の手法に足場を置いた時点で避けられないことである。
デカルトの『方法序説』に遡っても、科学は実証、客観性、再現性を要求するもので、そのためには数値化が必須条件だ。
しかし僕は人の健康や生命を数値化することには限界があると考える。いや、数値化が妥当で有用だとしても、その解釈も印象もあまりに多様すぎる。人間が経験の塊である以上、統一した理解を導き出すのは不可能なのだろう。
その多様さの中には、5000分の1をどうしても軽視しきれないような体験の持ち主の、真摯な眼差しも含まれているのだと思う。
No man is an island entire of itself;
(人は独存する孤島ではなく、
every man is a piece of the continent, a part of the main;
(全ての人は大陸の一欠片であり、全体の一部である)
if a clod be washed away by the sea, Europe is the less,
(もし土塊が海に押し流されたなら、欧州は失われるのだ)
as well as if a promontory were,
(岬が削られていくように)
as well as any manor of thy friends or of thine own were;
(あなたの友やあなた自身の土地が削られていくように)
any man's death diminishes me,
(誰の死であっても私をすり減らすのだ)
because I am involved in mankind.
(なぜなら私は人類の一員なのだから)
And therefore never send to know for whom the bell tolls; it tolls for thee.
(それゆえ決して問うべきではない、あの弔鐘が誰のために鳴っているいるのかを。それはあなたのために鳴っているのだから)
〔ジョンダン「MEDITATION XVII」より
拙訳:矢口れんと〕
今、医療機関に入院ができないという事態が頻発している。これは外側の世界から見れば非常事態のために「入れない」なのだが、内側の世界から見たら膨れ上がって「受け入れられない」なのだ。そして、これまで負の感情の嵐から私たちを守ってくれていた聖域より、さまざまな不幸が漏れて溢れようとしている(実際にはもう溢れ出ている)
病衣すら着させられずに亡くなってしまった方々がいる。
「明日は我が身」ではない。「それも私」という意識で事態に臨んでいる。心よりご冥福をお祈りいたします。
ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!