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なんだか恋するみたいに生きてる(エッセイ)

先日、自分が書く論文のテーマについて教授に報告をしたら、即座に「こっちの本の方が面白いよ」と方向転換をされた。その間はおそらく1秒にも満たない時間で、あまりの早さに言葉を失ってしまった。春休みに考えていたことはとりあえず横に置くことになった。とはいえ、早い段階での修正はありがたかった。より良いテーマを示してもらえた可能性があると思っている。もちろん、これから作業が進んでからの大幅修正も控えているのかもしれないけれど(ガクブル)。

「やりたいことをやる」と背中合わせのものは、「やりたくないことはやらない」ではなく、「やりたいこと以外は見ないようにする」の気がした。もっと視野を広げて探してみたら良かったのかもしれない。もちろん一点突破の強みもあるし、自分から湧き出るモチベーションに従って、邪魔を入れさせない姿勢も大事だと思う。

僕が「やりたい」と言ったことが否定されたのとは思っていない。僕の口から出た興味、素材、方法を汲んだ上で、より適切な道を示してくれたように思う。それを瞬時に組み立てた人に対して、圧倒されたのだ。人についていくことは悪いことではない、師を間違えない限り……いや、師を間違えても、それはそれで良いのかもしれない。

(心の声:ハウツーみたいで僕らしくない文章。まあ続けよう)

Sunk cost(回収が不可能なコスト)を避けることは、僕がもっとも嫌っていることだ。遠回りならば、する方が良いに決まっている。学習においては特にそうだ。初めから正解を目指した学びはとてつもなく浅い(心当たりがある)。
振り向かせたくてアレコレ苦心したり杞憂した恋愛のように、形が残らずとも後に輝き続けてくれる時間が、生きていくなかで何度かは必要だ。少なくとも僕にとっては。Sunk costをかける覚悟の強さで、恋の楽しみも愛の深みも決まるように思っている。

(心の声:そうそう、ようやく自分らしい)

「石の上にも三年」は現代においては定石ではない。年単位、月単位で居場所を変えていく器用さが功を奏する時代だと思う。それでも「まず三年」は自分のリズムには近い。黙って師に学ぶ3年。もちろん、全て丸ごと鵜呑みにするわけではないのだが。

なんでこんな学問をやってるのだろうか?という問いがないわけではない。誰の役にも立たない、何の役にも立たなそうな、異国の古典研究。どんな言説を支持も批判もしないし、現代の思想との繋がりもほとんど薄い。振り返ってみると、今いる場所はいっときの思い込みや勘違いや、スノビズムやニヒリズムの産物のようにも思える。

……結局は偶然性の世界を生きているとしか言えない。自由意志はあるようだし(少なくとも自分で選んだ場所だし)、ないようでもある(たどり着く場所はいつも想像とは違う)。そんな無常の世界に足を踏み入れたのは、一度だけでも置かれた場所を離れてみたかったからだ。辿り着いた場所は理想郷ではなかったけれど、意外と居心地が良いところだった。そこに3年くらい腰を落ち着けてみて、もう少しだけここにいたい。今はそう思っている。

人は、生きない、このように生きたかったというふうには。どう生きようと、このように生きた。誰だろうと、そうとしか言えないのだ。

長田弘「机のまえの時間」より
『世界はうつくしいと』みすず書房

どこまでも優しく慰め、背筋を伸ばしてくれる言葉がここにある。いつもうっとりさせられる。人に恋をするように、言葉や本に恋してきた。人に恋するみたいに、日々を生きてる。



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