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人間らしさ【エッセイ】

幼少期に過ごした家の前に小さな林があった。住宅用敷地5-6戸分くらいの広さだったろうか。当時はすごく広くて深い森に感じられた。朝になると辺りに靄が立ちこめ、キジが舞い降りてくることもあった。
今でも鮮やかに思い返される。冒険とは名ばかりの無目的な散策。帰宅後に顔や手足がぶつぶつ痒みを帯びてきて、ウルシかぶれというものを勉強した。また倒木に腰を下ろしては蟻の軍隊の行進をいつまでも眺めた。それで飽き足らず、今度は蟻の胴体に細い糸をくくりつけ、蟻地獄を釣ることに夢中になった(親には眉を顰められた)
野生に見出す驚き。そこには常にpassive(受動的)なpassion(熱狂)があったのだ。

市街地に住んでいる今の僕にとって、自然は、区画整理された中で大人しく佇むものか、あるいは「登山しよう」などと能動的アクションを起こして向かうものに成り下がってしまった。寂しいことだ。
そういえば、昔、神戸の中心地からほとんど出たことがなかったという友人がいた。彼は、就職活動のために東京に出向いた際、新幹線の窓から初めて見る自然の連なりに度肝を抜かれたそうだ。その驚きを嬉々として語ったところ「世間知らず。日本の7割は山林なんだよ」と笑われて落ち込んだそうな。友人の天然っぷりを知れる面白いエピソードなのだが、それまで旅行とか本当に行かなかったのだろうか?

自然は人里から区分けされ、消費され管理され鑑賞物にもなり。その反動で「もののけ姫」が流行る。一方で「もののけ姫」をスペクタクルショーとしてしか見れない現代人もいる。彼らの手で、山林は切り崩されソーラーパネルを貼り詰められ、土砂崩れに伴って人的被害を出したりもした。
自然と人工、という言葉が生まれた時点で、区分はすっかり成立してしまったのだ。いくら内包とか共存の概念で補足して巻き返しを図ろうとも、いちど起きてしまった分断の溝を埋めるのはなかなかに困難のようだ。
もしそれを成し遂げるものがあるとしたら、やはり「もののけ姫」同様、物語の力なのだろう。そこには説明や説得をすっ飛ばして、人々を頷かせる力がある。

南インドの文学作品『マレナード物語』は、まさにそのような力を内に秘めた小説だった。めこん社から発刊されている現代インド文学選集の4刊目に当たる、200頁ほどの中編小説だ。
書の1頁目には、インド、カルナータカ州の山地で実際に起きている森林破壊に対する嘆きが、余りにもあっさりと綴られている。森林破壊の惨状や被害を滔々と語るのではなく、物語の背景に見え隠れする薄いヴェール1枚に込めるように仄めかされている。あってもなくても良いように配された序文。これから始まる物語の、著者の、訳者の、物語の力への信奉が確かに感じられた。

一読して、小説のお手本のような作品だと思った。短く整えられた文の連なりから成る物語。必要以上の粉飾はなく、分かりにくい暗喩も伏線もなく、エピソードが停滞することなく物語を編み上げていく。前半(起承)後半(転結)の分かりやすい構成と、ラストへと向かう緊張感の高まり。全部で32ある章は、ひとつひとつが5頁程度と読みやすい量で、毎度謎を残しつつもきちんと落ちる。
まさに読まれるために書かれた小説だった。ともすれば単調になりがちな叙述的作品だが、ところどころに配された写実的描写がそれをしっかりと防いでいる。場面がありありと目に浮かんできて、退屈からは確実に遠ざけられた。

本作はマレナードというインド南西部の山岳地帯を舞台とした話で、ややニヒルに構える主人公の男と、めいめいに魅力と滑稽さを併せ持つ男たちが繰り広げるドタバタ劇だ。
誤解も曲解もしようがない作品のため断言するが、前半は蜂の群れに追い回される話、後半は幻の飛びトカゲ(フライング・リザード)を最奥の森まで追い回す話である。
インドだからといって、日本人のイメージ通りに神話や宗教に溢れているわけではない。それらは物語のスパイスとして、進化論や文明社会の対比として時折顔を出したりもするが、まったく本質ではない。大事なのは生活そのものなのだ。

冒険譚と呼ぶには矮小で、人間劇と呼ぶには素朴な本作。これのどこが面白いのかというと、記事冒頭に述べたような原体験の再現に他ならないだろう。自然と一体化した生活の中で、思いがけず何かに熱中したり、思いがけない不幸に遭遇したり。予測不能な世界への憧憬だ。
蜂に追われトカゲを追い回す主人公らの傍らに立ち、読者自身も望んで翻弄されに森へと向かうのだ。息の詰まるような生活と時間を忘れ、夕暮れ時になっても遊びをやめない子どもに還り、自然と人工の境界線を溶かしていく。それが本作の大きな魅力のひとつであろう。幼少期の再体験の最果てにあるもの、つまり物語のラストには……(手記はここで途絶えている)

原文はカンナダ語で書かれている。カンナダ語とは主に南インドに分布を持つドラヴィダ語族に含まれる言語だ。
インドでよく連想される、バラモン教やヒンドゥー教や仏教などはアーリア文化と呼ばれるもので、インドヨーロッパ語族を基盤にした元々は外来の人々の文化だった。
彼らの進入より以前に、インド亜大陸の地に住み着いていた人々がいて、彼らが用いていた言語がドラヴィダ語族といわれている。
インドヨーロッパ語族とドラヴィダ語族は比較言語学的に明らかに異系統であるものの、カンナダ語には前者の影響を受けた形跡が見られる。

『マレナード物語』には恐竜から鳥類・爬虫類に至る進化の過程や、類人猿の生活様式の変遷などが語られているが、言語の変化との類似性も感じられて面白い。
ちなみに日本でのカンナダ語研究はあまり進んでいないようで、1994年に発刊された本書が初めてのカンナダ語小説の邦訳本になったそうだ。Wikipediaの「日本におけるカンナダ語研究」の項目はわずか6行、『カンナダ語・日本語辞典』の発刊は2016年とのこと。

自身の生活圏とは全く異文化の、未知の言語・文字で書かれた文学作品に熱中できるのは本当に不思議な体験だと思う。それでもヒトには共振できる「何か」があり、おそらくそれは僕が「人間らしさ」と呼ぶものだろう。幼少期を忘れないだけでなく、再度そのような体験に身を浸してみたいものだ。
また、この稀有な体験は、主流でない文化とて決して侮らない出版社と翻訳家の努力によって支えられ届けられたものだ。彼らに心よりの敬意を込めながら、今日の筆を置こうと思う。

書き殴っただけの乱文にて失礼しました。

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