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詩の神さまに顔向けを 【エッセイ】

少し前に、とある詩誌をめぐっての諍いを目撃した。僕はその雑誌に投稿したことがなかったので傍観していたのだが、テーマ自体は看過できないものだった。
概要はこうだ。詩誌Aで詩人Bの作品が受賞した。詩人CがBの作品について「あれは詩ですか?」とSNS上で疑問を投げかけた。Bがそれに気づき、まずCと穏やかに議論していた。そこに詩誌Aの運営者が割り込んできて、Bを擁護しつつCにやや批判的な言葉を投げた。そこには詩の理想、詩誌の理想も含まれていた。

発端となった「あれは詩ですか?」という疑問はどこへやら、議論は言葉遣いやら詩誌の態度やらの方向に行ってぐっちゃぐちゃ。
おい、詩人なら個人の印象や詩誌の矜持で語るな。問題となった作品を鑑賞、引用しながらそれぞれの立場で論じてみせろよ。と思ったが、これも外野のぼやきでしかない。

この事件にもやもやした感情を抱えつつ過ごしていたが、数週間経過して不意にピンと来たのだ。
これは宗教分派そのものではないか?と。
仏教になぞらえるのが分かりやすいと思う。馴染みのない方にも伝わるよう努力するつもりだ。

仏教の開祖は言わずと知れた釈迦牟尼仏陀、実在の人物であるも、その生涯は経文や物語詩によって明らかにされている部分が多く、伝説上の存在という側面もあるだろう。
彼が修行の末に悟りを開いた後、ブラフマー神とインドラ神に「その教えを民に広めなさい」と勧請され、立ち上がった瞬間が仏教の始まりである。

釈迦牟尼仏陀の死後、100年くらいの間は釈迦の教えが保たれていたが、その後に保守的な上座部仏教/先進的な大衆部仏教に分かれる(根本分裂)。そしてさらに枝末に分裂し20弱の分派が出来上がる。

その中からシルクロードを経て中国・朝鮮半島・日本と伝わったのが北伝仏教(チベット仏教もここに含まれる)。その間に各地域の文化風習を受け入れながら信仰体系が変化していった。
一方でスリランカから東南アジアへと伝播した南伝仏教は、分裂直後の上座部仏教の教えを比較的保ったままその地に根付くことになる。

日本でも、奈良平安鎌倉時代にそれぞれ特徴的な宗派が生まれ、消滅の危機を掻い潜りながら現代まで続いていく。
ひたすら座禅を貫く宗派、常人には理解し難い公案を考え抜く宗派、何かと念仏を唱える宗派、印を結び呪文を唱える宗派。教義も表現型も種々雑多で、おおもとの仏陀の教えはいったいどこへやら?

加えて、ここまで示さなかった小乗仏教/大乗仏教という概念がある。勘違いされやすいのだが、大衆部=大乗のように派閥によって規定される概念ではない。
小乗仏教は、修行により悟りを開いて自らの力で己を救え(自力)という特色を持つ信仰のこと。一方で大乗は学がなくても体力や精神力がなくても簡易な信仰の方法だけで仏は民をお救いになる(他力)という特色のものだ。

長々と講釈を垂れてしまった。誤り等あればどうぞご指摘くださいm(_ _)m

さて、詩をめぐる諍いの話に戻る。
「あの作品は詩じゃない」と言う言葉には、「念仏は仏教じゃない」に通じるものを感じるのだ。念仏のことを易行道と呼んだりもする。誰にでもできる信仰、誰にでも分かる信仰のことだ。
一方で「それは詩じゃない」という時、修行道を思い浮かべてしまう。修行の師匠や、ある程度の深達度に行った経験がある者でないと、分からない世界のことである。

これは仏教だ、とはいったい何を指しているのだろうか? 念仏は仏教だ、座禅は仏教だ、定印は仏教だ。それぞれの宗派がそれぞれの歴史と理論を根拠にそう言う。しかし他の宗派は独自の理論でそれを否定するだろう。
では仏教とは何か? 開祖である釈迦牟尼仏陀の教えに従事し、彼に奉じることか? そうではない。時代を下って教えなどすっかり変わってしまった。崇拝の対象だって、阿弥陀如来になれば弥勒菩薩にもなるし、空海の場合もある。そもそも釈迦牟尼仏陀は自らを崇めることを僧たちに望まなかった。

詩とは何か?という問いには、このような不毛さを感じざるを得ない。
発祥ひとつ取ってもさまざまな場所からだった。神話から、民族の朗誦から、和歌の伝統から、輸入された文学から。そのどれにも「詩」という言葉が当てられうる。それらは相互に複雑に絡み合い、様々な文化を吸収して現代の詩に至る。
今や詩は、散文の中に散りばめられているし、掌編小説にもなるし、優れた論文に見い出すこともあるだろう。
詩的表現はラップにもなるし、リーディングにもなるし、アートにもファッションにもなる。それらは本当に詩ではないのだろうか??? 
切り捨てる前に、自分の理論を一旦捨てて胸に手を当てて考えてみるといい。

「ではお前は詩とは何と考える?」と聞かれたとき、僕ならどう答えるか。

「詩の神さまに顔向けできるか」
ではないだろうか。

これまでの文脈で喩えなおすなら、仏教諸派のすべてが釈迦牟尼仏陀を中心とした僧団教義を最高の崇拝対象としているわけではない。しかし、その伝説的な存在に対する畏敬の念を完全に忘れたわけではない。そこが仏教としての最低条件なのだろう。

詩の歴史を紐解いていくと、自然発生したと思われる歌や呪術、韻律や修辞法よりも遡ることは困難である。そして僕はその上流に、詩における伝説的存在、人間や集団が生来より持つ「詩情の塊」を想定する。詩の源流と言ってもいいし、ここでは詩の神様と呼ぼう。詩の神さまは詩を生成してくれるし、詩を吸収して大きくもなる。

ジャンルが何だろうが構わない、短くても長くてもいいし、個人的なことを詠もうが人類を想って詠もうが、詩の神さまはきっと許して下さるだろう。ポエムと揶揄される作品だって、詩の易行道(念仏)のひとつかもしれない。

大事なのは「これは詩か?」ではなく「これはどういう詩か?」という問いの方だろう。
「これは詩です」と詩の神様に奉じている人に向かって、「これは詩ではない」と言うのは失礼千万なのだ。
また、ある宗派で力を持つ人が、他の宗派の信徒に向かって「あなたは仏教が分かっていませんね」と言うのは言語道断である。自分ルールで人の信仰を踏み躙ってはいけない。

詩の神様に顔向けできる詩を書くこと、願わくば、愛し愛されるために、神の不文律に同調すること、詩人の魂にできるのはそれくらいだろう。

寂しいことに、詩の神様は僕には年に一度くらいしか振り向いてくれない。しかしその瞬間がたまらなく尊いものだから、詩作を続けているのだろう。

最後に、神様の名を借りて個人が他者から承認や金銭をむさぼる行為をなんと呼ぶか。カルトだ。詩も充分にカルトになり得るということは付け加えておきたい。飲み込まれぬよう、自身が首謀者にならぬよう、ゆめゆめ気をつけなければならない。

↓詩と宗教について書いた以前の記事↓


書き殴っただけの雑文で失礼しました。

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