19 ふたりだけの部屋(R18,BL)【葬舞師と星の声を聴く楽師/連載小説】
連載小説『葬舞師と星の声を聴く楽師』です。
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【ご注意】本話には性的表現が含まれます。ネット小説レーティング同盟の定義に賛同しており、本話はR18(性描写そのものに重きを置き、具体的に描写しているもの)に該当します。
19 ふたりだけの部屋
濡れ布巾で拭うごとにアシュディンの顔は男らしさを取り戻っていった。アイシャドウも暗がりでは気にならない程度に薄くなった。しかしなぜだろうか。ハーヴィドを見つめるその瞳は段々と潤みを帯びて、性別を超えて官能的な顔つきへと変わっていった。
青年は小刻みに身を震わせていた。だらしなく開かれた唇の右の際には、紅がまだ少しばかり残っている。拭き取ろうとして布で触れると、青年は眉を顰めて身をこわばらせる反応を見せた。胸に湧いてきたのは媚薬に対する憎悪だ。ハーヴィドは怒りに任せて布を投げ捨てた。アシュディンの顎を右手でしっかり把持すると、親指の腹で赤い残滓を強く擦った。しかしそれは乾いた唇にしっかりとこびりついて剥がれそうにない。
《これイヤだ、取って》潤んだ目が訴えていた。ハーヴィドは落ちた濡れ布巾を拾おうとしたが、その腕はなぜかアシュディンの手によって阻まれた。ふたたび青年の顔を見やると、瞳はやはり《取って》と哀願しているようにしか見えなかった。
どちらからともなく、顔と顔が、唇と唇が、互いを引き合った。二つのなだらかな隆起が、夜の星の速さで近づいていった
──触れ合った刹那、アシュディンは敏感に反応し、つと顔を引っ込めた。ハーヴィドは青年の後ろ首にそっと手を回して、ますますゆっくりと唇を近付けていった。
触れて、重なって、ひしゃげて、ひとつになった唇の上を、ふたりの鼻息がくすぐりながら何往復もした。長い口づけのあいだに青年の震えは収まっていった。
ハーヴィドは紅の残る場所にそっと唇を押し当てた。温かく湿らせてから、そこをぺろっと舐めると「んっ……」小さな声と吐息が漏れた。逃げようとする気配はない。二度目は拭うようにやや強く舐め上げると、アシュディンはより大きな喘ぎ声で応えた。
楽師はため息を吐きながら長い背筋を折り畳んで、青年の胸元にだらりと項垂れた。そうして「これ以上は止まらなくなるぞ」と、戒めと煽りの入り混じった問いを投げた。
アシュディンは口元をハーヴィドの頭頂に近づけ、吐息まじりに、髪から耳へ伝うような囁きで答えた。「いい、俺、お前が欲しい」
ふたりの欲望は堰を切ったように膨れ上がり、一気に弾けた。
褐色の逞しい肉体と、しなやかに形を変える白い肌が、僅かな灯りの中で蠢いた。互いにあらゆる場所を弄っては啄み、アシュディンは刺激されるたびに声と体でさまざまな反応を見せた。ハーヴィドの眼下で、胸の内側で、腕の中で、舞にも踊りにもない動きを晒け出して、無様な姿態も含めてすべて彼に捧げた。ハーヴィドは青年の昂りをそのまま自分のものとして受け取り、汗を垂らし、息遣いを荒くしていった。
やがて一糸纏わぬ姿になったふたりは、腰を密着させて本能の赴くままに揺らした。繁みを擦り合わせているうちに、互いの〈繋がりたい欲望〉がマグマのように煮えたぎっていった。その溢れ出る火熱が、アシュディンの口から言葉となって発せられた。
「……取って……そこに、香油あるから」
ハーヴィドはアシュディンに今宵もっとも熱く甘い口づけを贈りながら、手探りでその小瓶を掴んだ。髪につけるよりも多い量の香油を青年の恥部に垂らすと、すぐさま花と果実と草木の混じったきつい香りが立ち昇った。
それからハーヴィドの丹念な愛撫を経て、アシュディンは彼を受け入れ、ふたりはひとつになった。
アシュディンはこの時、香が伝統を象徴するものであることを忘れた。ハーヴィドはこの時、香に愛してやまない樹の薫りが含まれていることを忘れた。アシュディンは恋人と家族を忘れ、ハーヴィドは修練と使命を忘れた。国都で出会った人々のことなど、とうの昔に忘れていた。
身も心もふたりだけのために生きられる時間を惜しみながら、絶頂の時は近づいていた──
かりそめの小部屋が今宵ふたりだけの世界になった。
物音がしてアシュディンは目を覚ました。暗い視界の端っこで布が揺れるのが見えた。楽器を包んでいる布だ。その奥には、つい先ほどまで欲望を貪り合っていた楽師の、背中に刻み込まれた孤独があった。
「こんな時にも出て行くのかよ?」
引き止めたかったわけではない。ただアシュディンには、ハーヴィドの芸道を突き進む禁欲的な態度が全ては理解できていなかった。
「起こしてしまったか?」
楽師からは思いのほか優しい声が返ってきた。
「あのさ、俺……」
アシュディンは寝返りを打って楽師に背を向けた。どうしても伝えなくてはならないことを胸に抱えて、それをひとつひとつ途切れ途切れに言葉にしていった。
「多分、あの変な薬、切れてた。ここに帰ってきた、頃には……」
その告白をする顔はどうしても見られたくなかった。背を向け合うふたりの間にしばし透明な時間が流れた。
「そうか安心した」
短く答えたハーヴィド。その真意が分からず、アシュディンは言ったことを後悔した。
「そ、それだけかよ? 他に何か言うことないのかよ」
恥ずかしさと惨めさに顔面が紅潮した。こうなっては、彼にどんな答えを期待していたのかもよく分からなくなった。
「聞け」
ハーヴィドの小さく発した二文字は骨にまで響いてきた。
「情欲に焦がれてもいい、快楽に身を委ねることもあるだろう。しかしそれでやるべき事が消えるわけではない。俺はこの楽器を修繕し、お前は舞の新しい道を見つける。そのために俺たちはこの国にいるのだろう?」
〈浮かれるな〉とでも言いたいのか、酷い男だ。アシュディンはすっかり閉口して、拗ねた子どもみたいに布団に顔を埋めた。しかし楽師の弁には続きがあった。
「ただこんな俺でも、お前がさっき正気だったと聞いて、心底ほっとしているんだ。なぜだろうな……」
張り詰めた声が段々と柔らかくなっていく中で、アシュディンは暗澹たる心情の中に微かな温かさを見い出した。
お前の言うことは回りくどくてよく分からない。お前に分からないことが俺に分かるはずがない。それなのに、お前がほっとしたと聞いただけで、どうして俺まで安心して泣けてくるんだよ。
「星の声を聴きに行ってくる」
楽師はそう言い残して部屋を出て行った。
「…………いってらっしゃい」
舞師は生まれて初めてこれを口にした。
アシュディンは体中から溢れ出ていく感情を持て余した。愛しさ、切なさ、いや名付けようのないものばかりだ。
布団の上で身を悶えさせながら、普段ハーヴィドが枕にしている厚手の布に顔を埋めた。すると、
「──ん、なんだ、これ?」
硬い感触があった。布をめくるとそこにはひとつの木箱が置かれていた。塗装がほとんど剥げていてかなり古そうだ。もう一ヶ月も寝間を共にしてきたのに初めて見るものだった。
アシュディンは躊躇いながら手に取ると、ずっしりと重みがあった。背面に蝶番を見つけて直ちに箱の構造を悟る。開け口の留め具をカチャカチャといじってみるが、そこには鍵が掛けられていた。
何気なくひっくり返して箱の裏を見ると、片隅には短い文字列が書きつけられていた。
《……ハーヴィドへ?》
アシュディンにはそのように読めたが、文字列の頭が〈やすり〉をかけられたように消されており、正しいかどうか分からなかった。
「まあ、十年も放浪してりゃ、どこかで貰い物くらいするよな」
箱を元通りにして天井を仰いだ。またいつも通りの独りの夜だ。深夜になるとハーヴィドはどこかへ行ってしまう。楽器と共に。
〈星の声を聴きに行く〉
なんだよそれ。俺ばっかりお前のこと何も知らねえじゃん。……いや、そんなことはないか。俺だって、恋人のことも姉のことも、まだ何ひとつ話していない。
── to be continued──
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