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21. 遊女ラティセーナー【花の矢をくれたひと/連載小説】

不定期連載の『花の矢をくれたひと』
インド神話をベースにした小説です。
↓過去話の振り返りはコチラより↓

【登場人物】

アビルーパ(愛神カーマ、悪魔マーラ)
愛神カーマの生まれ変わりで、魔神シヴァを射る宿命を背負っている。司祭の子息として転生した。

ヴァサンタ
春の神ヴァサンタの化身。アビルーパには友情以上の好意を抱いている。

ダルドゥラカ
パータリプトラ出身の商人家系の子息。諜報活動員として働く肉体派の青年。

カーリダーサ
グプタ王朝の元宮廷詩人で劇作家。彼の詩文には霊力がこめられており、過去には時間戻しの事件を起こしていた。

New! ラティセーナー ???

【前話までのあらすじ】

シヴァを射るための矢を捜しているアビルーパ、ヴァサンタ、ダルドゥラカの3人は、首都パータリプトラにて2本目の矢を得た。
ある時、アビルーパが花街へ遊びに行った1日が何度も同じように繰り返された。時間ループに気付いたヴァサンタは謎の詩人・劇作家のカーリダーサと対峙する。彼の詩文には霊力があり、ループの原因となった台本シナリオを破り捨てると……

21. 遊女ラティセーナー


 アビルーパは意を決して部屋の扉に手をかけた。
「どうぞ……」室内の灯りが扉の隙間から廊下へと広がっていくその時、中から小さく声がした。落ち着いた艶のある声で、アビルーパにはなぜだか懐かしく感じられた。
 そこは小さな部屋で、入り口と対面する小窓から雨音が響いてきていた。窓下には背の低い寝床が置かれている。そこから右へと視線を移していくと……
 目に飛び込んできたのは座った遊女の横姿。赤や緑の宝玉を散りばめた金の髪飾りから、豊かな黒髪が腰まで垂れている。上衣の鮮やかな紅が部屋の白の中で際立っていた。
 顔が、ゆっくりとアビルーパの方へ向けられていった。その時、彼は悟った。彼女と出逢う前と後とで自分の人生が全く違うものになることを。体の反応がそれを告げていた。数メートルの距離が数センチに思えた。釘付けにされた瞳はもはや彼女に接しているかのよう、胸の鼓動が直に届いてしまいそうだった。アビルーパは意図せず身を強ばらせた。
 不安、緊張、さまざまな感情がぜになりながらも、心が華やいでいくのが不思議だった。その見知らぬ感情は、自分の内にありながら自分の手を引いて、どこか遠くへさらっていこうとしていた。

「さあ、こちらへ」遊女は立ち尽くすアビルーパに長椅子に座るよう促し、自らもそこに移動した。
 起居に揺れる髪、鳴る装飾品、形を変える衣、彼女を包み込むあらゆるものに目を奪われながら、アビルーパはぎこちなく歩み寄っていく。そして、ようやっと長椅子に腰を下ろした。人ひとり分ほどの間を空けて。
「ラティセーナーと申します」
 たおやかなお辞儀に伏せられた長いまつ毛、彼女の一挙手一投足がアビルーパに深い印象を与えていった。白檀の中にほのかにマンゴーの香りが立ち昇る。
「ア……アビルーパです」語尾を上ずらせながら答えると、ラティセーナーは手を口元にやって小さく笑った。
「ふふふ、こうしてここで名前を言い合うのも三度目ですね」
 アビルーパはその意味を理解できず、彼女の顔をちらりと見やった。しかし恥じらいの方が勝って、またすぐ顔を背けてしまった。ラティセーナーは卓上の水瓶を持ち上げ、甘露を酒椀へと注いだ。アビルーパは差し出された椀を受け取り、気まずさを紛らわせるため一気にあおった。

 遊女は自分の椀にも酒を注いでいった。
「ここでお会いするのは三度目と申しましたが、おそらくあなたは覚えていらっしゃらないのでしょう?」
 洒水の跳ねる音が響きわたる。
「でもね、この部屋だけじゃないのですよ。わたしはあらゆる場所であなたを待ち、あなたを見守り、あなたを見送ってきました」
 アビルーパは遊女の声を音楽のように感じていた。すでに逆上せてきており、陶酔への道を行きつ戻りつし始めていた。たった一杯の酒が原因とは考えにくかった。
「あなたがからだが失ったときは、天地をあまねく探し回ったものです……」
 ラティセーナーは旧友に思い出話をするような口ぶりで話を続けた。そして艶っぽく酒を一口呑み、遠い目をした。
「……魚の腹の中から出てきた時はさすがに驚きましたが……」くすりと笑い、また酒を一口含んで椀を下ろす。
 アビルーパはその流麗な声と美しい所作に心奪われ、彼女がなぜこんな奇怪な物語を聞かせてくるのか、そのようなことはどうでも良くなっていた。
「ところで釈迦シャーキャ族の王子は討ち取れましたか? 彼には随分とご執心のようでしたね」
 ラティセーナーはそう言うと、アビルーパの顔をひたと見据えた。その真剣な眼差しに、これまで部屋に満ちていた恍惚が鳴りを潜めた。
《今の話はなんだったのか? まったく身に覚えがないのに、不思議な、どこか懐かしい感じがした》
 アビルーパは恥じらいを抑えて、ラティセーナーの眼を見つめ返した。そして、瞳の奥に宿る光を見つけると、とつぜん頭の中でかつての自分の声が響いた。

〈私の妻は……あの花の矢を授けてくれた、麗しく優しい妻はどこへ行ったのだ? ああ、愛しい妻よ、私にまた矢をおくれ。私にもっと愛欲をおくれ、さぁ、さぁ!〉

「ずっと、あなたをお待ちしておりました、カーマさま。またお会いできて嬉し……」
「ラティ!」アビルーパはとっさに声を上げ、ラティセーナーの躰を抱きしめていた。髪の艶と香り、抱きしめた感触、それは妻のものに間違いなかった。カーマとしての記憶が蘇る。
《そうだ、俺はずっとこのひとを探していたんだ》

 しかしアビルーパは突如として我に返って身を離した。「す、すみません、不躾ぶしつけに……俺……」頬を真っ赤に染めながら俯いた。しかしラティセーナーは動じることなく彼を見つめた。
「あなたが……アビルーパとしてのあなたがお探しなのはこれでしょう?」
 そう言って立ち上がると、部屋の隅にある化粧台の影から何かを取り出してきた。布にくるまれた棒状のもの。その中身をアビルーパの目の前であらわにすると、
「……矢……花の矢だ」
 その矢には緩やかに蔓が巻かれ、矢尻のところで小さな花を咲かせていた。
「恋慕の矢といいます。これをお渡しするために、あるかたにお願いしてあなたをここに呼び寄せたのです」ラティセーナーはそう言いながら矢を再び布で包み、大事そうに抱きしめた。
「でも今はまだお渡しすることはできません。時が満ちるまでは……」
 アビルーパは呆気に取られ、身を固まらせていた。あれほど求めていた3本目の矢が目の前にあるというのに、前世の妻との再会による戸惑いの方が大きくただただ混乱していた。ラティセーナーは矢を元の場所に戻して、アビルーパの方へ向き直った。
「カーマさま、またお会いできて嬉しいです。どうかもう一度……抱きしめてくださいませんか」そう言って彼の目前まで歩み寄った。
 ふたたび香の薫りが立ち昇りアビルーパの鼻をくすぐった。頭の中が真っ白になる。
「お……俺は……」
 肩を抱こうとして持ち上げた両の手が震えている。
「……ご、ごめんなさいっ」
 アビルーパは混乱に耐えきれなくなり、つと振り返って部屋を飛び出して行った。
 残されたラティセーナーは小さくため息をついた。雨はいつの間にか上がっていた。窓から差し込む陽が白い壁に反射する部屋の中、彼女はひとりごちた。
「カーマさま、小狡いわがままをどうかお許しください。時はすでに……」


── to be continued──

補足)作中カーマが前世の記憶を取り戻すシーンの台詞は↓より。2年以上前に公開したものです(汗)

【ご注意】
本作は何らかの宗教的信条を伝えたり誘導するために書かれたものではありません。また時代背景や史実とは異なる点も多々あり、あくまでエンターテインメントの1つとしてお読み頂くようお願い申し上げます。

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