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詩集 薔薇と夜光杯




第1部

  リラの花、五月の誰彼に……


 リラの花―――五月の誰彼に似合いの
 映画のように 落日の馨りを埋め
 優しさと憧れに 心は盈ちていなかつたか
 望みと祈りのようには 恋する人であつたのか
 
 ひとりのままで生きてきたから―――
 露台にはさびしい歌を口遊む いつものように
 拒まれたままで 誰も振り返りはしなかつた
 さみしさは多分音楽のようには響かない
 
 小さくうなづいたか細い肩を抱く
 孤独な企みと 夜は深く同意する
 やはり 家族を眠るのか
 
 逃れようのない夢の棲家に
 理由もなく悲しいとき―――そんなおまへの
 笑顔でさへ 魂は空しく眠るとき……



 
   

  夏の終りに 


 なぜだろう 何か失ってしまったのに
 少しも悲しくない 八月、夏の終り
 雷鳴のような光と響き うつろなこころを散乱する
 ぼくたちは どうして 悲しみや怒りを忘れたのか
 むかし まだ知らないところがたくさんあって
 まだ 夢という言葉に不思議な力がこめられていた頃
 ぼくたちは 不自由の意味と自由の意志を信じていたのか
 未踏の地は永遠に後退し
 干上がった海を渡る葬いの列が続き
 炎天に そのひとの屍は腐臭を吐き
 狂ったステップの舞踏の夜は更け
 青い月と形のよい星座の軌道を計測する ささやかな反抗と
 ぼくたちの宇宙のために そのひとは祈りの時間を確定した
 そして 磔刑の夜 ぼくたちの宇宙は終りへと反転した
 なぜだろう 何もかも失ってしまったのに
 少しも悲しくない 八月、夏の終り なしくずしの死
 失速する意味の加速
 ぼくたちは何も語ることがないのだから 黙ってそれを見ているのだ
 そして 霧や砂塵が視力をさへ無効にするのなら
 そのとき ぼくたちは静かに退場して 冬の装備を整えるのだ
 叛乱、終りのときを確かめる
 騒乱、朝焼けの美しさに眠り続けよう
 なぜだろう 何か失ってしまったのに
 少しも悲しくない 八月、夏の終り
 
 
 
 
 
 
 
   

  ないたままの おまへを……


 ないたままの おまへを
 秋の夕暮れ 落日が急がす
 生きていたのか ふたり 同じときに同じところに
 少し 不思議で 雨に打たれていたから
 
 大きな飾り窓からきらきと凍った光の渦が降り注ぐ
 it might be pouring rain
 ないたままの おまへを抱きしめた
 おまへの匂ひが わたしの体を少ししめらせて(おまへはわたしを深い海そこに沈めた)
 ―――午前三時 ひとは いつまで眠っているのか
 
 それが正しいのなら
 少しだけ悲しいから 少しだけ不幸だ
 そして もう少し不幸になれば 悲しみなどいらなくなるから
 ひとは 結局 それに気付かずに横切っていく
 それは もう 仕方のないこと さ と
 生きるために ひとは卑しいままで死んでいくのだから
 愛など 口にするな(そう言って)
 これ以上 惨めになっても 誰も なみだなどながすはずもない(から)
 
 悲しい(か)
 それとも
 元気ですか―――
 そして わたしのために 優しくして
 
 おまへ 笑ってくれ そして ないたままの
 おまへ もう そんな おまへ 見たくない
 ないたままの おまへ つよく抱きしめて
 かなし かなし と 口にするな
 
 ひとは 結局 それを 求めている
 多分 ひとは それを 求めている
 多分 それを 手にすることはない からだ
 永遠 という時差のせいで
 
 
 
 
 
 
 
   

  サフラン色に染まりながら


 あいまいな季節に わたしは彼女のことを思いながら……
 
 午睡(きっと わたしは愛よりも眠りの力に屈しただけなのだ)
  そのとき
   午後は美しかった夢の続き
    なぜ ひとは過ぎ去ったものだけを
   純粋な光りと響きに閉じこめることができるのか
  不用意な問いかけが
 懐かしい眠りの訪れを 妨げる
 (人生の親戚には ほど遠い気がする)
 
 ―――そう言えば 彼女はサフランの黄色が好きと言って
 少し疲れたように首をかしげると 目を細めて
 にっこりと 頬笑んだ ような気がする(いつも 夢の中では
 彼女は 女優のような横顔をして見せるのだ いつも)
 
 わたしは 薔薇のかすかな馨りが ずっと好きだった
 白いバラの 香りが―――
    あの男・誰か 愛しすぎたから・報いなのだ
    海が近い なぜか 潮の匂いが空気を濃くしている
    やがて 亜鉛の雲が 落葉樹の林を覆いつくす
    夕暮れの光度なのだ
 (そこには もう失われた言葉でしか 語ることができない)
 (あからさまな 退却の予感がする)
    海の体臭≒引き潮が呼んでいる
    (どこだろう)
 小刻みに震えていた おまえの肩を抱いて
 (おれは少しも幸せなんかぢゃなかった)
 それが 罪だとしたら
 午後の憂鬱は 季節のあいまいな否認のせいだ
 
 落日を孕む 勇気のあかし(僕は きっと 帰りつくだろう)
 なぜ ひとは 落ちる太陽に涙するのか
    むかし ひとが海にいた頃
    落ちる太陽を追いかけて どこまでも泳いだね・ふたり
    汗でひかる体を 「太陽が流した涙」と言ったのは
    たぶん 君だ
 
 あれから 多くの悲しみがあり(悲しみの世紀を 落葉が埋める)
 そこには 誰もいない(とどまることは 傷つくこと)
 夢のように美しかった 夢の名残りを残したまま
  雨はやまない
 わたしは彼女のことを想いながら……
 (きっと わたしは愛より記憶の力を愛しただけなのだ)
 
 午後は 言葉が散っている
  不思議に静かだった
 秋の終りの午後だった いつか
  サフラン色に染まりながら
 わたしは眠り続ける
 
 
 
 
 
 
 
   

  美しいひとよ わたしのためにほほゑんでいる


 美しいひとよ わたしのためにほほゑんでいる
 ひとみはみどり おさなごのあかし唇のやはらかさ
 くちづけはこころをとかし ひとつのひかりほの見える
 ふたり抱きあつている 夕闇のやさしいひびき確かめている
 
 遠くこだまする 冬のいなづま 声は聞こえずに
 黙つて見つめあえば いのちのこどう胸にせまり
 なぜかもどかしく ぬくもりを分けている
 からだとからだ こころとこころ へだてなく
 ひとつのひびき どこかしら聞こえくる
 
 天の星 ひそかにきらめいてわたしの目を見た きらきらと
 あなたの吐息が甘いしらべ 切なくする きるきると
 天の月 おぼろげに眠るふたりのけもの照らしだす
 
 美しいひとよ わたしの胸にいだかれ
 遠い海流の記憶を夢見て眠る 冷たい北風の街を吹き抜け
 さまよう冬の旅人よ 永久凍土それらの分身
 足早な季節の凋落を追う 流氷の群れ
 夏の渚には もうひとりの恋人が眠る
 確かめている 愛するちから少しの誓いも
 ゆるがせにせず 愛しつづけると
 
 吹き荒ぶ木々の輪舞(ロンド)
 悲しみの器少しも似合わない 赤方偏移落日の化身
 そして祈る ひとときの静謐にみたされた夕べ
 あなたのやすらけた寝顔を見つめていた
 わけもなく悲しい
 
 流れる雲の群盗 ずつと待ちつづけわたしにつづけ
 愛するあした 奪われたひかりとひびき
 わたしはそれらすべてのみなしごを生還する
 あなたのために ふたたび生きて
 ふたたび還える あなたとともに
 
 美しいひとよ わたしのためにほほゑんでいる
 あなたのためにほほゑんでいる
 
 
 
 
 
 
 
 
   

  星の冷たい夜は


 もう海の音を聞かない
 砂のざわめきも波のいらだちも 風のさやめきも
 すべては失われている しずかな夕闇の流れるとき ひとはひとりくちずさむ
 星の冷たい夜は心がふしぎと澄んでいく 凍えたままで受けいれたから
 なにも拒みはしないのだ
 (わたしは悲しまないことにしよう)
 (すでに十分にわたしは悲しみ苦しんだ)
 ひとりの信仰を持たざる者の…
 誰か 愛してはいないのか
 見捨てられた地球に ひとりさみしくくちすさむ
 星の冷たい夜は…
 
 もう空の音を聞かない
 雲のささやきも星のいのりも 月のさざめきも
 すべては失われている しずかな夕凪の漂ようとき ひとはひとりくちずむ
 渚にはほのかに光る星の群れ 青い鱗翅(りんし)をふるわせて
 ふしぎな螺旋(らせん)をかたどりながら 遠い雷鳴に消えた
 なにも求めはしないのだ
 (わたしは怒りはしないだろう)
 (あまりに多くをわたしは見て触れた)
 ひとりの美しい信仰者の…
 誰も 愛してはいない
 見捨てられた地球に ひとりさみしくくちすさむ
 星の冷たい夜は…
 
  海に眠る鸚鵡貝
  空に煙る覇王樹
 
 ただ待つこと 何年か何十年か何百年か何千年か何万年か何日か何月か
 わたしにはもうなすべきことはない
 あらかじめうしなわれたもののつぐないのほかにはすこしののぞみもなく
 孤独なままで生きて死ぬ そのことのつとめをはたすのだ
 いつかそのことにかなうときわたしはやつとたどりつくことができたとうべなうことができようか
 
  すっかり準備はできている
  写真は数葉を残して焼いた
 
 星の冷たい夜は
 ひとりさみしく眠るだけ
 少し悲しいいびきして
 
 
 
 
 
 
 
   

  あじさい の あめ ふる あさに


 どこか ただよっている あいつの かんがえそうな
 くせに うつくしい よる そして うつくしいあさ
 このまま ねむっていれば いい の
 だから このまま しずかに はつなつの
 ほし ふる ひかり きららに かがやき
 あまい くうき ふるわせる なぎさのちかく
 とおく おきゆくふねは うつくしい うみのみなしご
 しおさいの とてもにあうね きみの ひとみ
 みて あいして きつと
 かなしみ いろにすると すきとおった あお
 うみと そらの ながした あせ
 わたし いつだって わたしのままで
 くもったそら と にごったうみ の
 ような いろして どうか すくいの
 ような きがして うつくしい いのりのこゑが
 ただよっている―――そして ながした なみだの
 ひとしずく さへ だれも きづきはしなかった
 それ で いい ひとは だれも それ を
 はくちょうの まう
 この かなしみ の うみ に
 すてた から それ で いい
 それ で いい そら は そんなに も あおく
 あじさい の あめ ふる あさ に
 ひとは かなしみ を すてた から
 くさの けもの ねむる あさ
 すこし おおきな いびき して
 
 
 
 
 
 
 
 
   

  草獣たちの眠り


 夏の海が 静かに眠る
 午前五時の夜明け 銀の波と金色に輝く
 太陽の割れた声が 落雷のようにとどろきましたが
 あいつもきつとさびしがりやの あさねぼう
 なにも しらずに いちずにねむつております と
 ゆつくりと薄らいでいく 星たちの退潮=ひきしおともいいます
 あれは あけのみょうじょうです 西の空にひかつている
 シリウス いい響きでしょう
 でも ほんとは僕たちのような祈りは あまり 期待しないで下さい―――
 しずかにふる ふりしきる なつのいのりのような こぬかあめ
 夏のれいめいをぬらしています
 僕は どうしょうもなく 悲しみにしずんでいて
 銀のなみだ 金のなみだ
 そぼふる雨は うつくしいげんそうのまちにつれていく
 その海は よろこびもいかりもかなしみもなげきもくるしみもなにもしらずに
 いちずにねむっております すると そこ かしこには
 夕暮の雑踏や高原の青天や家族の夕餉や場末の裏通り
 そして 早朝の配達夫と白い息の冬の舗道と初夏の青い野草地へとめぐつていくのです
 
 すこし あおみがさしてきましたよ そら そらのいろ
 あめもやんでいました しずかにやんでしまいましたから
 これからは ずつと夏の続きを
 僕たちは 生きて
 静かに 生きて
 夏の海が しずかに眠る
 午前五時の夜明けまで
 しずかに いきて
 
 
 
 
 
 
 
   

  悲しき玩具性


 飾りでならいつも盈ちてゐる
 海のやうに そして閉ぢた瞼を
 夏のをはりに重ねてみる
 白く砕け散る 砂のためには涙するな
 と つぶやいて
 ひとりのままで崩れる 友はゐない(いつか思ひ出にするためになら)
 明るい夜であつたと振り返るな
 気配のままで終わる季節をつづるのはなぜであつたか
 その悲しみのやうには 海は深くはなかつた
 海は玩具でさへないから
 ひとりの女とひとりの男のためには
 季節は賑いを戻さない
 静かに眠るがいいあし げ
 人はもう死の音を足下にして
 極北に沈む落日を伝承に変えた
 あれはいつか見た夢の繰り返しで
 そして と つぶやいて
 
 誰もいない
 分かつてゐただけなのだから
 (あれは救い主のやうに大きな口をたたいてゐたよ)
 人が求めるものはそんなもの?
 
 
 
 
 
 
 
   

  飾りのない心と……


 飾りのない心と
   祈りを忘れた午餐のあと
   ものかなしさに黙りこんだ
   おまへの脣を
     少しぬらしただけ
 
 ゆつくりと傾きをひびかせて
 海は夕凪に沈んでいく
   何ひとつ残さずに
   一雫、泪と渇き
   おまへの髪の匂ひだつた
 
 遠くおしよせる夜の悼みに
   ふるへるやうにおまへを抱いた
   泪のやうに苦い味がした
  海はいくつもの夜を重ね
  いくつもの魂を鎮めた
   老いた怒りと
   錆びた夢
    やがて
     不在を告げる
    遠雷の訪れ
   病んだやうに
   ただ待ち続けた
 
 どこにもない
   聴(ゆる)しのやうに深く傷ついたまま
   おまへの魂を試みた
   罪のやうに身を屈ませて
 
 夏のをはり
 誰も訪れはしない
 海の眠りを脅かす 波の諍ひ
   誰のためにも祈ることはない
   泪のやうには美しくはなかつた
 
 どこへいつてしまつたのだらう
 ふと口遊めば、誰も答へはしなかつた
   夏のをはりのはぢまり
   海は夕凪に沈んでいく
     何ひとつ残さずに
 
 
 
 
 
 
 
 
   

  届かない手紙 その四


 やさしいひとよ 遠くから泣いている十一月の使者たちに
 無事 手紙は届けたから もう泣かないで 十一月の星は
 一年で一番きれいな光をしているから あのひとのことは
 もう忘れてしまへ やさしいひとよ
 
 ずっと待っていました 待つことは苦しむことではなく
 何かをなくしてしまうために 必要な時間だから
 なぜか 悲しみに心が裂けていく ちりぢりに
 手紙を破り そのことが すべてを破り
 
 やさしいひとよ ふたたび便りを託すがいい
 秋の終りのもえぎのように 使者たちは去った
  北風の野原をひとり
  落葉を踏んでいる 白い従者に囲まれて
 長い冬のはじまりの朝だから
 青い光の氾濫が しるしなのだ愛の たぶんほんとうの
 
 ことは誰も知らずにいる でもそれは
 疑うことに傷ついた 獣のような目をしてぢっと見ている
 やさしいひとよ そのことは遠くから泣いている十一月の使者たちに
 伝えてはならない ほんとうの愛はいつもはじまりのなか
 
 (朝焼けのなかの十一月の使者を真赤に染めた)
 (僕は今日あのひとに手紙を書いた)
 (返事は多分来ないだろう)
 
 
 
 
 
 
 
 
   

  無声哭別


 海の踊り子と聞いたのは わたしの幻聴だ
    ゆつくりと歩こう この道は遠いように思える
 生みの落とし児 それはわたしたちのこわばつた体表を
    なぜなら愛にかなわぬものをつねに襲うあの……
 魚の鱗にしてしまう 腐りはぢめた内臓のせいだ
 白く濁つた目玉を剥いて ずつと睨んでいる
    深い海の底だ(波はしだいに鎮まらう)
 
 それは わたしの幻想視界だ あのマーラーの第三楽章を
 こよなく愛し憎んだ 男と女、女と男
    ひどい息をしている(嵐の気配?)
 それらの悲哀と苦悩を
  ひとつのからだで 愛することはできない
  ひとつのこころで 憎むようには だから
 からだが わたしたちをなしくずしにして
 
 それは わたしの幻想触媒だ
 銀の雫に濡れている ミトコンドリア・ペキネシス
    ひかる夜の海 百万の夜光虫が群れている
    沖合を黄金率に潤ませて 夜はなだらかな下降を繰り返す
    乳色の靄に包まれ 岬は闇の青さに震えている
 
 しょうがざけ 今夜は眠れないから ずつと睨んでいる
 気のせいさ 今朝はベットが石のように冷たかつた
    批評の朝だから
    眠るまえにいつも祈るのさ
    愛したひとのことなら 老いた聖樹の繰り言めいて
    しんどい 孕ませた落日のせいだ
 第四楽章は、爆発する大地の饗宴……で終つた
 
  乾杯!そして踊ろう!
 夜明け前の氷河期たちよ 不特定代名詞の序言で口を濁す
  祈つていたのだ
   うすよごれた心の人間だけにはなるまい と
    たとえ どんなに惨めになろうと
     きたないことだけは決してすまい と
    ずつとけなげできよらでいたかつた
   わたしの幻滅だ
  ずつと点滅している
 夜行列車の銀河行きだ
  帰りは 時刻表からは消えている
 あのひとはとうに逝つてしまつた
 (とし子は海だ)
 
 海の落とし子と聞いたのは わたしの幻想聴問
 (サクラソウハモウ散リマシタカ)
 ゆるしのように どこか囁く聲がして
 ふりあおぐと それは
  わたしのからだを優しくつつみ
   わたしのこころを静かにだいて
   (だがわたしは憎みはしなかつた)
   かすかな息遣ひをしながら
  ぬくもりがこころとからだひとつにとかし
 ひとひら 雪のかたまりを口にすると もう眠りつかれたように
 じつと目を見開いたまま わたしのことをまるで知らない
 (星の生まれ変りさ)
 それは もう うしなわれたのだから 知らないままでいる
 (秋、らくようの野をゆく
  おまへの花が黄色く咲いていた)
 
 ほのかなひかりさして ひかる夜の海
 とし子は眠り 百万の虫は舞う
 
 
 
 
 
 
 
   

  あのひとからの手紙


 あのひとからの手紙 秋の木の葉のように淡いグレイの空の色
 ひとひら天から舞い落ちて わたしの心に風景を刻む 化石の街
 
 落葉の林には白樺や岳樺 凍てた時刻の秒針を林立させて
 拒まれている 誰も内なる恐懼に打ち拉がれて泣いている
 時雨降り頻る失楽のとき 落日はすべて夜景を見ない
 もう愛してはいない 誰も(簡潔に述べよ 人類の滅亡五百字以内で)
 
 黎明 わたしはそれを眠らせることができないのだ
 深夜の電話 愛しているあかしのつもり
 何年振りかで見た夢の続きは もう忘れ去られて廃港に眠る
 愛という名の代名詞に疲れただけかも知れない 遠い記憶の航海術
 ゆうべおまへの悲しみの灰の空降りしきるめまひの星ひかりのみなしごたち夜
 おれはひとりここにとどまる 冷たい心ならいくらでもご用意できますが……
 
 遠ざかる記憶といういつはりの約束 誰も信じてはいない
 あのときあなたのいつはりのないからだを抱いてあなたのすべてをこの目にした
 海の匂いだ
 不思議な言葉 愛しています愛しています
 美しい黒髪のおんな こんなにも愛している
 どうすればいい これは愛の痛みかそれとも償いか
 
 あのひとからの手紙 冬の木の葉のように淡いグレイの海の色
 ひとひら天に舞い落ちて わたしの心に風景を刻む 秘蹟の街
 
  いつはりの幸ひを求めることなかれ
  さらばけして失はれることなからん
 
 
 
 
 
 
 
 
   

  祈りのステップ


 くたばれ こいつ いかしたstepひとつ知らない
 なんて どうかしてる 冬のまえに冬の芝草は冷たく叫び
 わたしのいもうとは やがて身ふたつの母となり 大地は赤くもえ
 黒々と深いめをして見ている ふたつ大きないきをして
 とほくで雷鳴がひかり 不思議の天平線を屈服させると
 祈りの聖なる調べはながれ その響きは藍に溶け海に沈む貝となり
 はらはらと散乱する生みのあかときのその青い氷河性の花をもとめている
 脣はかすかにうべなひのしるしを そのあかあかと頬をそめた夜には眠るな
 ひとりのおんなの苦しみのようなあたたかさに 洗われた夜
 蒼い月のひかりが痛みのありかを照らし こいつ どうかしてる
 いかれたステップで 大陸の高原をはしる 大いなる武勇と透きとおった積雲のかなしみ
 くたばれ こいつ わたしのいもうとはもう雨も雪も泪まぢりの
 夜の街で 身ひとつでけなげに生きて こいつ どうかしてる
 それから この地上では誰もいちずにひとを思うことはしなくなった
 ぼくの青春はどこにも見当らないでいる それからは
 冬のまえに冬の芝草は耳をとぎすまし わたしのいもうとは
 もううつくしいかけひきを忘れ 夏の気象のきぜわしさとふたりいぶかり
 ふかぶかと あがないあをくとぢた駅舎の窓をうるはしく飾る
 はらはらと おちる天界の便りを しろい風にうづめて
 
 
 
 
 
 
 
 
   

  夢の岩礁から……


 夜が産卵する わたしの部屋に
 海の匂いが近くなる
 いくつもの落雷のあとで
 
  わたしは眠っていた それが夜だから
  わたしは舟だ 舟はいくつもの悔恨を乗せて漂う
  しがない海に 沈む太陽を追っている
 
 夢の岩礁から訪ね来る そのひとの名は知らない
 深い海は眠りつづける
 (舟の出自だ 囚人のように)
 習性はいつも少しだけ手遅れだ
 (国営郵便配達夫の呪いだ)
 港湾軽便遊覧船 おまへのせいだ
 
  その女を愛したから
  わたしを憎むことができないのだ
 
 冬の海は 美しい反駁を待ちわびる
 大陸の便りは 酸化水素の結晶体
 鋼の空を埋めつくし
 白亜期の悲しみを 舞いつづける
 
  愛した記憶はなかった
  おまへのはちう類をゆるせなかったから
 
 入り江には 数百のゆりかもめ
 わたしの改悛を鳴いている
 軽窒素の大気が曇り 西の空はおれんじを潰したようだ
 鈍い落日の光が さびしく波頭を叩いている
 
  重い足取りで 浜を歩く
  岬には 星が降る
 
 夜が産卵する わたしの部屋に
 (成層圏は 人工衛星の花火だ)
 きのう 難民が百万人生まれた
 (ぼくたちの聖地は 深い海の底だ)
 
 
 
 
 
 
 
   

  夜が散乱した、そのあとに


 夜が散乱した そのあとに
 ふたり あなたは悲しい目をして
 わたしを見た
 
  ひとり 暗い森を歩いた
 
 試みのように もだし目を閉ぢよ
 深き森より来たるもの
 
 冬 死のかたちにわたしを凍る
 夜のとばりをとぢぬまに
 飛ばない鳥の うち砕かれた翼に似せて
 白く息を吐く ときのおごそかし
 
 朝、冬のはじまりのなかで 萌黄色に染まる太陽を見た
 遠い追走を追う 懐かしきともがらよ
 裏切られた者たちの月と名付けて ふたたび眠る時代の尾底
 
 嵐の前に 老いた糸杉の群れを狩る 杣人の角笛が
 悲鳴のように途切れている 静かに耳をといでいる
 
    あれは祈りの断章
     愛してしまったのだ 憎しみでだけ
    風が裂いている 大地の傷を
     白い花弁の赤い薔薇
 
 かすかな記憶の痛点のあと
 いつまでも降り続く 雨のやまない
 星の匂ひで 夜が膨らんでいる
 うすい被膜のような 空の体液がまだ青かった
 
  ひとり 暗い森を歩いた
 
 なぜだ わたしを残して去った
 緑の森へと わたしを転落する
 光る男と女のせいで
 炎にはなれない 冷たい光の階段を昇る
 
 だから わたしを怨嗟するのか ひとり
 あいまいな呼吸をくりかえすれいようるい
 もうひとつ 氷河期を眠り
 海ゆりのつぶやく ながい伝承を聴く
 
 ふたり はちう類になつて
 からだを確かめる
 おまへの匂ひだ わたしの悲しみではかる
 みぞのあと そのあぎと
 抱いてつぶして
 ひとつにならぬ
 
 あれから多くを見 見すぎてしまいました
 けだものたちの樹になって
 醜いままで からだを絡め
 一万年もいきどおり忘れた
 
  ひとり 暗い森を歩いた
 
 もう立ち止まれ
 そして 涕け
 冬の曠野(あらの)はとうに死んでいる
 
 
 
 
 
 
 
   

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