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詩集 薔薇と夜光杯




第1部

  リラの花、五月の誰彼に……


 リラの花―――五月の誰彼に似合いの
 映画のように 落日の馨りを埋め
 優しさと憧れに 心は盈ちていなかつたか
 望みと祈りのようには 恋する人であつたのか
 
 ひとりのままで生きてきたから―――
 露台にはさびしい歌を口遊む いつものように
 拒まれたままで 誰も振り返りはしなかつた
 さみしさは多分音楽のようには響かない
 
 小さくうなづいたか細い肩を抱く
 孤独な企みと 夜は深く同意する
 やはり 家族を眠るのか
 
 逃れようのない夢の棲家に
 理由もなく悲しいとき―――そんなおまへの
 笑顔でさへ 魂は空しく眠るとき……



 
   

  夏の終りに 


 なぜだろう 何か失ってしまったのに
 少しも悲しくない 八月、夏の終り
 雷鳴のような光と響き うつろなこころを散乱する
 ぼくたちは どうして 悲しみや怒りを忘れたのか
 むかし まだ知らないところがたくさんあって
 まだ 夢という言葉に不思議な力がこめられていた頃
 ぼくたちは 不自由の意味と自由の意志を信じていたのか
 未踏の地は永遠に後退し
 干上がった海を渡る葬いの列が続き
 炎天に そのひとの屍は腐臭を吐き
 狂ったステップの舞踏の夜は更け
 青い月と形のよい星座の軌道を計測する ささやかな反抗と
 ぼくたちの宇宙のために そのひとは祈りの時間を確定した
 そして 磔刑の夜 ぼくたちの宇宙は終りへと反転した
 なぜだろう 何もかも失ってしまったのに
 少しも悲しくない 八月、夏の終り なしくずしの死
 失速する意味の加速
 ぼくたちは何も語ることがないのだから 黙ってそれを見ているのだ
 そして 霧や砂塵が視力をさへ無効にするのなら
 そのとき ぼくたちは静かに退場して 冬の装備を整えるのだ
 叛乱、終りのときを確かめる
 騒乱、朝焼けの美しさに眠り続けよう
 なぜだろう 何か失ってしまったのに
 少しも悲しくない 八月、夏の終り
 
 
 
 
 
 
 
   

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