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他人に寄り添う

※2018年の記事です

私は、自分の周りに当たり前にあって、でも全然それについて知らないことを学ぶ瞬間に「もっと知りたい」と思うのですが、これはどの学問でも共通して言えることだと思います。例えば生物学専攻の友達は以前、自分の体がどのように機能しているのか、自分の体の中で何が起きているのかを知ることが、すごく楽しいと言ってました。
私が社会学を学んでいて一番楽しいと思う瞬間は、世の中に当たり前にいる人たち、でも全く関わったことのない人たちのことを学ぶ瞬間です。
今日はこれについて、最近社会学の授業で学んだこと、そこで私が思ったことをお話しします。

 ホームレスについて憶測で話すとき

日本にもカナダにも、ありとあらゆる国にホームレスはいますが、皆さんは彼らがどうしてホームレスになってしまったのか、ご存知でしょうか?

多くの人は口を揃えてこんなことを言うのではないでしょうか。
「仕事も勉強もしないで、怠惰だから。だらしないから。」
実際にアメリカで一般人が行った実験では、「お金をください」と道ゆく人に声をかけるホームレスの男性に向かって、人々がこのような罵声を浴びせる光景も多く見られます。しかしこのような人たちは、一体どれだけ、ホームレスの方のバックグラウンドを知っているのでしょうか。

実際に彼らに話しかけて、なぜホームレスになってしまったのかなんて、わざわざ聞く人はなかなかいないはずです。 

しかし私たちは、「(きっと)怠惰だからホームレスになったんだろう」と、憶測だけで話をして、彼ら1人1人に寄り添うことはしません。

そこで、登場するのが社会学です。ここからは、私がクラスで学んだことを元に、私が思うことをお話しします。

社会復帰を許さない社会構造

ホームレスにもそれぞれ異なるバックグラウンドがあって一概には言えないのですが少なくとも彼らの中には「社会復帰したくても社会構造がそうさせてくれない」という壁に立ちはだかっている人たちがいます。これはホームレスの方だけに該当するわけではなく、 経済的地位が低い家庭や、カナダでは原住民の人々が、ある一定以上のお給料を稼げない理由でもあります。

悪循環

現在の社会では、ちゃんとしたお給料がもらえるお仕事に就くためには、大学を卒業しているということが要になります。実際に統計によって、ミレニアル世代(1980年代から1995年までに生まれた人)は、彼らの親よりも稼ぎが少なくなると言われています。そして彼らの中で、唯一これに当てはまらないグループが、大学を卒業した人達と言われています。
つまり、大学を卒業しなければ、良いお給料の仕事に就くことすら難しいのです。そしてその大学に通うためには、多額の学費を払わなければいけません。そして、この学費を賄えない人たちは「大学に行かない」または「大学を中退する」という選択をします。すると彼らは「大学卒業」の経歴がないため、良いお給料の仕事に就けません。そして彼らの子供は、同じように大学に通う学費が賄えないため、同じように良いお給料がもらえるお仕事に就くことができない。。

つまり、社会の構造そのものが、彼らが社会復帰する機会、またはより良いお給料を貰えるポジションに就く機会が与えられないように出来てしまっているのです。

社会に内在するこの悪循環の存在を知った今、「彼らがホームレスや、経済的に不利な状況に置かれているのは、本人のせいだ」とまだ言えるでしょうか。

これは、根本から直そうとすると、経済や政治も関与してくる為、一個人が努力でどうこうできるレベルの問題では到底ありません。多くの社会学者、政治学者、経済学者が考え続けても、全てをうまく解決する方法が今だに無い程、社会の色々な側面が複雑に絡み合っている問題なのです。なので私は「大学で勉強する社会学は、こういった問題を解決する学問です」とは言えません。

社会学

そうではなくて社会学とは、 社会の構造を知り、その構造のせいで不利な立場に立たされた人たちのことを考えて、 全ての人間に値する生活や人権を得られるようになる方法を考える学問です。(今回の話に特化した、部分的な定義です)

 これを読んでくれている方の多くはおそらく、家があり、大学に行くことが出来た、または出来る人だと思います。そんな私たちは、それがいかに恵まれていることかを知る必要があります。なぜなら、恵まれているが故、社会の見えなくなってしまっている部分、「自分達には関係ない」と思うことが沢山あるからです。しかしこれでは、格差は広がり続け、世界は不平等になっていくばかりです。

それを少しでも防ぐ為に、私たちは何が出来るのでしょうか?社会学1.5年目の私にとって、この分野はまだ分からないことだらけですが、今の私の答えを出しました。

他人に寄り添う

他人に「ホームレス」「経済的に不利な地位」「シングルマザー」「外国人」とラベルを貼ることは、とても簡単です。逆に彼ら、特に赤の他人を、一個人として、ラベル無しで見ようとすることは、難しいかもしれません。しかし、誰かをその人のアイデンティティでラベル化して見ることは、同時に彼らを個人として見る行為を簡単に諦めるということです。これでは、相手に対する思いやりや配慮は出来ません。

相手がどんな人であれ、思いやりを持つ為には、彼らの顔を見て、言葉を聞いて、一人の人として接することが大切なのではないでしょうか。

人にはそれぞれ、どのようにそこにたどり着いたかという経緯があって、それは、私たちの想像の範疇には到底及ばないものです。そしてそれを自分の憶測で解釈して片付けてしまっては、私たちは永遠に、自分の想像の範囲外のことを知ることが出来ません。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。みなさんが少しでも「他人に寄り添う」ことについて考えてくれたら嬉しいです。まだまだ私も修行中なので、一緒に考えていけたらと思います。

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