【小説】雪世
川端康成に敬意を込めて
人が寒さを忘れた時とは、どんな時であろうか。
無慈悲な白い塊達が、私を襲っている。
視界は悪く、一面灰色で覆われ、人が居て良い場所とは到底思えなかった。
色は失われ、水墨画のようにさえ思える。空を彩るは夜闇の黒、視界を妨げる吹雪の灰色、そして地面を覆うは雪の白。他には何もない。色がない世界というのは、このような光景を言うのだろう。
何故私は、こんなところへ来てしまったのか。
答えは私にも分からなかった。
しかし、考えられることは一つだけある。いつものように酒に飲み溺れ、熱を持った身体を冷ますため、外へと出て行った。そのうちに知らないこんな場所まで来てしまった。そのほかに、こんな場所まで来てしまう理由はなかった。
瞬きをする。瞼が重く、ゆったりと視界が灰色から黒へ、そして再び灰色へと戻っていく。景色は変わらない。吹雪は強く、いつまでも私を襲い続けている。これは夢ではないのだと、少しの絶望を味わう。
身体には最早熱はなく、冷たささえも遠くにあるように思えた。
雪を浴びすぎたのだ。どれだけ浴び続けていれば、人は冷たさを忘れるのだろうか。恐らく数分ではない。数時間、それ程私は雪を浴び続け、そして彷徨い続けている。
どうしたものかと、私は頭を悩ます。
しかし頭さえも、うまく働いてはくれない。視界と同様に、頭の中にも何かを妨げる灰色の空があった。
それでも、このままここに居続けたとて、状況が好転することはないだろう。先程に比べ、吹雪は次第に弱まってはいるが、良くなっている訳ではない。未だに視界は悪く、灰色のままだ。
辺りは雪ばかりで、何か目指せるものもない。
しかし私は、足を前へと進めることにした。少し足を埋める程に積もった雪を払い除けながら、目的もなく前へと進む。ざくっざくっと、雪を踏み潰していく。
私は何処へ向かえば良いのだろう。
しかし、何処へ向かえば家に辿り着けるのか、私には皆目見当もつかなかった。
されども歩く。歩くしかなかった。
「もし、こんなところでどうされましたか。」
その時だった。何もないと思われていた雪の中から、吹雪の中でも良く通る女の声が聞こえてきた。私は足を止めて、辺りを見廻す。しかし聞こえたと思われた女の姿は愚か、影も形もなく、灰色の視界の中から、いつまでも浮かび上がっては来なかった。
幻聴だろうか。最早そこまで来てしまったのかと、恐れを抱いた時であった。
「こちらですよ。後ろですわ。」
またもや女の声が聞こえた。それは氷のように透き通る声だった。私は幻聴に従い振り向くと、最初に目に入ったのは、白だった。白い女が、私を見ていた。
女は灰色の背景に浮かび上がる雪のように、白かった。雪の結晶が一つ一つ組合わさって形作られたような肌は、白く輝いている。着ている着物までも白く、肌の一部のようにさえ思えた。まるでこの世の白を全て集めて造られたような。今も尚降り続ける雪も、女の一部になるためか、吸い込まれるように当たっては消えている。
「迷われましたか。」
白い女が、私に近づきながら話しかけてきた。私は女の異様さから、頷きだけを返すのが精一杯であった。
私は女から眼が離せないまま、良くある話を思い出す。雪の世界を彷徨う中で、出会う女の話。
それは、雪女という。
それは白く冷たく、雪のような純白な美しさでもって人を惑わし、命を吸い取ってしまう。妖という、存在。
だから誘われようとも、決してついて行ってはいけない。
「おそらくまだ当分止みそうにありませんよ。あそこが私の家ですの。視界が晴れるまで、寄って行いきませんか。」
女が明かりの方を指さす。いつの間に明かりがついたのだろう。そこには今まで気づかなかった山小屋があり、温かな光が灯っていた。
あぁ、なんて温かそうな光だろう。
寒さを忘れても、人というのは光ある温もりを求めるものなのだろう。煌々と輝く黄色い光に、私は眼が離せなくなった。
瞬きをする。視界が闇から光へと変わる。止まっていることなど、到底出来なかった。気づけば私の足は勝手に動いており、光に集う虫のように、そちらへと引き寄せられていた。女は了承したように前を歩き、私はそれに引きづられたように歩いていく。
雪を踏む音は、もう感じなかった。不安も不審も、もう感じはしなかった。
小屋に近づくにつれ、光は膨張し私を迎え入れるようにゆらゆらと揺らめいている。手招きする女の手のように、私を誘う。
導かれるように中へ入ると、途端に光が私を包み込んできた。求めていたものが、漸く手に入った心地がした。
「どうぞ、奥へ。」
光と同じように、女が私を迎え入れる。
私にはもう、この温かそうな光を断る理由など思いつかなかった。有難く奥へと踏み入っていく。
小屋の中は案外に広く、中央には囲炉裏があり、そこから温かさを生み出す炎が燃えている。
私は決まり事のように囲炉裏の前に腰を下ろし、火を見つめる。漸く安心感が、私の中から湧き上がってきた。
しかし、この安心感とは何だろうか。
火花が散る。私の眼を覚ますような、強烈な光だった。そこで初めて、光以外のものに眼を向ける。周囲を確認していると、前に座っていた白い女と眼が合った。顔には、きれいな笑みが浮んでいた。何処か憂いのような、儚さのある笑みだった。
なんときれいな人なのだろうかと、私は思った。光で輪郭が明細になったことで、余計に女の美しさが際立っていた。先程まで雪のようだと思った肌は、光に当てられ艶を帯び滑らかで、今や陶器のような白さを誇っている。雪のように簡単に溶けてしまう儚さではなく、落としてしまえば簡単に砕け散ってしまいそうな脆さがあった。
今まで、これ程までにきれいな人を、私は見たことがあったであろうか。
「どうされましたか。」
「あっ、いえ……。」
あまりにも見つめすぎてしまったのだろう、女の問いに私は恥ずかしさを覚え、慌てて目を逸らす。逸らした先には、三段のささやかな中型箪笥が一つあり、物らしい物はそれだけに見えた。他にはなにもない。そのあまりの質素さに、私の中で疑問が沸いた。
「ここでの暮らしは長いのですか。」
「いいえ。いつもは下の方で暮らしておりますの。ここにはたまに訪れるだけですわ。」
「そうでしたか。」
ならばこれ程までに生活感がないのも頷ける。
しかし、女は何のためにこんな場所へと通うのだろうか。雪しかないこんな場所に。
「良かったわ。」
「え?」
「私が今日ここへ来なければ、他には何もありませんから。」
女の顔には、安堵の色が浮かんでいた。それは親しみを覚える、温かな表情であった。
確かに女が言う通り、今日この場所に女が居なければ、私はあのまま当てどなく彷徨い続けていたことだろう。偶然とはいえ、私は運が良かったのかもしれない。
「それは運が良かった。そうでなければ……、そういえば、どうして今日はここへ?」
こんな、視界も足場も悪い吹雪の日に。
私が言えた立場では無いが、酔いもせず正常な人が訪れるには、今日の天候はあまりにも都合が悪すぎた。
「来ると、思いましたの。」
そう言って、女は美しく微笑んだ。私は一時、眼を奪われた。この女は、なんと美しく、なんと温かく笑うのだろうか。
この時になって、私は初めて女を人らしいと思った。女の体内で、不釣り合いな程真赤な血が巡っている、私と同じ人間なのだと思えた。
出会った当初、何故私は女を人ではないと感じてしまったのか、今となっては不思議にさえ思えた。こんなにも女は人らしく、温かみに溢れているというのに。
「私が、ですか。」
「いいえ。私がずっと待っている方です。あの方も、ここへ来るはずなのですが……。」
女の遠くを見つめる瞳から、待ち人が私ではないことなど、聞く前から分かっていた。それでも私は、落胆せずにはいられなかった。私であったならどんなに良かったであろうかと、淡い期待を抱かずにはいられなかった。
「そうですか……。」
同時に、私がこの場にいることが、何か良からぬ事のように思えた。恐らく女が待っているのは、男であろう。そしてそれは、女の想い人。恋人か夫か、どちらにせよ、私という見知らぬ男が女と二人でいるというのは、都合が悪いように思えた。今帰ってくるとも分からない状況だ。私は途端に落ち着かない気持ちになった。
「どうされましたか。」
「いや、あなたの待ち人が来るかもしれないのに、私がここにいても良いのだろうかと……。」
誤魔化したとて、挙動不審を晒している以上、騙せるとは思えなかった。ならば正直に話すのが一番であろうと思った。
しかし女は、私の言葉が予想外のものであったらしく、大きな眼を見開くと、途端に声を上げた。
「お気になさらなくとも、心配いりませんわ。」
女のその声には、不都合などありはしないというような、何も起こりはしないという確信めいた強さがあった。
「それとも、ここへ来る途中、誰かと会われましたか。」
笑い止むと、女は身を乗り出して聞いてきた。期待の籠った眼に、私はたじろいだ。何やら変に期待をさせてしまったようだ。
「いや、そうではないのです。ただ気になりまして……。」
「では、誰にもお会いしてはいないのですね。」
「はい。」
ここへ来るまでの間、私は女の待ち人は愚か、誰かに会った覚えもない。誰かと会ったとすれば、こんな場所へは来ていなかったであろう。女と会うこともなかった。
「そうですか……。」
女はまた遠くを見つめるように言った。悪いことをしてしまっただろうか。私は女に対し、少しの罪悪感を覚えた。
「早く来ると良いですね。」
だから何か言わなくてはと思った。しかし慰めか謝罪か迷った末、私の口から出たのは、何とも在り来りな、気の利かない言葉であった。
「えぇ。早く、会いたいわ。」
「あ……。」
それは美しくも妖しい、笑みであった。
私はまたも女から眼が離せなくなった。一瞬でもこの女に温かさを感じたのが、不思議にさえ思えた。寒さを感じていたら、今頃私はその冷たさに、凍え震えていたであろう。
けれども私は生憎、寒さを感じない。
その時、焚き火から火花が散った。
私は逃れるように火に顔を向ける。しかし今見た冷たい女の笑みが浮かび、そして、温かな火。
冷たさ、温かさ、温度。私の中で、疑問が湧いた。
一体温かさとは、どんなものであっただろうか。
「もう戻られる時間のようですね。」
今度は、前にある炎から眼が離せなくなった。私はここへ来てからというもの、温かそうだと思えど、一度もその温かさを感じてはいない。いや、意識が戻ってから一度も……。
人が温度を感じなくなった時とは、どんな時であろうか。
「あの…」
私は前に座る女に問うために、面を上げた。しかし、女の顔が急にぼやけて見えた。眠気のような意識が遠のく感覚が、不意に私を襲う。
「大変ですわね。外は吹雪ですから。とは言え、私には見えないのですけれど。」
「え……?」
「あれは人には見えないようですわね。だから余計に光に惹かれる。ですから私は、火を焚いて明るくしていますの。ここへ、誘いやすいように。」
「どういう……?」
最早女には、私が見えてはいないようだった。遠くを見つめ、他の誰かを追い求めている。私はそんな女に、手を伸ばした。
「あなたのような方は、必ずここを通りますから……。その度に、あの方とお会いしていないかと聞くのですが……。けれど、なかなか現れてはくれない。」
次第に落ちてくる瞼に抗い、助けを求め藻掻くように、私は必死に女の方へと手を伸ばす。
「いつ、来て下さるのかしら。」
最早声は出ない。出たとしても、女に私の声が届くことはなかったであろう。
「もうすぐだと、思うのだけれど。」
女の透き通る声が雪のように解けて消えるのと、伸ばした手が届かないまま、私の瞼が完全に閉じてしまうのは、同時であった。
途端に何もなくなる。光はなく、暗闇ばかり。
私の瞼の裏にはただ、女の白さだけが残った。
眼を開く。瞬きを一つすると、そこは一面灰色で覆われていた。視界は悪く、人が居て良いとは到底思えぬ程、吹雪が吹き荒れていた。
何故私は、こんなところにいるのだろうか。
疑問は浮かぶが、答えは私にも分からなかった。
それでも、考えられることは一つだけある。いつものように酒に飲み溺れ、熱を持った身体を冷ますために、外へと出て行った。そのうちに、知らないこんな場所まで来てしまった。そのほかに、こんな場所まで来てしまう理由はなかった。
吹雪は強く、私をいつまでも襲い続けている。このまま立って考えたとて、この悪状況が好転することはないだろうことだけは明白であった。
だから私は、仕方なく歩き出す。
辺りは雪ばかりで、何か目指せるものもないが、私は足を前へと進める。灰色が濃い方へと向かっていく。ざくっざくっと、雪を踏み潰していきながら歩く。
私は何処に向かっているのだろう。
瞬きをする。閉じた時、瞼の裏に白いものが見えた気がした。しかし開けるとそれは消え、ただ灰色の景色ばかりが広がるだけであった。
私は一瞬見えたその白いものが、何だったのかと考える。
何か特別だった気がするが、思い出せない。そして考えれば考える程、その白は私の中から遠ざかっていく。次第に踏みしめる一面の白い雪と瞼の裏の白が混ざり合って、曖昧になってしまった。
追い求めるように再び瞬きをしてみたが、もう一度その白が瞼の裏に現れてくれることはなかった。結局、私がその正体を暴くことは叶わなかった。
しかし、それがとてもきれいだったということだけは、確かなことであった。
そして私は、灰色と混ざっていく。
また小説を書くとは思ってもみなかった。でも川端康成の小説を読むうちに、欲がむくむく湧いて、とうとう書いてしまった。
この話は、高原英里『川端康成異相短篇集』という本を参考に、どの話のオマージュという訳ではないけれど、自分なりに川端康成の文章と世界観を表現してみたもの。いわば真似。
とはいえ、全く表現も再現も出来ていないのだけれど…。
やはり文章力のない、まだ1回しか小説を書いたことのないど素人の自分には難しかった模様。
川端康成の十分の一も、美しさを表現出来なかった…。あの衝撃力も…。悔しい。
自分にはまだ、川端康成成分が全然足りていなかったようだ。(『少年』と『川端康成異相短篇集』の数個の短篇を読んだだけだから、当然と言えば当然だけれど)
書いている間も、ずっと頭の中で、違う違う違うと言われているような気がした。あの声はもしや、川端の康成さんだったのかな。こんなんじゃ全然駄目だ!と言われているかも…すみませぬ。未熟者故、どうかお許しあれ。
それでも、少しでも楽しんでもらえたら良いのだけれど。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様に幸福が訪れますよう、祈っております。
ではでは。
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