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短編小説:孤独な涙

 いくらかの桜の花びらたちが、春風と共にワルツダンスを踊っている。
 桜の木々には満開の桜が咲いている。

「今年も綺麗だなぁ」
 受験合格した僕は気持ちも晴れやかに、桜並木のある大きな公園に一人で訪れていた。平日とはいえ春休みだ。ファミリー層から恋人たち。社会人たちの飲みの会、仲間たちと和気あいあい楽しむ人たち。色々な人が桜を楽しんでいた。どの人も笑顔なものだから、僕もより笑顔になる。その中で彼女だけが不機嫌オーラ満載でパレットに向っていた。

「綺麗……」
 彼女が描いていたパレットを覗き込むつもりはなかったが、視力の良い僕の瞳は、興味のあるモノを捕えてしまう。
「お前もかッ!」
 紺色のセーラー服を揺らしながら勢いよく振り返った彼女は、見も知らぬ僕に叫ぶ。思わず僕は首を竦めて驚きを見せる。いきなりなんなんだというのだ。シェイクスピアの作中を彩るセリフのような叫びを言われたところで、意味が分からない。

「ぇ、っと……。その~ぁ! 絵を見てしまってごめんなさい。君のキャンパスを覗くつもりはなかったんだ。ただ、その~……見えたから。君のキャンパスに描かれた満開の桜が」
 僕はしどろもどろになりながら、そう言った。彼女の怒りの矛先なんてこれしか思いつかない。触らぬ神に祟りなし。謝罪は早急に行うと決めている。プライドをかざして面倒なことになるのはごめんだ。

「違うッ! さっきの奴もお前もなんでそうなんだ!」
 彼女は地団太を踏みながら憤慨する。ヒステリーな上に口が悪い。
 痛みのない艶やかな漆黒の髪が踊り狂う。重めの前髪が春風で浮き上がり、彼女の切れ長の瞳が露わになる。日本人離れした目鼻立ちの良さにハッとした。
 冷たい印象を与える目元だが、涙袋があることで、幾分かの柔らかな印象が含まれていた。桜色の唇から覗く歯は並びも良く、違和感のない白さをキープしていた。胸は控えめだが手足も長い。簡潔的に言うなら、美しい人だった。だが残念だ。彼女はとてもヒステリックな女性のようだ。正直、僕が一番苦手なタイプである。


「えっと、なにか気に障ったのなら謝るよ。ごめんなさい」
「謝るな!」
「ぇ?」
 彼女の叫びに驚き、彼女の言葉に戸惑う。謝罪を求めていたわけではないのだろうか? そもそも、何故見も知らぬ年下の少女に、返す言葉の否定ばかりされているのだろう。

「謝罪の矛先も分からないくせに、取り合えず誤っておけばことが収まるだろう、という考えが気に食わない。この時期も、満開の桜も、お前たちも嫌いだ」
「……それは、一理あると思うけど――どうして満開の桜が嫌いなの? 美しいと思わないの? 好きだから描いていたんじゃないの?」
 僕のことは百歩譲って嫌いでいいし、理由もわかりえる。だが、美しい満開の桜の絵を描いておきながら嫌いだと言うのには納得いかなかった。意味が分からない。

「私だって、幼い頃まで桜は美しいと思っていた。大好きだった。だけど、春が過ぎ去れば人の波が引いて、ココは寒々しくなってしまう。そんなの、可哀想だと思わないのか?どうして人は、綺麗な花が咲いている時期にしか、桜に興味を持たない。
 綺麗な花にしか興味を持たない大人達が好きになれない。なぜ人は、輝く人達ばかりに群がる。群れをつくれないモノには、輝く資格がないと言うのか?
 桜の花は木という本体から人を魅了させる。舞い踊る花びらで人を呼び寄せる。舞い落ちた花弁たちは、綺麗なうちだけは人に笑顔を与える。だけど雨が降り、泥に汚れれば、汚いと言われ、踏みつけられる花弁たち。私は桜を可哀想だと思う。と同時に、人間は残酷だ。そして、可哀想だ。美しいモノだけが美しいわけではない。雨に濡れ、土で汚れ、踏みつけられているモノたちにも、美しい物語があるというのに。
 その物語を読み解くこともせず、“今この瞬間”に美しいものにしか、強い興味を示さない。勿体ないとは思わないのか?」
 彼女は捲くし立てるようにそう言うと、微かに肩を上下させる。


「……」
 圧倒されてしまった僕は、何も言えなかった。
 彼女はギロリと僕を睨み、握り続けていた筆に灰色の絵の具をつけ、美しく描かれた桜だけを乱暴に汚す。

「ぁ!」
 僕は思わず声を上げてしまう。
「今、なんて勿体ないことを。折角綺麗に描いていたのに。折角の桜が――とか、思っただろ?」
 彼女は肩越しに振り向き、冷嘲するように笑って見せる。その姿は、どこかゾクリとするほど美しかった。


「……思ったよ。悪い?」
 僕はどこか開き直ったように言った。僕が何をどう思おうが勝手だ。
「なぜ故、みな、童に興味を持たぬ……。不公平、だとは、思わない……のか……ッ」
 彼女は一筋の涙を溢し、その場に倒れ込んでしまう。

「なっ⁉」
 僕は慌てて彼女に駆け寄り、少し躊躇しながら「ちょっと! 大丈夫?」と声を掛けながら、肩を揺する。
 名も知らぬ会ったばかりの人だ。単に倒れたのか、持病持ちだったのか何も分からない。僕はオロオロして辺りを見渡すが、驚くほど誰もいない。僕が歩いてきた道には、結構な人たちがいた。皆がずっとあの場所にいるとは考えにくい。微かな人の声すらも聞こえてこない。


「――無駄だ」
「ぇ?」
 困惑する僕を倒れた彼女が嘲笑うように見上げてくる。
「ちょ、大丈夫なの? 救急車呼ぼうか?」
 僕はスマホを取り出し、ロック解除をする。
「ぇ?」
 僕のスマホは壊れていないし、特別電波が悪い機種でもない。そもそもここは山奥やトンネルでもない、電波状況がいいであろう屋外だ。なのに電波が一切通じていないなんて、可笑し過ぎる。
「だから無駄だと言ったじゃろう? うつけものよ。ココにはもう、童(わらわ)と御主しかおらぬのじゃ」
 彼女は小馬鹿にするように鼻で笑うと、両掌の力で上半身を起こす。

「ちょっ! 起きて大丈夫なの? 頭とか打ってない?」
 僕は慌てて彼女に手を貸そうと左手を差し出すが、彼女の手でパシリと跳ね除けられてしまう。とんだじゃじゃ馬娘だ。
「己の心配よりも童の心配をするとは、とんだお人好しじゃの」
「ぇ?」
 小馬鹿にしたように鼻で笑う彼女は、漆黒の髪をサラサラと肩から流れ落としながら、綺麗な手で僕の顔を包み込むように持つ。


「童に喰われるとは、思わぬのか?」
「……ど、いう、こと?」
 ゾクリとするほど妖しげな笑みを口端に浮かべる彼女に問いかける声は、驚くほどに震えていた。彼女の手は小春日和とは思えぬほど、氷のように冷え切っている。まるで人間ではないようだ。
「童が、怖いのか?」
「わ、童?」
 僕は彼女が先程から一人称を変えてきたことと、今時ではない口調に困惑する。

「童は童だ。他の誰でもない。桜ではないし桜の花でもない」
「?」
 僕は彼女から視線を逸らす。彼女が何を言いたいのか分からない。もっと分からないのはこの状況だ。今もなお人はこないしスマホの電波はゼロのまま。彼女の両手を振り払おうとも、身体が硬直して動けない。一体何が起こっているというんだ。

「……君は、なんなの?」
 怪訝な顔で彼女を見る。
 彼女は何処からどう見ても僕達と同じ人間だった。同じ人間のはずなのに、どこか僕達とは違うように感じる。まるで、人間ではないような……不思議な感じだ。


「ん? 童か?」
 彼女は小首を傾げ、妖麗な笑みを口端に浮かべる。君の他に誰がいるというんだ。という言葉が僕の口から出てきてくれない。
「童は、お主が大好きな桜じゃ」
「……は?」
 思いもしていなかった彼女の言葉に、僕は思わず素っ頓狂な言葉を溢す。

「桜と言っても、童は桜の木だ。そして、桜の花は私の子供達も同等だ」
「こ、子供達?」
「如何にも。童は毎年、春の訪れと共に子供達を産む。桜の花を咲かせる、と言ったほうが理解しやすいじゃろう?」
 いや、どう言い換えたって理解できませんけど。一体何なんですか? 五月病の中二病でも始まったんですか? 何かのドッキリ的な撮影か、演技の練習台にでもされていますか? という言葉は恐怖で声にならない。
「子供達と言っても、桜の花がどこに舞い散ったところで、桜の木にはならない。タンポポは良いよのう。花を咲かせ、綿となり、風と共に子供達が羽ばたけば、どこかでまた新たなタンポポの命が芽生えるのだから。だが、桜は違う」
「?」
 彼女は一体何が言いたいのだろう?


「童は、子供達が産まれるまでは孤独だ。人は子供達を愛でるが、童を愛でることはない。ただの木だと思っている。桜の花が舞い散れば、まるで童は用無しのような扱いを受け、ココは寒々しくなる。それでも童は、毎年桜の花を咲かせ、春の訪れを告げ、人間を笑顔にさせなければならない。何故なら、童は桜の木として産まれたから」
「っは!」
 強張っていた全身の筋肉が一気に解れ、息のつまりが一気に解放される。

「はぁ、はぁ、はぁ」
 今まで上手く呼吸が出来ずにいた僕は、幾度かの荒い息を繰り返す。


「存分に人間界の空気を味わうがいい。それが、お主が最後に味わう清々しい空気だからの」
「どう、いう、こと?」
 僕の問いに、彼女は怪しげな笑みを口端に浮かべた。逃げなければ! そう直感が警告してくるが、身体が硬直して動けない。
 彼女の髪は見る見るうちに、茶色から焦げ茶色と変化しき、最後には枝のようになった。

「ほぉ。お主は聞いたことがないのか? 桜の木の下には死人が眠っているという話を」
「……ぼ、僕を、食べようって言うの?」
 全感覚で身の危険を感じるが、一歩も後ずさることが出来ない。もし身体が動いたとしても、振り向いて走り逃げる勇気はない。背中を見せてはいけない気がした。
「如何にも」
「た、食べて、どうするの? 美味しくないよ?」
 僕は空笑いを浮かべながら問いかける。恐怖で全身が微かに振るえている。

「童は童としての役目を果たさなければならない。その為には、養分が必要だ」
「その養分が、人間だと?」
「如何にも。昔は、桜が舞い散ったあと、感謝の宴をあげてくれる物達がいた。その者達の笑顔や感謝の言葉が、童の養分となっていた。だがいつしか、感謝の宴をあげてくれる者はいなくなってしまった」
 彼女は悲しさと悔しさが入り混じるような気持ちを隠すように、下唇を噛み締める。

「それでも何十年と、毎年桜の花を咲かせ続けた。ある日、一年中足を運んでくれた男がいた。その男の笑顔や話が童の養分となっていた。だが、人間の命は儚い。そして、人間は自由に行動できることが出来る。考えも移り気だ。気がつけば男はココへこなくなった。その男がいなくなって幾らかの月日が流れ、桜の花を散らした童の元へと訪れてくれる者はいなくなった。時折訪れることはあったが、散々なものだ。
 酔いどれの中年は童の身体に粗相をし、仕事が上手く行かないと嘆く男は憂さ晴らしに童の身体を蹴った。女子達は桜を散らした童は汚いと罵倒を浴びせる。受験に合格すれば童にお礼を伝えに来るが、落ちれば一切訪れることはない。人間はいつだって勝手な生き物だ。
 お前もそうだ。桜はキレイだと言う。だが桜の木だけを美しいとは言わないし、思わぬ。桜なんて嫌いじゃ。何故、童は桜の木として産まれたのだ? 桜を愛でる人間達も嫌いじゃ。誰も童の顔しか見ぬ。表面上の美しさにしか興味を持たぬ。童はずっとそこにいて、童としての役割を果たしておるのに」
 彼女はポロポロと涙を流す。


「……ごめん。ごめんなさい」
 僕はか細い声で謝り、いつの間にか動くようなった身体で、彼女をそっと抱きしめた。

「僕達が勝手だった。桜の花ばかりに気を取られて、桜の木を無下にしていた。桜の木があってこその、桜の花なのに。ごめんなさい。ずっと寂しい思いをさせて、孤独にさせてごめんなさい。僕だけじゃなく、君を無下にしてきた人間を代表して謝るよ」
 僕は誠心誠意を込めて、深々と頭を下げて謝った。だがそれで癒されるほど、なっとくするほど、彼女の受けてきた悲しみや苦しみは癒えるわけもない。

「……謝ってすむと思っておるのか? どうせ、その気持ちも今だけではないか。人間の心などいつだって不透明で移り気ではないか」
「……そうだね。人間の心は不透明でハッキリしない。それは、僕達が弱くて強くて、ずっと何かを求め、正しさを求め、考え続けているからなんだ。心が移り気なのは、生活環境や色々な出会いと別れを繰り返しているうちに、考え方が変化していってしまう。それは、僕達が生きている証拠で、成長していっている証拠なんだ。君だって、考え方が変わっただろ? だからさっき、僕を食べて養分にしようとした。違う?」
「……」
 彼女は僕の問い掛けに何も答えない。それは、肯定を意味していた。


「僕を食べて、君の養分にしたところで、君の孤独は癒えるの? 死人は話せないよ? 君を笑顔にすることも、楽しませることも出来ないんだよ? それでもいいの?」
 僕は彼女の両肩を包み込むように掴み、彼女の顔を覗き込むようにして見ながら、真摯に問いかける。

「……なら、どうしろというのだ? お前を喰らわなければ童の養分が足りず、次の年には桜の花を咲かせられなくなる。桜の木が病気だと判断されれば、童は殺されるかもしれない。そんなの、散々ではないかっ」
 彼女は悔しそうに下唇を噛み締め、枝になっていた髪を先程と同じ漆黒の髪に戻す。

「桜の花も、桜だけを愛でる人間も、桜に産まれてしまった童も嫌いじゃ」
 そう嘆くように言った彼女は、両手で顔を覆って泣き崩れてしまう。


「僕が、僕が君の養分となる」
「ほぉ。喰らわれたのか? 意味が分からぬな」
 僕の言葉に意外だとばかりに目を丸くさせた彼女は、小首を傾げる。
「違う。僕が桜の花が散った後も、君に会いに来る。君の孤独を癒し続ける。今の時代はSNSも普及している。上手く活用すれば、桜の木が輝くことがあるし、桜の木を愛でる人が増えるかも知れない。だからどうか、寂しい選択をしないで欲しい。君にそうさせてしまったのは僕達なんだけど……でも! 君を救えるのもまた僕達なんだ……。僕達が君の咲かせてくれる桜に癒され、励まされ、笑顔をもらえるように、君を癒し、励まし、笑顔に出来るのもまた僕達だと思うんだ。だから、もう一度だけ、僕達を信じて見て欲しい。君を独りにさせないから」
「……人間はよく信じてと言うな。浅はかだ。一度裏切られて、再び信じるなど、童には出来ぬ。難しい」

「どうしたらいい?」
 僕は眉根を下げながら問う。人間として、償いをしたいというのもあるが、彼女の孤独を本当の意味で癒したかったのだ。
「どうもせぬ。お前が童の養分となるため、桜の木の下で死体となって永眠振ればよいだけじゃ」
「それは出来ない」
「!」

「その道は、孤独しか産まれない。僕もまだ死ぬつもりはない」
「お前は勝手じゃ」
 上目づかいで睨んでくる彼女に負けじと、僕は話を続ける。

「そうだね。勝手ついでに言うけど、僕はこれから毎日君に会いに来る。もし来れない時は、家族や友人にやネッ友に来てもらう。そしたら寂しくない。それでも養分が足りないと感じるなら、僕を食べても構わない。だけど、食べるのは僕だけだ。家族や友人には手を出さないで」
「……勝手すぎる」
 彼女は呆れたように首を左右に振った。

「勝手だよ。それでも君は、勝手な人間達を愛してくれているんだろう?」
「何故故、そう思うのだ?」
 彼女は忌々し気に鼻を鳴らしながら問うてくる。


「君は死体の人間ですら欲している。死体が養分だと言うのなら、草木や動物や今週でも構わないはずだ。でも君が求めているのは人間だ。ということは、君は人間を愛しているってことなんじゃないの?」
「……人間、読み解くことに長けすぎている」
 どこか降参したように首を竦めて見せる彼女の雰囲気は、ほんの少し柔らかいものへと変化した。

「褒め言葉として取っておくよ」
「お前の言葉、忘れぬからな」
 彼女は釘を刺すようにそう言うと、人間の姿から光の粒子となり、この園内で一番細い桜の木に帰って行った。

 彼女が本来の姿に戻ったからか、辺りに人間達の声が響き渡り、幾人かの人達がこちらに歩いてくる。まるで、幻覚の中に囚われていたかのようだ。もしかしたら夢なのかもしれない。そう思う僕を諭すように、髪の毛のように細い木の枝が肩から一本落ちる。彼女の物だと一瞬で理解する。


「……今までごめんね。これからは、孤独にさせないから」
 僕は先程彼女が帰って行った桜の木を見つめながら伝え、落ちた彼女の髪の枝を手に取り、帰宅した。
 その後、僕は毎日のようにココへ訪れた。

 彼女が嫌いだと言う桜の花を、人間を、自分のことを、大好きだと言ってもらえることを願いながら――。

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