掌編小説 「しみ抜き』
すずらんクリーニング店の鈴原さんは、しみ抜きの達人だ。
何十年という長年の経験と幅広い知識を持ち、あらゆる技術を駆使して、どんな不可能と思われるしみでもすっかり元どおりに消してしまう。それはもう、人の技を超えている。まさに神技と呼べる。その奇跡の腕前を頼って、全国からも、さらには海外からも依頼が舞い込んでくるほどだった。
どんな小さなしみでも、お気に入りのものや、思い入れのあるものについてしまうと、とても残念な、悲しい気持ちになってしまう。日々の色が、ちょっとだけ、くすんでしまう。けれどもそのしみを綺麗に取り除けば、日々の色はまた明るさを取り戻す。
しみのついたものを捨てて、新しいものや、別のものと交換するのも良いだろうと、思う。だけどしみがついていまったからもう駄目になってしまったと、あきらめることも、ないのだ。鈴原さんはだから今日もお客様の依頼に、全身全霊で応える。日夜しみ抜きの研究を重ね、決して努力を怠らない。それが家族を持たない鈴原さんの生きがいだった。
ある日、一人のお客さんが店にやって来た。四十代くらいの女性で、目元に深々と青黒い隈がある。美しい顔立ちの人だが、その翳りが、彼女の印象を淋しいものにさせていた。
「どんなしみでも取ってくれると聞いてうかがったのですが」
女性は頼りなげな細い声で云った。鈴原さんは柔和な笑顔で応じた。
「はい、うかがいましょう」
彼女は小振りのハンドバックだけを持っていた。
「そのしみのついたお洋服は、今日はお持ちじゃないんですか?」
「しみ抜きをしてほしいのは、服ではないんです」
「では、その鞄ですか?」
やや緊張した面持ちで、女性はかぶりを振った。「人生のしみを抜いてほしいんです」
「人生のしみ……ですか、」
予想もしない答えに、鈴原さんは目をまるくする。
「こちらのクリーニング店では、取ってくれないしみはないのだと、噂に聞きました。どんな難しい汚れでも、まるで新品に戻ったかのように消してくれると。だったら私の人生についたしみも、きっと取ってくれるだろうと思って、今日こちらへ参ったのです」
さすがの鈴原さんも、こんなしみ抜きの依頼ははじめてだった。少し困って、白髪まじりの後頭部に手を当てた。
「しみ抜きの依頼ならもちろんどんなものでも承りますが、人生……ですか。どうでしょう、とんとやったことがありませんので、できるかどうか」
「お願いします。どうしても取っていただきたいのです。私の人生についたしみ……そのしみのおかげで、私の人生は台無しになってしまいました。何もかも思うようにいかず、不幸続き。もうずっと、ずっと、ずっと、ずっと、このしみが厭で、憎くて、消したくてたまらないのです。しみを抜いて、綺麗にしてもらえば、私も幸福になれるかもしれない。だからどうかお願いします」
女性は長い髪を垂らして頭を下げた。地面に泪のしずくがしたたり落ちた。
鈴原さんは覚悟を決めた。
「わかりました。できるかどうか保証はできませんが、力を尽くしてみましょう」
「ありがとうございます」
女性は顔を上げると、持っていたハンドバッグから絹の巻物となったその人生を取り出して、鈴原さんに預けた。
「どうぞよろしくお願い致します」
安心したような表情で女性が帰っていくと、鈴原さんは預かった彼女の人生を広げた。しっとりとした乳白色の、上等の絹だった。そのなかばに、たしかに似つかわしくない大きなしみがついている。何で出来たしみかは判じ難い。だがひどく淋しい汚れ方だった。思いがけずやわらかなものを踏み潰して、うろたえるばかりに余計に汚れを塗り広げてしまったみたいに。
さて如何にしてこのしみを取り除こうか。鈴原さんは腕組みをして考えた。この繊細な絹の生地を傷めることなく元のとおりにするには、一体どのようにしたら良いのだろう。すぐに答えが出るわけがなかった。
それから二ヶ月もかかって鈴原さんは悩み抜き、託された人生のしみ抜きを行った。
女性に預かった人生を返すと、彼女はその場で絹を広げた。驚いたように目を見張り、
「ああ、すっかり消えてしまっている。本当に、すっかり綺麗になって……」
たちまち泪に潤んだ。
「どうもありがとうございます。まさかここまで綺麗に取り除いて下さるなんて……しみなんて、一度もついたことのないみたいに。ああ、何だかこれからの人生、きっと良いことばかり起こるような気がします」
「いえいえ、ご満足いただけて何よりです」
鈴原さんは目じりに皺をいっぱいに寄せて微笑んだ。これまでになく作業は難航したが、喜ぶ女性の姿に、その苦労もどこかへ行ってしまった。
女性は何度もお礼を云って、帰っていった。去り際の足取りは、軽やかだった。彼女のこれからの人生に、たくさんの幸福が訪れますように。鈴原さんは心から願った。そして、自分もその手出すをちょっぴりでも出来たのなら、こんなに嬉しいことはないと、思った。
それから数ヶ月後、鈴原さんは偶然にもその女性を街なかで見かけた。彼女の顔からは、あの暗い隈が消えていた。しかし彼女の表情には、静かにたなびくような淋しさが鎮座していた。
鈴原さんは声をかけようか迷ったが、彼女の方から鈴原さんに気がついて、会釈をしてきた。
「こんにちは。先日はどうもありがとうございました」
鈴原さんも会釈を返した。「いえいえ。その後、いかがですか、」
訊ねるつもりはなかったのに、訊ねてしまった。すると女性は睫を伏せて、
「あれだけ丁寧にしみ抜きをしていただいて、こんなことを云うのは申し訳ないのですが……、」
「はい、何でしょう」
「しみ抜きなんかしない方が良かった。何だか近頃は、そう思うんです。あれから気持ちが晴れやかになって、良いことがたくさん起こりました。でも、悪いことも同じくらいたくさん起こりました。よくよく考えてみれば、それはしみを抜く前だってそうだったんです。しみがあっても、無くても、良いことも悪いことも、同じように、起きる」
鈴原さんは黙って頷いた。
「それからぼんやりとして気力の無い日がずっと続いて。何をしても、どこか薄味と云うのか、あんまり何も感じなくなってしまって。毎日、毎日、同じ色に塗り潰されたみたいに生活をして……。そんな自分に気づいたら、どうしてでしょうね、無性にあのしみが恋しくなってしまったんです」
「そうでしたか……」
女性は弱々しげに笑みを泛かべた。
「すみません、こんなこと。せっかく手を尽くしてしみ抜きをしていただいたのに」
「いえいえ。それが私の仕事ですから。お客様に頼まれれば、どのようなしみでも抜きます。けれど、きっと、しみはただの悪ものと云うのでもないのでしょうね」
女性は目頭を指で押さえて、頷いた。鈴原さんは彼女のブラウスの襟元に、点々とついたしみを見つけた。トマトソースのようだ。
「そのブラウス、襟元にしみがありますね」
彼女は襟をつまんで確かめ、頬を赤らめた。
「やだ、お恥ずかしい。一体いつつけたんでしょう。全然気がつかなかったわ」
鈴原さんはわざと、ははは、と、声に出して笑った。女性も照れくさそうに、笑う。
「このブラウス、しみ抜きしてもらえますか?」
「はい、喜んでさせていただきます」
「お願いします。これからしみ抜きは、服だけにしておきます」
女性の表情が、ほんのわずか、明るくなった。鈴原さんは目じりにめいっぱい皺を寄せた。
「はい。どうぞ、いつでもどんなものでも、お任せ下さい」
【 終 わ り 】
*フォトギャラリーから素敵な作品をお借りしました。どうもありがとうございます*
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