見出し画像

【日記】見えるもの見えないもの


「目に見えないもの」がこれまでより見えるようになってきた気がする。


◆隠れた感情に気づくとか

頭で「こう捉えることにしよう!」と考えていたことが、パカンと割れて、本当はそんな価値観にはなじめない!と感じている自分に気づいたり。

そうすると、自分を俯瞰で見ている自分が「そっか、こんな風に感じていて本当はすごくつらかったんだ」と気づく。


自分に共感して泣けてくる。


共感して泣くことはしょっちゅうあって、HSP的な性質がでてるのかもしれない。

小さな頃から半世紀、いろいろと「敏感な性分で」少数派だったから。


HSPなんて言葉もなく本も出てない頃から、ずーっと自分と格闘してきて、なんとかポジティブに捉える工夫をこつこつやってきたのだ。


HSPの話はさておき、
膨大で、ぐにゃ~~っとしたもの。目に見えないけどそこに「ある」ものがいろいろ見えてくるこの頃。

でもオカルトやスピリチュアルなことではない。そういうのはないです。


◆子育てのときのこと

見えてきたものの例として、過去への振り返りで1つ挙げるなら「子育て」のことだなぁ。


子供が1歳で、私はフルタイムで働きに出ていた(共働き)。


育児と仕事の両立はすごく忙しい。


保育園に子供をお任せして、せっせと仕事してお金を稼いでいた。


今になって気づくのは、その時の「忙しさ」はだれの目にも見える「忙しさらしい忙しさ」だったのだけど、子供のめんどうをみることに必要な「忙しさ」に気づかずにいたこと。


「忙しいですよ!」とすさまじい音のサイレンがずっとずっと鳴り響いていた。私にむけて。

「これに気づいて!」と真っ赤な色の光を放つ信号がくるくるくるくるまわっていたのに。


音は耳に届かず、光も目に見えてこなかった。


その合図は、「赤ちゃんに自分の心を、ゆったりした気持ちで、たっぷり向けなさい。このことであなたは忙しいのですよ、今!」ということだった。、、、と今になって知る。


「ゆったりした気持ちで」がどんなものかは、多忙な日から何段階もゆる~い方へ身を落ち着かせていかないと本当にはわからない。


それは「せっせと働くいかにも忙しい忙しさ」とは真逆で、ゆったりすると満ちてくる穏やかな気持ちと充実感を求める方の、いかにもじゃない忙しさ。


「忙しさ」と表現しないと、わかりやすい忙しさに時間を奪われてしまうから、真っ向から対立させて明確にしなければならない「静の忙しさ」。


目に見えないから気づきにくい。自分の中には「感じ」があったのに。


どこでどうしたらいいかわからず、「急ぐこと」や「時短」くらいしか考えつかなかった。


「何かをやっていない感じ」があって私はあわあわしてた。


ゆったりした時間を持つ方へ。もっと言えば「なにもない時間をやさしい気持ちでただ漂う」くらいの在り方へ。そんな発想ができていたら、、、と思う。


当時の「何かができていない感じ」はここから来ていたのだろう。


こんな風に、何年もたってハッと見えてくることがある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?