見出し画像

1999年の映画劇『タデウシュ殿』

1569年7月1日(永禄12年閏5月17日)~1795年10月24日(寛政7年9月12日)、ポルスキ語ラティン語を公用語とするポルスカ王国(Królestwo Polskie)とリエトゥヴァ大公国(Wielkie Księstwo Litewskie)は、二度の分割を経ながらも、ひとつの公益体をなしていた。

1791年5月3日(寛政3年4月1日)、ポルスカ王国リエトゥヴァ大公国の59歳の君主スタニスワフ二世アウグストゥ(Stanisław II August、1732年1月17日~1798年2月12日)は敵対する民主派の愛国派(Stronnictwo Patriotyczne)と妥協し、世襲の王制をもつ立憲君主制の「5月3日憲法(Konstytucja Trzeciego Maja)」を制定した。

1793年11月23日(寛政5年10月20日)、ポルスカ王国リエトゥヴァ大公国議会(セイム、sejm)は5月3日憲法の撤廃第二次ポルスカ分割(II rozbiór Polski)を受け入れさせられた。

これにより、ポルスカ王国リエトゥヴァ大公国の人口は1772年9月22日(明和9年8月25日)のポルスカ第一次分割(I rozbiór Polski)前の3分の1にまで減少し、ラッスィーア帝界の傀儡国となり、各地にラッスィーア軍が駐留してほとんど独立を失った。

1795年10月24日(寛政7年9月12日)、ポルスカ王国リエトゥヴァ大公国が、プロイスィシュ語を公用語とするプロイセン王国(Königreich Preußen)、ハプスブアク家帝界ラッスィーア帝界に完全に分割された。

1797年1月26日(寛政8年12月29日)、ラッスィーア帝界ハプスブルク家帝界プロイセン王国の代表が、ポルスカ王国リエトゥヴァ大公国第三次ポルスカ分割(III rozbiór Polski)条約を調印した。
この交渉にポラーツ人代表は出席していなかった。
ポラーツ人の独立国家は123年にわたり消滅した。

1834年6月28日(天保5年5月22日)、パリで、35歳のアダム・ミツキェヴィチ(Adam Mickiewicz、1798年12月24日~1855年11月26日)著のラスィースキ人帝界の支配下にあった故郷リエトゥヴァへの郷愁に満ちた12篇の長篇叙事詩『タデウシュ殿、またはリエトゥヴァでの最後の略奪。1811年から1812年にかけてのある貴族の物語、韻文の12篇で』Pan Tadeusz, czyli ostatni zajazd na Litwie. Historia szlachecka z roku 1811 i 1812 we dwunastu księgach wierszem(Aleksander Jełowicki)が刊行された。

2022年(令和4年)7月1日、69歳の的場昭弘(まとば・あきひろ、1952年10月25日~)著『「19世紀」でわかる世界史講義』(日本実業出版社、本体2,000円)が刊行された。

第4章「近代という観点 三十年戦争と国民国家」、「19世紀の東欧」より引用する(146~147頁)。

 ヨーロッパで、このような西欧の影響を長い間受けないままだったのが、東欧地域です。16~17世紀、東欧はオスマン・トルコとロシア帝国の侵略を受けたことで、近代国民国家への可能性が摘み取られていたのです。
 やがて、オスマン・トルコの衰退と西欧地域の力の増大によって、東欧諸地域は帝国の中に潜んでいる必要がなくなってきました。その端緒をつくったのがナポレオン[Napoleon Bonaparte、1769年8月15日~1821年5月5日]です。ナポレオンが、中・東欧地域のナショナリズムを喚起することになったのは、まさに西欧地域がプロイセン帝国やオーストリア帝国、ロシア帝国、オスマン帝国を弱体化させたからです。
 1848年にスラブ民族会議がプラハで開催されていますが、オーストリア帝国とプロイセン帝国に支配されていたスラブ民族の独立への契機は、こうした民族主義運動によって始まります。そうした独立運動をもたらしたのが、フランス革命の「自由」という原理で、フランスやイギリスがそのモデルとして機能します。フランスとイギリスが「近代」で、それに対してプロイセン帝国、オーストリア帝国、ロシア帝国は「非近代」となり、とりわけオスマン帝国は「非近代」の典型と目されることになります。
 1850年以降に進む独立運動は、バルカン地域、イタリア地域などの独立運動を刺激します。

2007年(平成19年)3月1日発行、渡辺克義(1960年~)編『ポーランド学を学ぶ人のために』(世界思想社、本体1,900円)、第9章、西野常夫(1958年~)「ポーランド文学史」、2「啓蒙主義・ロマン主義:実証主義・「若きポーランド」」、「ロマン主義」より引用する(175~176頁)。

 1830-31年の11月蜂起は大量の亡命者を生み、ポーランド文学を亡命者文学と国内文学の2つに分けたが、この時代のポーランド文学の担い手はミツキェヴィチ、スウォヴァツキ[Juliusz Słowacki、1809年9月4日~1849年4月3日]は、クラシンスキ[Zygmunt Krasiński、1812年2月19日~1859年2月23日]などの前者であった。
 ポーランドのロマン主義は1822年、ヴィルノ(当時はロシア領ポーランド。原リトアニアのヴィリニュス)におけるアダム・ミツキェヴィチ(1798-1855)の『詩集[Poezje]』[1822年、1823年]の出版に始まる。秘密結社に関わったため、23年、生地を追放され、以後、異国において祖国の独立を願い続けた彼の生涯は、創作と実践のいずれにおいても、ロマン主義的精神を体現したものであうといえる。
 リトアニアに伝わる祭を書割とした幻想的な未完戯曲『父祖の祭[Dziady]』(1820-32)は、物語の脈絡がつかみにくい難解な作品である。冒頭詩「亡霊[duch]」、第二部、第四部、未完の第一部では主にグスタフ[Gustaw]の失恋の苦悩に焦点が当てられ、最も長い第三部では、詩人コンラト[Konrad]に変貌をとげたグスタフが、幸福をもたらす秩序を地上に創り出すというプロメテウス的野望を抱き、そのための力を神に要求する全編のクライマックスが描かれる。第三部ではまた、ピョトル神父[Ksiądz Piotr]が、諸民族のキリストであるポーランドの苦難の歴史と未來における復活を暗示する黙示録的な幻を見る場面が有名で、ミツキェヴィチが予言詩人、あるいは国民の精神的指導者と見なされたのは、主としてこの第三部のためである。
 もう一つの代表作『パン・タデウシュ[Pan Tadeusz, czyli ostatni Zajazd na Litwie]』(1834)は、ナポレオン時代のポーランドの独立運動と、詩人の望郷の念を、貴族の令息タデウシュ[Tadeusz]の帰郷に託して描く長編叙事詩である。ポーランド人なら誰でも知っている冒頭詩句「リトアニアよ! わが祖国よ![Litwo, Ojczyzno moja!]」で始まるこの作品を最後に、ミツキェヴィチはほとんど詩を書いていない。以後、詩人のロマン主義的熱情は実践的行動に注がれる。

1900年(明治33年)6月15日発行、博文館創業十三週年紀念『太陽』(博文館)臨時増刊(第6巻、第8號)『十九世紀』(上製70銭、並製50銭)、25歳の上田敏(うえだ・びん、1874年10月30日 ~1916年7月9日)著、第5部「文藝史」、3「北欧文學」より引用する(190頁)。

眼を轉じて北歐スラアヴの文學を見るに、波蘭土ポーランドアダム、ミキエ非゛ッチ(一七九八―一八五五)の大名あり。愛國の士にして慷慨悲憤こうがいひふんの調高く、沙翁さおう[William Shakespeare、1564年~1616年]シルレル[Friedrich von Schiller、1759年~ 1805年]、バイロン[George Gordon Byron、1788年~1824年]の翫賞ぐわんしやうに詩才をみがきたれど、本來の力は、民謡の研究にもとづけり。千八百三十八年巴里パリ版行はんこうの叙事詩「パン、タデウシュ」二巻は彼が一生の傑作なるのみならず、スラヴ文學の名璧めいへきなり。

1918年(大正7年)11月11日、欧州大戦が終結し、ドイチュ人帝界ラッスィーア評議会社会主義連邦共和国から領土を割譲され、ポラーツ人の民界国家であるポルスカ共和国が独立した。

1919年(大正8年)3月22日、大日本帝国ポルスカ共和国を独立国として承認し、外交関係を樹立した。

政界往來』(政界往来社)1934年(昭和9年)5月号(30銭)、6月号(30銭)に、アダム・ミツケヰ゛ッチ作、47歳の加藤朝鳥(かとう・あさとり、1886年9月19日~1938年5月17日)譯『祖國行――ぱん・たぢうす』が掲載された。
タデウシュ殿』Pan Tadeuszの冒頭の二篇の抜粋訳だ。
当時の駐日ポーランド公使、39歳のミハウ・モシチツキ(Michał Mościcki、1894年9月29日~1961年3月4日)「『ぱん・たでうす』移植に際して」も添えられた。

1934年(昭和9年)5月25日、朝、47歳の加藤朝鳥が、軽い脳溢血で倒れたため、連載は途絶した。

1983年(昭和58年)10月、バークリで、72歳のチェスワフ・ミーウォシュ(Czeslaw Milosz 、1911年6月30日~2004年8月14日)著『ポルスカ文芸史』The History of Polish Literature(1969年初版)第2版 (University of California Press)が刊行された。

1989年(平成元年)7月15日、第16回マスクヴァ多民界映画祭で、アダム・ミツキェヴィチ祖霊祭』Dziady原作、タデウシュ・コンヴィツキ(Tadeusz Konwicki、1926年6月22日~ 2015年1月7日)脚本・監督の映画劇『溶岩流アダム・ミツキェヴィチ「祖先祭」の物語』Lawa. Opowieść o „Dziadach” Adama Mickiewicza(129分)が公開された。

第四部の隠者(Pustelnik)(グスタフ(Gustaw))、序幕、第三部の亡霊(duch)、第三部のグスタフ(コヌラトゥ(Konrad))、詩人(poeta)の役を、グスタフ・ホロウベク(Gustaw Holoubek、1923年4月21日~2008年3月6日)が演じた。

グスタフ(コヌラトゥ(Konrad))の役を、アールトゥル・シュミエフスキ(Artur Żmijewski、1966年4月10日~)が演じた。

1999年(平成11年)8月10日、「講談社文芸文庫」、アダム・ミツキエヴィチ著、74歳の工藤幸雄(くどう・ゆきお、1925年3月20日~2008年7月5日)訳『パン・タデウシュ』(上)(講談社、本体1,600円)が刊行された。

1999年(平成11年)9月10日、「講談社文芸文庫」、アダム・ミツキエヴィチ著、工藤幸雄訳『パン・タデウシュ』(下)(講談社、本体1,600円)が刊行された。
解説は久山宏一(くやま・こういち、1958年~)だ。

1999年(平成11年)10月18日、ヴァルシャヴァで、アダム・ミツキエヴィチ原作、72歳のアンジェイ・ヴァイダ(Andrzej Wajda、1926年3月6日~2016年10月9日)脚本・監督の韻文の映画劇『タデウシュ殿』Pan Tadeusz(154分)が公開された。
撮影は1998年(平成10年)7月3日~9月2日におこなわれた。

フランセ人帝界(Empire Français)の皇帝ナポレオンのマスクヴァ遠征を目前に控えた1811年~1812年のリエトゥヴァの農村を舞台に、対立する小貴族(シュラフタ)のソプリーツァ家(Sopliców)とホレシュコ家(Horeszków)に生まれた若い男女の愛を描く。

タデウシュ・ソプリーツァ(Tadeusz Soplica)を26歳のミハウ・ジェブロフスキ(Michał Żebrowski、1972年6月17日~)が演じた。

没落したホレシュコ家の孤児ゾーシャ(Zosia)を15歳のアリツィア・バフレダ・ツルシュ(Alicja Bachleda-Curuś、1983年5月12日~)が演じた。

ローバク司祭(ksiądz Robak)、タデウシュの父ヤーツェク・ソプリーツァ(Jacek Soplica)を46歳のボグスワフ・リンダ(Bogusław Linda、1952年6月27日~)が演じた。

ヤーツェク・ソプリーツァに主人のホレシュコ卿を殺され、ソプリーツァ家への復讐を誓う忠臣ゲルヴァーズィ・レウンバイウォ(Gerwazy Rębajło)を53歳のダニエル・オルブリフスキ(Daniel Olbrychski、1945年2月27日~)が演じた。

2006年(平成18年)5月10日、チェスワフ・ミウォシュ著 、54歳の関口時正(せきぐち・ときまさ、1951年12月~)、51歳の西成彦(にし・まさひこ、1955年1月27日~)、51歳の沼野充義(ぬまの・みつよし、1954年6月8日~)、長谷見一雄(はせみ・かずお、1948年~)、64歳の森安達也(1941年11月22日~ 1994年8月15日)訳『ポーランド文学史』(未知谷、本体10,000円)が刊行された。

2013年(平成25年)12月11日、「ポーランド文学古典叢書」第2巻、アダム・ミツキェーヴィチ著、久山宏一訳『ソネット集』Sonety(未知谷、本体2,000円)が刊行された。

2014年(平成26年)6月7日、12日、東京国立近代美術館フィルムセンターの映画特集上映「EUフィルムデーズ2014」(5月30日~6月22日)で、映画劇『溶岩流』Lawa. Opowieść o „Dziadach” Adama Mickiewiczaの日本語字幕版が上映された。

2014年(平成26年)10月1日、「ポーランド文学古典叢書」第3巻、アダム・ミツキェーヴィチ著、62歳の関口時正訳『バラードとロマンス』Ballady i romansy(未知谷、本体2,500円)が刊行された。

2018年(平成30年)8月14日、「ポーランド文学古典叢書」第4巻、アダム・ミツキェーヴィチ著、久山宏一訳『コンラット・ヴァレンロット歴史物語――リトアニア人とプロイセン人の故事より』Konrad Wallenrod, powieść historyczna z dziejów litewskich i pruskich(未知谷、本体2,500円)が刊行された。

2018年(平成30年)11月15日、「ポーランド文学古典叢書」第8巻、アダム・ミツキェーヴィチ著、66歳の関口時正訳『祖霊祭 ヴィリニュス篇』(未知谷、本体2,500円)が刊行された。
『祖霊祭』Dzieła第3巻の抄訳だ。

2019年(平成31年)4月8日、ヴロツワフのイェジ・グロトフスキ研究所(Instytut im. Jerzego Grotowskiego)で、日本-ポーランド国交樹立100年記念、グロトフスキ研究所シアターΧ共同創造演劇、アダム・ミツキェーヴィチ原作、64歳のヤドヴィガ・ロドヴィッチ(Jadwiga Rodowicz、1954年5月11日~)演出『DZIADY 祖霊祭』の公演がおこなわれた。

2019年(令和元年)5月21日、 東京・浅草・西徳寺で、グロトフスキ研究所シアターΧ共同創造演劇『DZIADY 祖霊祭』の公演がおこなわれた。

2000年(平成12年)12月16日発行、「エキプ・ド・シネマ」(岩波ホール)No.134「パン・タデウシュ物語」(700円)

2000年(平成12年)12月16日、東京・神保町の岩波ホールで、映画劇『パン・タデウシュ物語』Pan Tadeuszの日本語字幕版が公開された。

2022年(令和4年)11月22日~27日、東京都写真美術ホールで、CULTURE.PL、ポーランド広報文化センター、スコピャ・フィルム、マーメイド・フィルム、VALERIA主催「ポーランド映画祭2022」が催された。

11月23日、10時30分、25日、13時15分、27日、17時30分、映画劇『パン・タデウシュ物語』Pan Tadeuszの日本語字幕版が上映された。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?