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谷崎潤一郎『春琴抄(しゅんきんしょう)』

1933年(昭和8年)5月20日発売の『中央公論』(中央公論社)6月特大号(80銭)に、46歳の谷崎潤一郎(1886年7月24日~1965年7月30日)の中篇小説「春琴抄」が掲載された。

鵙屋琴(もずや・こと)は、大阪船場せんば薬種やくしゅ卸問屋おろしどんやの街道修町どしょうまち浄土宗じょうどしゅうの七代目の|薬種商の二男四女の二女として、104年前の1829年6月25日(文政12年5月24日)に生まれた。

数え年5歳から6歳で店から十丁(約1km)ほどの距離のうつぼ春松検校しゅんしょう・けんぎょうこと三味線しゃみせんを習い始め、数え年9歳で失明し、数え年11歳で4歳年上の丁稚の温井佐助(ぬくい・さすけ)の三味線の師匠となった。

両親の望んだ佐助との結婚を子頑なに拒み続けながら、驕慢きょうまんな美女となった琴は、満16歳の1845年(弘化2年)10月、有馬温泉で温井佐助の男の子を産んだ後、その子を養子に出した。

春松検校の亡くなった年、数え年20歳で淀屋橋筋よどやばしすじ春琴の名で琴と三味線の師匠となり、未婚のまま、入浴で体中を洗ってもらうなど身の回りの世話をしてくれる佐助と同居を始め、数え年37歳の年の3月末、兇漢に鉄瓶の熱湯を頭の上から浴びせられた頭部に全治2か月の火傷を負い、47年前の1886年(明治19年)6月上旬に脚気かっけにかかり、10月14日に満57歳で亡くなった。

琴と佐助のあいだには、養子に出した長男のほか、二男一女があり、女児は分娩ぶんべん後に死に、男児は二人共赤子の時に河内かわちの農家へもらわれ、絶縁した。

108年前の文政8年に江州日野ごうしゅうひの日蓮宗にちれんしゅうの薬屋の家に生まれた温井佐助、のちの温井検校は、琴が失明した直後の数え年13歳の時、鵙屋に丁稚奉公でっちぼうこうに上がり、ほかの女中、丁稚らと交代で、琴を春松検校の家まで送り迎えし、数え年14歳で琴の指名により琴の唯一の手曳てびき役となった。

数え年15歳の夏に三味線の独習を始め、半年後にそれが主人に発覚し、三味線を没収されかけたが、数え年11歳の琴のはからいで二階の居間で琴に三味線を教わることとなり、数え年18歳で主人により丁稚の任務を解かれ、直接春松検校の教えを受けながら琴の手曳き役だけを任務とするようになった。

数え年20歳で滿15歳の琴を妊娠させ、結婚を拒まれながらも、数え年24歳で春琴の世話役として同居を始め、数え年41歳の時、春琴の火傷が癒える頃、縫い針で自分の両眼を突いて失明し、以後も春琴の身辺の世話を続け、春琴の死後4年目の1890年(明治23年)、数え年66歳で検校となり、春琴の祥月命日しょうつきめいにちの26年前の1907年(明治40年)10年14日に数え年83歳で亡くなった。

1863年生まれ、本年、数え年71歳の鴫沢照(しぎさわ・てる)は、1874年(明治7年)、数え年12歳で、火傷を負って9年目の数え年46歳の春琴の内弟子うちでしとなり、数え年50歳の佐助に三味線の手ほどきを受けた。春琴と佐助の信任を得て長く奉公し、春琴の死後は、佐助が検校の資格を得た1890年(明治23年)まで彼に仕えた。佐助は自分を「お師匠様」と呼ぶのを禁じ、「佐助さん」と呼ばれるのを喜び続けた。

1933年(昭和8年)12月10日、谷崎潤一郎著『春琴抄』(創元社、1円90銭)が刊行された。表紙には黒漆塗りと朱漆塗りの二種類がある。

附録に、小説「蘆刈」と戯曲「顏世」が収められた。

2020年(令和2年)10月1日、山中剛史(やまなか・たけし、1973年~)著『谷崎潤一郎と書物』(秀明大学出版会、本体2,800円)が刊行された。
造本は真田幸治(1972年~)だ。


1935年(昭和10年)6月15日、谷崎潤一郎原作、37歳の島津保次郎(しまづ・ やすじろう、1897年6月3日~1945年9月18日)脚本・監督の映画劇『春琴抄 お琴と佐助』(110分)が公開された。

撮影は1935年(昭和10年)4月24日に始まった。

台詞監修:小野金次郎(1892年~1981年)
考証・舞台装置:48歳の小村雪岱(こむら・せったい、1887年3月22日~1940年10月17日)
筆曲作曲・演奏:64歳の今井慶松(いまい・けいしょう、1871年5月14日~1947年7月21日)

春琴:25歳の田中絹代(1909年11月29日~1977年3月21日)
佐助:23歳の高田浩吉(1911年11月7日~1998年5月19日)

利太郎:32歳の斎藤達雄(1902年6月10日~1968年3月2日)
安左衛門:56歳の藤野秀夫(1878年5月16日~1956年2月11日)
しげ女:56歳の葛城文子(かつらぎ・ふみこ、1878年7月29日~1945年8月19日)
琴の姉:19歳の坪内美子(1915年6月22日~1985年11月3日)
貞造:37歳の河村黎吉(かわむら・れいきち、1897年9月1日~1952年12月22日)
直吉:24歳の磯野秋雄(1910年10月20日~1986年1月21日)
金どん:32歳の谷麗光(たに・れいこう、1902年11月15日~?)
お楽:28歳の松井潤子(1906年12月7日~1989年8月1日)
加平:50歳の水島亮太郎(1884年9月30日~1954年)
春松検校:51歳の上山草人(かみやま・そうじん、1884年1月30日~1954年7月28日)
正吉:35歳の坂本武(1899年9月21日~1974年5月10日)
ならず者の親父武田吉郎
ならず者の娘
小栗寿々子
お君
:38歳の飯田蝶子(1897年4月17日~1972年12月26日)
お梅:27歳の雲井つる子(1908年2月27日~?)
春琴の弟子A:20歳の大塚君代(1914年11月23日~1996年2月1日)
春琴の弟子B :17歳の小桜葉子(1918年3月4日~1970年5月12日)
鵙屋の女中A:63歳の二葉かほる(1871年10月7日~1948年1月22日)
鵙屋の女中B:21歳の香取千代子(1913年8月22日~?)
店員A:41歳の石山龍嗣(1893年9月2日~1973年)
店員B:18歳の小藤田正一(こふじた・しょういち、1916年12月2日~?)
美子:30歳の村瀬幸子(1905年3月21日~1993年10月9日)
検校の弟子A久原良子
検校の弟子B大関君子
医者:48歳の野寺正一(1886年10月5日~1939年6月30日)
有馬宿の女中A青木しのぶ
有馬宿の女中B六郷清子
番頭赤池重雄
芸者A:33歳の吉川満子(1901年6月21日~1991年8月8日)
芸者B:28歳の若水絹子(1907年3月11日~1968年12月1日)
芸者C:28歳の若葉信子(稲垣きくの、1906年7月26日~1987年10月30日)
芸者D:20歳の忍節子(しのぶ・せつこ、1914年7月22日~?)
芸者E:16歳の高杉早苗(1918年10月8日~1995年11月26日)
幇間A:39歳の宮島健一(1895年7月5日~?)
幇間B:28歳の日守新一(ひもり・しんいち、1907年1月10日~1959年9月12日)
若旦那A:34歳の小林十九二(こばやし・とくじ、1901年3月10日~1964年6月11日)
若旦那B:31歳の大山健二(1904年2月8日~1970年)
若旦那C:31歳の山内光(やまのうち・ひかる、岡田桑三、1903年6月15日~1983年9月1日)

1935年(昭和10年)8月20日、島津保次郎著『音畫脚本集 お琴と佐助』(映畫世界社、1円50銭)が刊行された。
装幀は48歳の小村雪岱だ。

1936年(昭和11年)3月20日発行、34歳の飯島正(1902年3月5日~1996年1月5日)、内田岐三雄(うちだ・きさお、1901年~1945年)、29歳の岸松雄(1906年9月18日~1985年8月17日)、27歳の筈見恒夫(はずみ・つねお、1908年12月18日~1958年6月6日)編纂『映畫年鑑 一九三六年版』(第一書房、1円80銭)、谷崎潤一郎『春琴抄』の映畫化」より引用する(102~103頁)。

 こんど『春琴抄』が松竹蒲田で映畫化されることになつた。ああいふ、映畫化の非常に困難だと思はれるものをとりあげたのは、ただ『春琴抄』を映畫にするといふことばかりではなく、あそこではこれからも、大衆文藝や通俗小說でないいはゆる純文藝の映畫化の計畫をたててゐて、それらのひとつとして『春琴抄』がまづとりあげられたものである。實は六車修氏からさうした話があつて映畫化されることになつたのだが、さてさういふものが出來あがるだらうか、島津保次郎が脚色・監督して、装置や何かは小村雪岱氏がやつてくれてゐるとのことだが、ああいふものを思ひきつて映畫にするにあたつては、なんといつても各方面の關係者が同じ程度によく揃つてゐてくれないと、どうしてもいいものが出來あがらないやうな氣持がする。春琴には田中絹代が扮すると聞いてゐるが、あのひとは大變に人氣のある女優らしいけれど、はじめこんどの話があつた時、自分は岡田嘉子が演るのではないだらうかと思つてゐた。しかし正直にいつて、といつでも自分はいまの日本の映畫界のことを殆ど知つてはゐないけれど、春琴や佐助やその他の『春琴抄』の人物をよくいかせてくれるやうな男優や女優は、恐らく一人もゐないのだらうか。それに、こんなことをいふと、折角意氣ごんで製作してゐるひとたちには實際すまない話だが、映畫になつた『春琴抄』には自分は殆どのぞみをかけてゐない。從つて、出來あがつたものを見るつもりもない。尤も、のぞみといふものを一旦放うつてしまつて、どの程度までのものが出來あがるかといふことだけを、樂しみにすれば樂しみに出來ないこともないだらうけれど、いまのところ、自分はそれを見るつもりを少しも持つてゐない。これは、別段『春琴抄』に限つた話ではないが、どうも自分のものの映畫化されたものを見ることは、これまでの經驗からいつても、自分には辛抱出來さうにない。

 そんなわけで、島津保次郎が脚色した臺本も送つてもらつたが、まことにすまない話ながら、それも自分は讀んでゐない。脚色といへば、映畫と文藝とは全然別のものであるから、たとへば『春琴抄』なら『春琴抄』を映畫化しようといふ場合、原作の持つてゐるものを映畫的に十分よく生かせるためには、それを自由自在に解體して再び組立てることはかまはないし、またさうするのがよいと自分は思つてゐるが、それにはやはり脚色するひとが、充分に信頼出來るひとでないと困ると思ふ。島津保次郎氏は近頃なかなか好い仕事をしてゐるといふことであるし、さういふ意味で、まづ信頼してよいひとの一人であらうと自分も思ふが、實際脚色者といひ、監督といひ、俳優といひ、これはと思へるやうなよいひとが、どうも日本映畫界には現れても稀れなやうだ。名前をあげると惡いから差控へるが、日本の映畫界では第一流だといはれるやうなひとたちでも、自分などから見るとまづまづ普通といへる程度で、これは別に年齢が多いから少いからといふやうなわけではなく、なんといふか、一體に他の方面のひとたちに比べて、やはりレベルが高くないやうに思はれて仕方がない。本當に監督らしい監督、俳優らしい俳優が非常に少いこと、さういふことがやはり自分に日本映畫を見る氣を起させないわけといへるだらう。いや、さういへば日本映畫ばかりでなく、ちかごろは外國映畫も殆ど見なくなつてしまつたのは、つまり、日本のものといはず外國のものといはず、映畫を見たくて見に行くといふやうなことがなくなつてしまつたのは、自分にはそれに對する關心といふものが最早なくなつてしまつてゐるからだらう。どうも、その方が本當にちかいやうなわけで、入江たか子やカザリン・ヘプバーンなどといふ名前を聞いてゐても、まだスクリーンの彼女たちを見たことはないし、また親しくしてゐた岡田時彦なんか、死ぬ少し前にはうまいうまいと評判されるやうになつてゐたが、これも彼の出てゐるもので見たものといつては、ずつと以前、一緒に大活で仕事をしてゐた時分のものぐらゐだらう。このあひだ、エリザベート・ベルクナーの『女の心』が非常によいとの話をあちこちで聞いて、では久しぶりに映畫を見ようかと實は思つたのだが、それさへも、何かの用事にかまけてそのままになつてしまつた。


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