父と向き合った日々6 旅立ち

2022年9月30日に退院しました。
数値的には良くなっていましたが、足の指をつめたのと、寝たきりで筋力が落ちて歩けなくなっていたので、医師からはもう少しリハビリしてから退院が良いと言われましたが、父はもう病院にはいたくないとのことで、折り合いをつけて退院しました。
退院した後は体調が良かったですが、やはりお酒はやめられない性分でした。
長期入院していたので、足に筋力はなく車椅子で、身体の不自由な母が父の介助をしたりしていました。
私は、実家とは離れて暮らしているのと、私自身も疲労が重なっていたので、週に1、2回通い、マッサージを続けるのがやっとでした。

退院した日に、母との50周年の結婚記念日が入院中だったので、そのお祝いをと母の好きな薔薇を50本プレゼントし、自分の食べたいものを食べ、お酒も飲み大変喜んでいました。

母にプレゼントした50本の薔薇
父に頼まれて私が注文しました😆


父自身の体調も良くなっていたのと、父は小皿一枚分しか食べなかったので、好きなものを幸せに食べた方が身体に良いと思い、父の食べたいものを買って行きました。
ある日父から酔った声で
美味しいものを食べることができて、良いベッドで寝ることができて(介護用ベッドを購入しました)レモンの木の良い景色も見ることができて幸せだ。いつ死んでも悔いはない。
と電話がありました。

父はベッドからレモン🍋の成長や数を
楽しみに見ていました。


一周忌後の2023年の今年はなんと!
180個近く収穫しました✨



この声を聞いた時に、本当に良かったと私も幸せな気持ちになりました。
その晩にスッキリとした青空の夢をみて父はこれで悔い少なく天に行くのかなと何処か察していましたが、父の死を信じたくはありませんでした。

10月25日
私は横浜での仕事に通っていました。
父から電話があり
自宅から職場が近くても身体が辛かったらホテルに泊まれ。そのくらいの金は俺が出してやる。金より自分の身体を一番に考えろ。と優しい声と言葉に私は涙がでました。これが父としたまともな最後の会話でした。

10月26日
父に電話したら、体調悪いと言っていたので心配でしたが、母が 自分がいるから大丈夫だと 言ってくれました。

10月27日
私は横浜で仕事をしていたら、母から父が入院したと昼に連絡があり、私はいよいよかなと仕事中にも関わらず涙がでてしまいました。
夕方病院から、父がもう危ないという旨の電話がありました。
職場の御夫妻の大変温かな御配慮ですぐに病院に向かわせていただくことができました。

私はもう意識不明かと思っていたら指が動いていて、父の意識もハッキリしていたので
まだ生きている
と思い安心しました。
父にも
生きてるじゃん!
と言ったら、父は
毎度のことだ
と怪訝そうな顔で言ってました。

足からか肺からか細菌感染をし、低体温になっていて救急室で処置してもらっていました。
母が様々に入院の手続きをしている間、私はずっと父のそばにいました。
腰が痛いというので、脊柱マッサージを1時間半くらいずっとすることができました。父は楽になってきたと言ってくれました。
この時、父に合わせて、私は無理な体制でマッサージしたので腕が筋肉痛になりましたが、父が亡くなった後には、この筋肉痛は父が生きていた証のような感じがしました。

その時に父の担当をしてくださった藤沢市民病院の湖山先生と看護師の方(お名前を忘れてしまいました。)のご対応が本当に素晴らしかったです。

細菌感染というと、一緒に住んでいた母が自分の不備だったのではないかと自分を責めそうになっていたのですが、先生はそういう問題ではなく、誰のせいでもないと丁寧にお話しくださいました。

母は身体が不自由なので倒れるといけないのと、当時はまだコロナが流行っていたので、病室には一人しか入れないとのことだったので先に帰ってもらっていました。

父は今は元気に見えるけれども、あと30分後に亡くなる可能性もある。この状態で生き残った人は自分の経験ではみたことがない。延命処置をするかどうかの判断を先生に聞かれました。
父は兼ねてから
人間らしく死にたいから延命処置はしないで欲しい
と言ってました。
先生にも延命処置はしないで欲しい
と言っていたそうです。
でも、いざそれを私に聞かれると、私が父の命を奪ってしまうようで答えられずにいました。
それを察した先生が、私の目を真剣にみて
ご本人がどう生きたいのかどうしたいのかそれが大切だと思います。
と言ってくださり、私も
私達の為に生きることではなく、父自身の選択を私は尊重したい
ということを言った記憶があります。
先生が
お父さんの意識があるのでお父さんに聞きますか?
と言ってくださり、父の元へ行きました。
父はまだ自分の状況がわかっておらず
まだわからない
と言っていましたが、私が
今決めないといけないんだよ
と優しい口調で伝えました。
そうしたら
もういい
と言いました。
今でもその顔をはっきり覚えています。
父は自分で判断してくれました。
先生は、私の気が済むまで父と一緒にいさせてくれました。30分くらいかな。
江戸っ子気質の父の手を握ることは元気な時はできませんでしたが、この時はずっと手を握ることができました。
お父さん愛してるよ。ありがとう。
を何回も伝えることができて、父も聞いていてくれました。
私は今振り返っても、このような時間を私達にくれて、本当に素晴らしい先生だと心から感謝しています。
ICUを出た廊下の椅子で、私は一人呆然としていました。
事情があり親戚と縁がなく、私がしっかりしないといけないという責任感と孤独と私はどうしたら良いのだろうかと呆然としていた時に、お世話になっているハワイに住む方へメールをしていました。

そして私は家に帰りました。夜11時くらいだったと思います。
父の魂がもう肉体から離れているのを不思議と感じていました。
この時の私の心境は、自分でも驚くくらいにとても静かでした。
夜も眠れなかったのですが、先程のハワイに住む方がメールの返信をくださり、私のメンタルをずっと支えてくださっていました。
何故か朝7時くらいに病院から電話が来るのがわかっていたので、私はほとんど眠らずに、朝7時にすぐに出れるようにいろいろ準備していました。父が7時に連絡入れると言ってくれた感じがしました。

几帳面な父らしく6時59分に病院から父が亡くなったと連絡がありました。
私は準備していたのですぐに迎うことができ、後から来た母と合流しました。
父のお腹の上には私が父の御守りにと作った勾玉を乗せてくれていました。これを置いて最期まで治療してくださったそうです。

2022年10月28日8時28分に死亡確認をしました。
10月31日が父と仲良かった父の母の命日で、私の誕生日は2月28日なので、10月28日とは父らしい旅立ちだなと思いました。

父は75歳で永眠しました。一般的には75歳はまだ若いのかもしれませんが、父にとってみたら大往生です。
何があっても大好きなお酒はやめず50代から死をどこか意識しているところもあり70過ぎたらおまけの人生(ありがたい)だと、自分はやりたいことやってきたから悔いはないとよく話していました。
私も父のような最期が良いなと思うくらいで、本当に見事な最期でした。

病院の先生とはなかなか相性の良くなかった父でしたが、川嶋先生や藤沢市民病院の湖山先生と最期に素晴らしい先生方に恵まれて本当に良かったなと思いました。

父が危篤時から亡くなるまでの間は、私は一人でどうしようもない不安と孤独と責任感に苛まれていましたが、ハワイに住むお世話になっている方がずっと私のメンタルを支え続けてくださいました。本当にありがたくて、今も深く心から感謝しています。
そして、当時はコロナ禍でしたので、死亡後三時間以内に葬儀場を探して病院を出なければならず、どうしたらいいかわからない時に、お世話になっている茶道の先生方がいろいろ教えてくださり大変助かりました。
また横浜で仕事途中でしたが、お世話になっている温かなご夫妻が私の仕事の片付けをすべてやってくださいました。
皆様に支えていただき、今も心から深く感謝しております。

父は信頼する川嶋先生に
美味しいものを食べて、大好きなお酒を飲んで苦しまずに死にたい
と話していました。
そして、私には
長生きなんかしたくない。ほどほどのところで逝きたい。
と話していました。
通常、腎臓や心臓を患うと苦しむそうですが、細菌感染による低体温だったので、さほど苦しまずに、まさに本人の望み通りに逝くことができました。
亡き顔もなんとも良い顔でした。

父の想いを聞き、いつも父を励まし、父と私に寄り添ってくださいました川嶋朗先生に心からの感謝を申し上げます。
願わくばまたお会いできたら嬉しいなと思っております。

私は無宗教ですが、父を通して感じたことは、
人は亡くなり方や亡くなる場所、亡くなる時間を決めている
という説に同感しました。
父の場合は1年かけて亡くなる日までに少しずつ肉体を脱いで行っているようなそんな感覚がありました。
周りはつい
あの時ああしていれば
とか
自分のせいではないか
お酒さえ飲まなければ
とか様々なことを思ってしまいがちだけれども
本人の生き方、そして本人の魂と天との約束は周りの人間にはどうすることもできないのではないかなと感じました。
お酒を飲まずに長生きをすることは父の望みではありませんでした。
人は必ずいつかは死を迎えるので、いかに父が幸せにこの世を離れることができるかのサポートすることが大切だと私は思っていましたし、今もそう思います。

父の寿命という氷をなんとか溶けないで欲しいと必死に抱えていて、でも抱えていた氷はどんどん溶けていってしまう。そんな感じの時間だったようにも思います。
人は必ず肉体を離れる時が来るというのを私は心の底では信じていなかった、信じたくなかったように思います。

そして、何回も父の奇跡的な体験を目の当たりにしてきて、ひとつの物差しでは測れない人間の身体には様々な可能性があるように感じました。
このことをきっかけに、私は食や自然療法、エネルギーワークに興味を持って、私のペースで学んでいます。
また、親戚と縁がなくとも、いざとなった時に、本当に多くの皆様が親身になって支えてくださいました。このことを心に刻み生きていきたいと思いました。
重ねて心からの感謝を申し上げます。

長い文章にお付き合いいただきありがとうございました。

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